夢のあとさき 1
柔らかくて、温かい。甘い、感触。
手放すのが惜しいほどの、得も言われぬ安心感。
「……俺、変態かもしれない」
じっと自分の掌を見つめて呟く英知に、テーブルを挟んで向かいに座っていた林 健吾は、ページを繰っていた本から顔を上げた。
英知の前に広げられた本もノートも、次の授業までの空き時間にレポートのために勉強しようと健吾と共にこの学食へ来てテーブルに広げた時から進んでいるようには見えない。傍らに置かれたジュースにも手をつけていない様子だ。
ということは、健吾が本を読み出してからずっと、英知は今の発言に至るまで何かしら考え込んでいたということだ。
「いきなり、何のカミングアウトだよ?」
健吾の声には呆れの色が混じっているが、英知が急にそんなことを言い出した理由に興味を抱いてもいるようだった。
「…あの子に、触りたくて仕方ない」
はあ、と悩ましげに溜め息をついて、英知は頭を抱える。
「その発言は、確かに変態チックだけど。でも、好きな子に触りたいなんて、男なら普通のことだし、凪ちゃんなら許してくれるだろ、たぶん」
一旦手元の本に視線を落として、しおりを挟み込み、再び目を上げた健吾は、英知の様子に眉根を寄せた。
「何で、そんな驚いた顔してんだよ?」
健吾の正面で、英知は心底驚いたように目を丸くして固まっていたのだ。
「…え、いや、俺、佐原さんだなんて、一言も言ってないし……」
「なに、その触りたい相手って、凪ちゃんじゃないわけ?」
「…いや、そうなんだけど、でも、好きな子ってわけじゃ……」
「好きでもない子に、誰彼かまわず触りたいなら、確かに変態だけどな」
健吾に断言されて、英知は口をつぐむ。
「俺は、お前は最初から凪ちゃん狙いだと思ってたけど、違うの?」
「狙っ……」
予想外の言葉に、英知は詰まる。
「そんなつもりがなかったんなら、無意識か」
健吾は訳知り顔で英知を見やる。
「どう考えても、お前は凪ちゃんだけを特別扱いしてるだろ」
そんな意識はなかった英知は、黙って健吾を見上げた。その瞳に理由を問われて、健吾は、やれやれ、といった風に肩をすくめた。
「だってお前、部活にコーチに行った時も、真っ先に凪ちゃんに声かけるし、みんなでどこか行こうってなった時も、凪ちゃんが行くって言えば行くし。それに、凪ちゃんには、自分から積極的に近付くだろ」
確かに凪に近付くのは、英知の意思かもしれない。だが、他の人にだって、近付かないということではない。健吾とだって、英知から声をかけて友達になったはずだ。英知は、自分が無愛想だとは思わないし、どちらかといえば社交的だと思っている。
凪にだけしか自ら近付かないと言いたげな健吾の言い分は、英知には理解できない。
「奈留が言ってた。お前って、結構女子から人気あるのに、みんななかなか近付けないんだって」
奈留というのは、三ヶ月ほど前にできた健吾の彼女だ。
「お前が、『みんな友達』って線を引いて、女子が近づくのを何気に拒んでるから」
「……そんなつもりは、ないけど…」
「俺も別にそんなこと思わなかったけど、奈留が言うには、女から見ればそう取れるんだって。だから、保奈美さんがお前に告白したのは、チャレンジャーだって女子には評判だったらしい」
「そうなんだ…」
一つ年上のサークル仲間である保奈美に付き合って欲しいと言われたのは、なぜかほとんどのサークル仲間が知っていた。
「そん時、お前は『好きな人がいる』って断ったんだろ。だから俺はてっきり、それは凪ちゃんのことだと思ったんだけど」
「いや、あれは、断る口実で…」
誰かを想定して言ったわけではなかった。
凪のことは、好きだと思う。側にいて欲しいとも思う。でも、それは、彼女が持つ清浄な空気が、自分の力の暴走を防ぎ、安心感を与えてくれるからなのだろうと思う。
英知は、凪のことを精神安定剤のように使ってしまっているのかもしれないと反省もしていた。体調を崩して発作が起きた時も、気持ちの昂りに任せて誤った力の使い方をして落ち込んだ時も、つい、彼女に助けを求めてしまった。
凪の存在は、確かに英知にとって特別だ。だがその特別を、簡単に恋や愛と結び付けるべきなのか、英知にはわからない。
それに、過去のことに気持ちの整理がつかないまま、誰かを好きになるなんて、できない気がしていた。
「ふうん。じゃあさ、凪ちゃんが他の男とデートするって言ったら、お前どうする?」
手にしたジュースのストローを咥えたまま、英知は固まった。そして、ストローを離すと、ゆっくり健吾を見やる。
「お前がしばらく部活に顔出してない間に、ほら、あいつ、何て言ったっけ、公衆の面前で凪ちゃんに告白した奴」
「岡崎 陸斗」
「そう、岡崎。そいつが、凪ちゃんをしつこくデートに誘ってて」
ジュースのカップを持つ英知の指に知らずに力が入る。
「まあ、行くかどうかは凪ちゃん次第だけどな」
無表情にも見える英知の顔とは対照的にベコリとへこんだジュースのカップを見やって、ニヤリと健吾は笑った。
土曜日の部活が午前中で終わった後、凪や千早たちは誘い合わせて、コーチの大学生たちとカラオケボックスに来ていた。
「ねえ、何歌う?」
「あ、新譜入ってる。水戸セレナ」
「ああ、いいよね、その人」
友人の声に、凪の声が弾む。
「凪も好き? “ナイチンゲール”」
うん、と凪は頷いた。水戸 セレナは、最近デビューしたばかりの新人歌手だ。その歌声の美しさから、“小夜鳴鶯の歌声”と呼ばれている。
友人たちと女子高生らしくきゃいきゃいとはしゃぐ凪を、英知はソファに座ってジュースを飲みながら横目で眺めていた。
先ほど千早から聞いた凪と陸斗のやり取りを思い返す。先日の部活のあと、部活が終わって来たらしい陸斗が凪に声を掛けたという。それはすでに何回目かのことで、「デートしようよ、凪ちゃん」と当たり前のように陸斗は口にした。凪は「ごめんね、その日は友達と一緒にカラオケに行くの」と断った。「凪ちゃんて、俺が誘うと、いつも用事が入ってるよね」「ごめんね」残念そうに肩を落とす陸斗に、凪は謝った。「また来るよ」と陸斗は去って行ったという。
何となく面白くない気分になって、健吾に言われたことを思い出し、英知は考え込む。
「…くん、英知くん!」
ハッと顔を上げると、凪の隣に座った千早が身を乗り出していた。
そちらを向くと、凪と目が合い、顔を赤くした凪に思いっきり目を逸らされた。あの日以来、凪は英知を避けているようだ。自分が原因なのだが、英知はほんの少し落胆の色を隠せない。
「はい、英知くんも何か歌ってよね」
なぜか呆れ顔の千早が、その手に持ったカラオケの入力機を英知に渡した。
2010年初稿、2019年改稿。




