明日への伝言 2
「え、ほんとに? 大智くん、英知くんの弟なの?」
千早が身を乗り出し大智に尋ねた。大智が頷くと、「へえ~、英知くんて弟いたんだ」と千早はさらに大智に近づく。「あんまり似てないね」と言う千早に「よく言われる」と大智はそっけなく答えた。
「ね、ね、英知くんて家ではどんな感じ? 二人はどんな話するの?」
「どんなって…、あんまり、話とかしないし…」
戸惑ったように答える大智に、「なあんだ」と千早は残念そうに身を引いて背もたれに体を預ける。「まあ、男兄弟って、そんなものかもね」と千早は勝手に納得したようだ。
「英知くんて?」
「英知くんはね、テニス部のコーチなの。テニスが超上手くて、カッコよくて、優しくて、フレンドリーだし、ああいうお兄さん欲しかったなぁ」
英知のことを知らない結衣が千早に尋ねると、千早はパッと顔を輝かせて説明した。訊いてもいないことまで次々と英知を褒めたたえる。
「世間の評価は、おおむねあんな感じよ。なのに、何でお兄さんと仲悪いの?」
凪はみんなに聞こえないように小声で大智に訊いた。
「仲悪いって…そんなこともないけど。ただ、なんとなく、ちょっと距離を感じるというか…」
大智は眉を寄せて口ごもった。
英知は、外面はいいが家では横暴だ、とか、そういうことはない。むしろ内と外で大きな違いはないように思う。でも、だからこそ、大智は英知に距離を感じてしまう。いっそのこと、自分にだけは無愛想なくらいのほうが兄弟らしい気さえする。
「私も最初は苦手だったわ。あの人、つかみどころがなくて」
凪が正直に言うと、大智は驚いたように凪を見つめた。まさか身内の目の前で苦手だとはっきり言うとは思わなかったのだろう。
「…あれ、でも、“だった”って? 今は?」
「前ほど苦手じゃないわ。相変わらず何考えてるかはわからないけど」
凪が苦笑して答えると、大智は「へえ」と凪を見やった。
「凪ちゃんて、兄貴と仲いいの?」
「…別に、仲いいとか、そういうんじゃ…」
「一緒に映画に行くような間柄を、世間では仲がいいって言うのよ!」
否定しかけた凪を遮るように千早が横から割り込んだ。
「あ、あれは成り行きで…」
「成り行きでも何でも、一緒に行ったんでしょ。羨ましい!」
拗ねたように千早が言い、映画の件を千早に話してしまったことに責任を感じたのか理子が「まあまあ」と千早を宥めた。
あまりしつこく言うと、それこそ話を聞いてもらえなくなるのではないかと思い、黙ってついてきていたのだが、英知が視線を向けて呆れたように口を開いた。
「で、頼みごとって?」
「聞いてくれるのか?」
「内容によるね」
大学の図書館裏の庭にあるベンチに座って英知は老紳士の話を聞くことにした。家からずっと黙ってついてきて、大学の授業中も逃げないよう監視するかのように側にいる老紳士に、英知が根負けした形だ。
下手な場所で話を聞けば、何もない空間と話をしているおかしな人と思われるので、人気のない場所を選んで英知から声を掛けた。
老紳士は久保 正治と名乗った。もうすぐ百ヶ日を迎えるので、その前に済ませたいことがあるという。
「どんな未練があるの?」
「わしは天寿をまっとうしたと思っとる。この世に未練なんかない」
胸を張って正治は言い切った。
「でも、ひとつだけ、家族に言い忘れたことがあって、それが心残りなんよ」
「世の中では、そういうのを未練て言うんですよ」
英知のツッコミを無視して正治は続けた。
「そもそもわしは、しばらくは残した家族を見守って、四十九日が過ぎたらあの世へ行くつもりだった。あの世では、ばあさんがわしを待ってるだろうしな」
だから、本来なら、わしはいつまでもグズグズとこの世に留まるつもりなんかなかったんだ、と正治は言う。
「それなのに、あいつら、四十九日が過ぎてもわしの遺品整理をしないもんだから、こんなことになってしまった」
「はあ」
言い忘れたことと遺品整理にどんな関係があるのかわからずに、英知は曖昧に相槌を打った。その様子から英知の疑問に気付いたのか、正治はこほんと咳払いをして説明した。
「正確に言うと、わしには言い忘れたことなんかない。それは、ちゃんと手紙にして残してきた」
正治は高齢の割には健康だったが、ある時から続けて死んだ妻の夢をよく見るようになり、それはきっとあの世で妻が呼んでいるのだと悟った彼は、家族に手紙を書いておいたのだという。
「ただ、あいつら、その手紙をまだ見つけとらんのよ」
少々腹立たしげに正治は言った。
手紙さえ読んでもらえば、自分の想いは彼らに伝わるはずだ。なのに、肝心のその手紙を、まだ家族の誰も目にしていないのだ。だから、それが心残りなのだという。
「その手紙って、正治さんの部屋にあるんだよね?」
「ああ」
「正治さんが亡くなってから一度も、家族は正治さんの部屋に入ってないの?」
「いや、そんなことはないと思うが」
英知は首を傾げた。
「それって、机の上とかに置いてないの?」
家族に残した手紙なら、それなりに見つけてもらえる場所に置くのではないだろうか。
「…置いとらん」
「じゃあ、どこに置いてあるの?」
英知の質問に正治は即答しなかった。答えを躊躇する彼に、まさか置いた場所を自分で忘れたわけではないだろうと英知は答えを待った。
「……押し入れの、簀の下」
「…なんでまた、そんな見つけにくい場所に…」
それでは、見つけてもらいたいどころか、隠す場所ではないか。
そういえば、友人の痴呆のある祖父が物置の下や押し入れの奥にハサミや財布を隠したという話を聞いたことがあったな、と英知が考えていたのがわかったのだろうか、正治は「わしはボケたわけじゃないぞ!」と釘を刺した。
「死期が近いことはわかっとったが、いつ死ぬかまではわからんかったから、目につかんところに置いとったんよ」
「いや、でも、もうちょっと、机の中とか、見つけやすい場所もあったでしょ」
「生きてるうちに手紙を見つけられたら恥ずかしかろうが」
拗ねた子どものように口をとがらせて正治は横を向いた。
恥ずかしいも何も、それでわかりにくい場所に隠した手紙を家族が見つけてないと腹を立てられても、英知の知ったことではない。
「それで、俺は、何をすればいいの?」
半ば呆れて英知は尋ねた。
「家族が手紙を見つけるように仕向けて欲しい」
「…さて、どうしたもんかなぁ」
呟いて、英知はベンチの背もたれに体を預けて空を仰いだ。知り合いの家族だとかいうならともかく、赤の他人である人たちに、どうやって英知がその手紙の場所を伝えたらいいのだろう。
「ちなみに、家族構成は?」
「息子とその嫁と、大学生の孫が一人」
大学生…と呟いて、英知はその孫が通う大学の名前を訊いた。