ラブ・ファントム 4
「ええ? 英知くん、今日もお休み?」
千早の声に、思わず凪は顔を上げた。
「英知くん、どっか悪いの?」
テニス部のコーチで英知の大学の同級生である大樹は、従妹の質問に首を傾げ、いや、元気だと思うよ、と答える。
「家の用事だって言ってたから」
そっか、家の用事。凪はほっと息をついた。他の理由があるなら、いい。彼が来ない理由が、先日の悲しそうな笑顔にあるのだとしたら、…何となく、放っておけない。何だか、私のせいみたいで、気になるじゃない。
「本当に、そんなことが…?」
不安そうに尋ねる篤也に、英知は笑って見せた。
「この間、体感したでしょう? 少しの間だけなら、力を貸すことができます」
英知の微笑みに、篤也は頷いた。この青年が、最初から自分たちに悪くはしないのだということはわかっていた。無関係なはずの自分たちに、こんなに親切なのだから。
麻友は過去二回母と一緒に来た寺の門を、今日は一人でくぐった。寺の住職の息子である英知から呼び出しを受けたのである。
いつもの和室に通されると、すでに英知が待っていた。
「こんにちは、麻友さん」
英知の微笑に麻友も挨拶を返す。席を勧める英知に従ってから、用件を質す。用もないのに呼び出されるような間柄ではないのだ。
「今日、麻友さんを呼び出したのは、俺じゃないんです」
そう言って英知は立ち上がり、麻友に近づいた。膝を折って麻友に視線を合わせると、肩をポンと叩く。
「話を、聞いてあげてください」
その瞬間、麻友の目の前に篤也が現れた。英知は篤也にその場を譲るように席を外し、麻友の背後に回る。部屋を出て行かないまでも、少し離れて二人を見守っていた。
「篤也…?」
話とは、何なのだろう。こんなことをしなくても、いつでも会えるのに、どうしてわざわざ英知を仲介にするのだろう?
「今日は、お別れを言おうと思って」
穏やかな笑顔を見せる篤也の言葉が、麻友にはまったく理解できなかった。日本語の意味としては、理解できる。だが、それが脳に伝わっても、全然心に伝わらない。
「…なに、言って…。冗談でしょ?」
何とか言葉の意味だけに反応する。
「冗談にできたらいいけど、そうもいかない」
相変わらず篤也の表情は穏やかだ。どうして、こんな酷いことをそんな平気な顔で言えるのだろう。まるで、篤也じゃないみたいだ。悪魔にでも取り憑かれてしまったのだろうか。
「俺は、麻友を残していくことが申し訳なくて、麻友が泣くのが辛くて、だから、俺が残って麻友の傍にいることで、麻友の悲しみが少しでも癒えるならと思ったんだ」
茫然と自分を見上げる麻友の前に篤也は膝を折った。視線を合わせて、麻友を諭すように優しい口調を作る。
「でも、それじゃいけないんだ。俺がいつまでも傍にいたら、麻友はいつまでも俺を忘れられない。新しい人生を歩き出せない」
麻友は激しく首を横に振った。
「忘れるわけない! 忘れたくない! どうしてそんなこと言うの? 私は、篤也がいない人生なんて要らない。新しい人生なんて要らない!」
麻友の訴えは必死で、目に浮かんだ涙が今にも零れそうだ。
「今の俺では、麻友と一緒には生きていけない」
その言葉を合図にするように、麻友の頬を涙が伝う。
「麻友が泣いていても、涙を拭いてやることができない。抱き締めることもできない」
ためらいがちに伸ばされた篤也の手が麻友の頬に触れる。確かな感触を持って触れた指が涙を拭う。
「これだって、一時的なことだ。明日には、もう触れられない」
そう。今まで、どんなに頑張っても麻友に触れられなかったのだ。慰めたくても、キスをしたくても、決して彼女に触れることは許されなかった。今、こうして触れられるのは、一時的に英知が力を麻友に貸しているからに過ぎない。
「本当は、俺がずっと麻友と一緒にいたかった。だけど、それがもうできないなら、麻友、誰か他の人と一緒に生きて──」
「嫌!」
頬に触れていた篤也の手を握り締めて麻友が縋る。その手を決して離さないとでもいうように、麻友は激しく首を振った。
「どうして他の人と一緒に生きろなんて言うの? 私は篤也と一緒にいたいのに」
ボロボロとこぼれる麻友の涙が篤也の手を濡らして、なけなしの勇気を流してしまいそうになる。決意が揺らぐ。だけど。篤也は、つい抱き締めてしまいそうになる左手をギュッと握り締めた。
「…俺だって、本当は麻友と一緒にいたいよ。できるなら、このまま麻友の傍にいたい。だけど、無理なんだ」
少し力が緩んだ麻友の手から、篤也は自分の手を引き抜いた。このまま彼女に触れていれば、あっという間に決意は崩れ去ってしまいそうだ。
「俺と会うことで、麻友の命を縮めてしまう」
篤也と会う時に時々起こる眩暈が、どういう類のものなのか、薄々は感づいていた。それを続ければ、きっと体が負担に耐え切れなくなるだろうということも。だけど、気づかないふりをしていた。
気づいてしまえば、篤也は、きっと自分のためを思って、会うのをやめようと言い出すだろうとわかっていたから。
「…いいの。それでも、篤也に会いたかったから」
そう。篤也に会えるのならば、自分の体なんかどうなっても良かった。いっそのこと、そのまま篤也の側へ行ってしまえれば良かった。
口に出さない麻友の想いを感じ取ったかのように、篤也は静かに首を横に振った。その口元には、優しくて、悲しい笑みが乗せられている。
「麻友には、生きて欲しいから」
好きで、この世を去るわけじゃない。好んで、大切な人を置いていくわけじゃない。ただ、自分にはもう、大切な人と過ごす時間が残されていないだけ。
「お願いだ、麻友、俺のことは忘れていいから、生きて」
心のどこかで、忘れて欲しくないと思っているくせに、口をついて出るのは綺麗事ばかりで。だけど、そうでもしなければ、決意が、揺らぐ。
「俺の分まで、生きて欲しいんだ」
これは、エゴなのかもしれない。『俺の分まで』なんて、重荷を彼女に負わせて、忘れていいなんて嘘だ。
だけど、生きて欲しいと願うのは、本当だ。
子どものように嗚咽を上げて泣きじゃくる麻友の髪を撫でて、困ったように篤也は英知を見やった。
「生きて欲しいと願うのは、篤也さんのエゴです。でも、これから生きて、いくらでも我儘が言えるあなたと違って、篤也さんにとってはこれが最期の我儘です」
篤也の表情から、自分が出した助け船の方向性が間違っていないことを確認して、英知は続けた。
「最期の我儘くらい聞いてあげてください。あなたには、その義務があると思いますよ」
麻友の涙は止まらない。けれど、次第に嗚咽は静かになって、ゆっくりと篤也を見つめた。優しく微笑む篤也の瞳の奥に、涙が潜んでいることを麻友は感じ取ることができた。
彼が、どんな想いでその言葉を口にしたのか──。
「わかった。篤也。私は、生きる」
「ありがとう」
篤也は麻友を抱き締めた。それが、最期の温もり。
2009年初出