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S.O.S!  作者: 如月 望深
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孤独のランナー 5

 黙ったまま下を向いている陸斗に、凪は気まずくなって、声を掛けた。

「新記録、出せて良かったね。宮野くんも、それを期待してたから」

「いや、あれは…」

 顔を上げて陸斗は首を左右に振った。

「…あの時、俺にはあいつの背中が見えてたんだ」

 こんなことを、この子に言っても仕方がないとは、頭ではわかっていても、陸斗は誰かに言わなければ気が済まなかった。

「だから、あの記録は、俺のじゃない」

 偶然、前に祐基が出した記録を抜いたのだとしても、自分よりも早い記録をあの背中は出しているはずなのだ。それが、記録に残らないだけで──…。

 凪は困ったように眉尻を下げ、嘆息して英知を見上げた。

「…桜沢さん、この人、やっぱり伝言だけじゃ無理かも」

 苦笑した英知は階段を降りて、陸斗に声を掛けた。ちょっと来て欲しいと言うその男が、さっき自分にぶつかった男だと気付くまでに、陸斗は少し時間がかかった。そして、なぜその男が凪と一緒にいるのか、自分を連れてどこに行くのか、と疑問に思っている間に、男は人気のない場所へ陸斗を連れていき、足を止めた。

「やっぱり、直接話すのが一番だと思うよ」

 そう言って微笑んだ男は、陸斗の肩をポンと叩いた。何の話だ、と問おうとする前に、陸斗の前から体をずらした男の背後に、あるはずのないものを見つけて、陸斗は絶句した。

 瞠目する陸斗の目の前で、彼は微笑んだ。

「───み…や、の……?」

 やっとのことで相手の名を口に乗せる。相手が頷く。

 間違いなく、さっきレース中に見た、あの背中の持ち主。見慣れたジャージ姿のその男に、陸斗は混乱を隠せない。

「……なんで…?」

 もう、いないはずの人間だ。あんな話、誰かが冗談で言うものではない。顧問からだって、ちゃんと聞いていた。だから、この目の前にいる人物は、やつの一卵性双生児ふたごの兄弟か、瓜二つの他人か、あるいは錯覚か、悪魔が見せた幻影か。

「最後に、会いに来たんだ」

 本当は、ちょっと様子を伺うだけのつもりだった。英知に一緒に行かない?と誘われて、最後に一目、ちゃんと頑張っているのを見たら、それで満足していけると思った。だけど、

「お前があんまり不甲斐ないから、じっとしていられなかったんだよ」

 だから、ついレースに乱入してしまった。

「…本当に、宮野、なのか?」

 声は、聞き覚えがある。見た目だって、表情の作り方だって、あの、走り方だって。

「お前は、ライバルの顔をそんなにすぐに忘れるのかよ?」

 問われて、陸斗は首を左右に振った。忘れるわけがない。いつだって、彼の存在は、陸斗の中で誰よりも大きく、立ちはだかっていたのだから。

 じっと見つめる陸斗に、祐基は視線を返した。

「俺は、勝ち逃げするからな」

 挑発するような、眼光。

「悔しかったら、自分の力で記録を更新しろ」

 憎まれ口のようだが、確かな激励だった。

 ふっ、と、陸斗は笑いを洩らした。

「…お前、バカじゃねえの?」

 眉根を寄せる祐基に、陸斗は笑いを向ける。

「普通、最後に会う相手なんてのは、好きな女とか、家族とか、相場が決まってんだろ。それなのに、何で俺なんだよ?」

「それは俺も、すごい不満だ」

 拗ねたように横を向いて、祐基は呟いた。

「だけど、お前には、俺を忘れて欲しくなかったから…かな」

 家族なら、何も言わなくても、俺のことを忘れたりはしないだろう。好きな女なら、いっそ俺のことなど忘れて、ちゃんと誰かと幸せになって欲しいと願う。

 だけど、ともすれば俺のことなど簡単に忘れ去って、俺のずっと先を行ってしまいそうなこの男には、俺というライバルがいたことを、忘れて欲しくなかった。

「…どうやって忘れろって言うんだよ?」

 前髪をガシガシと掻いて、陸斗はため息をついた。

「勝ち逃げなんかしやがって、悔しくて、忘れられる訳ねえだろ」

 口の端に乗せた笑みを陸斗が向けると、それにつられるように、祐基も笑みを返した。


 祐基と陸斗の爽やかな別れを見送って、英知と凪は陸上競技場をあとにした。陸斗は、これからも、祐基の想いを胸に走り続けることだろう。

「ハッピーエンド、ってことよね?」

 私の伝言はあんまり役に立たなかったみたいだけど、と凪は少しの恨み節も込めて英知に確認した。

「そうだね」

 そう答えた英知の声は、どこか元気がなく、笑顔にも力がない。いつもなら、凪が何を言っても飄々と余裕の笑顔を見せるというのに。

「桜沢さん?」

 不安になって凪は英知を見上げる。

「───…ごめん、ちょっと、力使いすぎた……」

 額に手を当てて、英知は目をつぶった。その顔が白い。もともと英知はテニス選手とは思えないほど色が白いが、そういう種類の白さではない。蒼白、というのが正しい。

 英知は他人に『感覚を分ける』時は凄く疲れるのだと言っていた。今回は、競技中にも、その後にも陸斗に感覚を分けたことになる。

 そこへ、タイミング悪く雨が降ってきた。思わぬ雨に、傘など持っていない凪は慌てた。天気予報では雨なんて言っていなかった。こんな体力の落ちている英知が雨に当たれば、病気になってしまうかもしれない。

 凪は思わず手を伸ばして、その手を取った。

「とりあえず、どこかで雨宿りしよう。しんどくなったら言って」

 ひんやりと冷たい手が、凪の手を握り返した気がした。



 部活が終わって校門を出ると、一人の男が凪の前に立ちはだかった。部活帰りの生徒たちの視線が自然と集まる。

「…岡崎くん?」

 制服姿は初めて見るが、相手の顔には覚えがあった。

「凪ちゃん」

 名乗っていないはずの名前を呼ばれて凪は首を傾げる。すると陸斗は、あの試合会場に来ていたテニス部の子から聞いたのだと言った。

「お礼を言いに来たんだ。いろいろ、ありがとう」

「いいえ、どういたしまして」

 本当に役に立ったのは私じゃないしね、と思いながら答える。

「それで、あの…」

 突如顔を赤らめて陸斗は言った。

「俺と付き合ってくださいっ!」

「……は?」

「俺が頑張るきっかけをくれたのは、君だ。だから好きになった」

「え、でも、それは…」

 私じゃなくて、宮野くんや桜沢さんの、と言おうとして、陸斗に遮られた。

「レース中、君に怒鳴られて、目が覚めたんだ」

 …しまった。つい頭に来て怒鳴ったのが、こんなことになるなんて。

「あ、あの…岡崎くん…私…」

 彼の申し出を受ける気はないが、それをどうしたら彼を傷つけずに伝えられるだろうかと凪は困惑した。そうする間にも、周りからは好奇の目を向けられている。

「やるね、佐原さん」

 のんびりとした声が掛けられて、凪は隣を見上げた。部活のコーチに来ていた英知が、いつの間にか隣に立っていた。陸斗も英知に気付いたようだ。

「誰のせいで、こんなことになってると思ってんの?」

 そもそも、英知が凪に伝言係を頼まなければ、起こらなかった事態だ。俺?というふうに英知は自分を指差し、それから、陸斗に声を掛けた。

「岡崎くん。…ごめんね?」

 にっこりと微笑んだかと思うと、英知は凪の手を取り、「行くよ」と歩き出した。戸惑ったまま凪は英知に手を引かれて行く。陸斗や周りが呆然と見送るのを無視して、英知はずんずんと進んで行った。

 暫くそのまま歩いて、みんなの視線が届かない場所まで来ると、英知は足を止めた。

「こんなんで良かったかな、助け舟」

「え?」

 あれが助け船のつもりなら、激しく誤解されてると思うんですけど!と思いつつ、凪はなぜか離されないその手が妙に熱くて、この人熱でもあるんじゃないかと英知を見上げた。そして結局、反論するのを忘れてしまった。

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