夢のあとさき 5
無事ショーを終えた蘭は、プロデューサーはじめ関係者に謝り倒したあと、客席にいる招待客のところへやってきた。蘭の晴れ舞台を喜んだ家族や友人たちが彼女を囲む。
凪が英知を見やると、英知は微笑ましそうにその様子を見ていた。
「…桜沢さん」
思わず、声を掛ける。英知が蘭に約束したのは、あのランウェイでのことだけだ。それなのに、彼女の姿はまだ親しい人たちには見えているようだ。
「出血大サービス」
英知は片目をつぶって見せる。椅子から立ち上がるのが億劫なほどには、体力的には厳しいが、タイムリミットを告げるタイミングではない気がしていた。
「あんな顔、されちゃうとね」
英知の視線の先では、最後に自分の晴れ舞台を見て欲しいと蘭が願った人たちと、幸せそうに蘭が微笑んでいる。
英知はゆっくりと立ち上がり、凪を誘ってセレナの楽屋へ向かった。協力してくれたセレナに礼を言い、ステージが素晴らしかったことを伝える。それ以上の長居は迷惑になるし、セレナのマネージャーがいい顔をしないので、早々に退散した。
楽屋を出て二人が歩いていると、「英知くん、凪ちゃん」と声を掛けられた。振り向いた二人の前に蘭がいた。
「ありがとう、英知くん。お陰で、思っていたよりも穏やかな気持ちで行けるわ」
「…お別れは?」
「言えなかった。けど、最期に、みんなの笑顔が見られてよかった」
きっと、この後、彼らに訪れるのは、悲しみだ。深い情で結ばれた関係であればあるほど、その別れの時は辛さを増す。けれど、命に逆らうことはできない。
「そう…よかった」
英知はわずかに唇に笑みを乗せて、蘭を見送った。蘭はもう一度、英知と凪にお礼を言って、ふわり、とシャボン玉のように消えた。
歩き出した英知は、「関係者以外立入禁止」と書かれたゾーンを出て少しすると、足を止めた。
「……佐原さん、ちょっと、トイレ行ってくるから、先にロビーに行っててくれる?」
凪は、別に待っていてもかまわなかったが、そう言われたので、わかったと答えて歩き出した。
英知は、トイレのほうへ続く通路を歩く。実は、英知の目的はトイレではなく、人気のない場所へ行くことだった。すでに多くの人は会場を出ており、このあたりに人の姿はない。
壁に片手をついて、壁伝いに歩く。だが、足は重くなるばかりで、とうとう動きを止めた。胸を掌でさすって、せり上がる吐き気をこらえる。この吐き気に耐えきれなくなったら、きっと、終わりだ。発作が起きたら、引き返せなくなる。
迫り来る、声。抗うことのできない『感覚』の波。
「……う……っ」
小さなうめき声が口から洩れて、英知は口を掌で覆う。やがて英知は力尽きるように、ずるずると壁にもたれてその場に崩れ落ちた。
大きく息を吐き出して、体を動かし、何とか背中を壁に預けて床に座る。
少々、いや、だいぶ、力を使いすぎたのだ。そのせいで、コントロールができなくなっている。コントロールを失うと、あの発作が起きる。
耳をふさいでも、流れ込む、無数の声。その中に、探してしまう。目を閉じても感じる、有象無象の姿。その中に、探してしまう。
彼女の声を、彼女の姿を。
あの時。蘭を見かけた時、一瞬彼女かと思った。その長い黒い髪に、彼女を見たのだ。
───直緒……どうして───
「桜沢さん!」
その声に、引き戻される。顔を上げると、通路の窓から差し込む眩しい光を背に凪が英知を覗き込んでいた。英知からは、凪は神々しい光に包まれているように見えた。
「大丈夫?」
凪は英知の前に膝を折って様子を伺う。英知の体調が悪いのはわかっていたので、心配になって追いかけて来たのだ。
「…佐原…さん…」
不思議だ。凪が現れただけで、吐き気がすうっと引いて行く。
目の前に現れた凪の顔に、思わず手を伸ばしかけて、英知は思い留まる。この状態で凪に触れれば、彼女に余計なものを聞かせたり見せたりしてしまうかもしれない。
それに、いくら心が休まるからといって、彼女を精神安定剤のように扱うのは、どうかとも思った。
「桜沢さん?」
英知が引っこめようとした手を、凪が掴もうとする。
「触るな」
ビクリ、と凪の手が止まる。
「あ、ごめん。俺、いま力をコントロールできなくて」
慌てて英知は謝った。
「…だから、佐原さんに余計な…」
英知の言葉を遮るように、凪が英知の手を取った。
「大丈夫」
凪の表情は穏やかで、まるで慈愛に満ちた女神のようだ。
「私は大丈夫」
両手で英知の右手を包み、凪は微笑む。
「一人で、無茶ばっかりしないで」
この人は、いつも自分を犠牲にして無茶ばかり。でも私だって、この人の役に立ちたい。
「私にできること、ある?」
「───ある」
英知は凪の手を引き寄せる。
「側にいて」
「うん」
凪の肩に英知はことりと額を落とす。肩に掛かる重みと熱に、凪は緊張する。
「…それから、俺が触れることを、許して欲しい」
「う、うん…」
すでに凪の手は英知の指に絡め取られている。それ以上触れるとは、どういう意味なのかと凪は動揺する。
英知の左手が背中に触れる。ドキリとした凪が身を強張らせる。けれども英知は、緩く、柔らかく、しかし逃れることを許さないほどに凪を拘束する。
目を閉じて、英知は、自分が凪の存在に癒されていることを実感した。
どうしてこの子の側は、こんなに心地好いのだろう。この子の持つ、清廉な空気のせいか。いや、それだけじゃない。
この子に触れると、絶えず押し寄せる声の波が遠ざかる。うねる『感覚』の海が鎮まる。必死にもがかなければ溺れてしまいそうになる海が、「凪」の状態になる。心地好い静寂。聞こえるのは、息遣いと心臓の音だけ。
英知は顔を上げ、左手をうなじへ滑らせる。ビクリと揺れる凪の体を再び緩く拘束して髪を撫でる。耳に掛かる英知の息に、凪は顔を真っ赤にして目をつぶった。
さらり、と指の間から零れ落ちる凪の長く黒い髪を、薄く開けた目で見つめながら英知はもてあそぶ。
…そう言えば、この髪に、直緒を重ねて見たことはない。
あの時、蘭の黒く長い髪が、彼女に見えて、自分ではない女の子と一緒にいるところを見たら、彼女はどう思うだろうと思った。なのに、今は、蘭を直緒かもしれないと思っていたことを、凪に知られたくない。
彼女が心に残した痕は今でも深いはずなのに、この子に触れた瞬間に、輪郭が薄らぐ。
自分の抱える感情に、英知は戸惑う。けれども、まるでそれが本能であるかのように、凪に触れる手を離すことはできなかった。




