ラブ・ファントム 3
月曜の部活に、英知は来なかった。もっとも、夏休みからコーチをしてくれている大学生たち全員が毎日部活に顔を出しているわけではないから、英知が来ない日があっても不思議はなかった。実際、今までにだって英知が来ない日は何日もあった。
けれど、昨日の今日で姿を見なければ、凪は何となく気になってしまう。
本堂に繋がる廊下に面した和室で、英知は先日永祥寺の住職である父を訪れていた母娘と対面していた。袈裟姿の父の隣に正座した英知を見て、少し戸惑ったように母娘は住職を見やった。
「息子の英知です。先日のお話をお聞きして、私が同席を頼みました。こういったことは、息子のほうが向いていると思ったものですから」
父から同席を頼まれた英知は、乗り気というわけではなかった。ただ、このまま事情を知っていながら放っておくこともできなかったのである。
住職に促されて、年配の女性──母娘の母のほう──は話し出した。
「先日もお話ししました通り、娘の麻友は、亡くなった恋人の篤也くんが会いに来てくれると言うんです。霊が見える人っていうのは、いるのかもしれませんけど、この子は今までそんなことを言ったことはないし、それに、見てください、この子、すっかり衰弱してしまって…」
「やめてよ、お母さん。それじゃあ、まるで篤也が悪いみたいに聞こえるじゃない。それに、私、衰弱なんかしてないから。元気よ、大丈夫」
そもそも麻友は、母にこんな寺に相談に来られること自体が嫌なようだった。
だが、大丈夫だと口にする麻友の口調とは裏腹に、彼女はどこかが悪いのではないかと思えるほどに衰弱しているように見えた。本人にその自覚がないあたり、病気などの理由ではないのだろう。
「麻友さんは、霊が見えるとか、そういったことは、今までにはないんですね」
英知が尋ねると、麻友は頷いた。
「今までないし、今だって篤也以外は見えないわ。だけど、篤也は本当にいるんだもの。私を心配して会いに来てくれたって言ってたわ」
「あなたを疑っているわけではありません」
強い語気の麻友を宥めるように英知は笑顔を見せた。それから、ちらりと父親に視線を遣って促す。
「それではお母さん、我々は少し席を外しましょう。麻友さんだって、私なんかより、年の近い英知のほうが話しやすいでしょう」
不服そうな麻友の母を笑顔で強引に席を立たせると、父は英知に目配せして部屋を出て行った。
母と住職に置き去りにされてしまった形の麻友は、居心地悪そうに身じろぎをして英知を盗み見た。綺麗に姿勢を正して正座をしたまま視線を落として黙っている英知は住職の息子らしく落ち着いて見えるが、自分とそう年が変わらなさそうだ。
大学生くらいだろうか。彼も迷惑しているだろう。母が訳のわからぬ相談を住職に持ちかけたせいで、自分に年が近いというだけで借り出されて。
「…あの、私、本当に大丈夫ですから、こんな…相談とか乗っていただかなくても」
声を掛けると、英知が顔を上げた。意外と整った顔なんだと気がついて、その色素の薄い瞳にじっと見つめられて、麻友は視線を逸らした。
「いつも篤也さんが見えるというわけではないんですよね」
「え? あ、はい。私が泣いていると、慰めに来てくれるんです。大丈夫、傍にいるよって」
「そうですか…」
再び沈黙してしまった英知に麻友は困惑した。いくら住職に頼まれたからって、どういう意図で質問しているのか、麻友にはわからなかった。
「それを、実演していただけますか?」
「…え?」
思いがけない英知の言葉に、麻友は眉根を寄せた。この人は、人の話を聞いていただろうか。自分が泣いたら来てくれると言ったのに、今ここで泣けという意味だろうか?
そう思って顔を上げると、英知の目は麻友ではないほうへ向けられていた。麻友の右斜め後ろに向けられた視線の先に、麻友に見えるものは壁とそこに掛かるカレンダーくらいだった。
けれど英知には、確かにそこにたたずむ男の姿が見えた。きっと彼が篤也なのだろうと、説明されるまでもなく英知はわかっていた。英知の視線を受けて、困ったように立っていた篤也は、やがて頷いて麻友に近づいた。
膝を折って麻友に近づき、その唇にキスをする。──否、あくまでふりだけだ。篤也は麻友には触れられないようだった。
「篤也…!」
自分が泣いてもいないのに現れた恋人に驚いたように麻友は声を上げた。だが、そこに喜びが含まれていることは表情からも明らかだ。
「どうして…」
言いかけて、麻友は英知に目を向けた。そうだ、彼が実演して欲しいと言って、そうしたら自分が泣いたわけでもないのに篤也が現れた。つまり、英知が声を掛けたのは、自分ではなく篤也にだったということだ。
「俺は、麻友さんと違って、常に“見えている”状態なので」
口の端に少しだけ笑みを乗せて英知が説明した。それだけで、麻友が状況を察するには十分だった。
それから英知は、いくつか麻友と篤也に、二人が会う頻度などを質問した。
自分が見えているからだろうか。母と違って頭ごなしに篤也の存在を否定することもなく、住職のように気遣いの視線を寄越すこともない英知の淡々とした様子に、麻友は少し安堵を覚えた。
「……そうですか、それで、篤也さんは麻友さんを心配して、彼女が泣いた時には姿を見せているわけですね」
「はい」
頷く篤也に麻友は言葉を続ける。
「私、篤也がいなくなってから、泣いてばかりで食事も喉を通らなくなってしまったんです。そんな時、篤也が私のところに来てくれて。今は、篤也が傍にいてくれると思うと、安心するんです」
そう言う麻友は幸せそうだが、英知には気がかりなことがあった。
「体調がすぐれないとか、そういったことは?」
「いえ、母は私を病人扱いしようとしますけど、そんなことありません」
それならいいんですが、と呟いたまま、英知は麻友をじっと見つめる。何となく居心地が悪くて身じろぎしようとして、麻友は視界の歪みを感じた。バランスを崩す麻友に、篤也が手を添えようとする。しかし、その手は虚しく麻友をすり抜けた。
「大丈夫ですか?」
英知が近寄り、麻友の肩に手を置く。
「麻友、また眩暈が…」
篤也と会っている時、麻友は時々眩暈を起こす。心配して篤也は麻友の背に手を当てた。篤也の目が一瞬見開かれる。触れられないはずの麻友に、今、触れている。
その篤也の様子を見て、英知は麻友に触れた時に自分の『感覚』を与えてしまったのだと気がついた。
「麻友さん、大丈夫ですか?」
離した手をもう一度麻友の肩に置き、『感覚』を彼女から引きはがす。
「え、ええ…大丈夫です」
一時的に英知の『感覚』を分け与えられたせいか、麻友の眩暈は治まったようだった。
「こういうことは、時々あるんですか?」
「…それは…」
口をつぐむ麻友と、彼女を心配そうに見つめる篤也の表情から、英知は察した。これがきっと麻友が衰弱して見える理由なのだろうと。そしてそれに、二人とも何となく気がついているのだろう。
麻友と母親を帰らせたあと、英知は篤也と向かい合っていた。
「…あなたが、麻友さんを心配していることはよくわかります。でも、このままでは、彼女の命を縮めることになると、わかっているんでしょう?」
英知に真っすぐ見据えられて、篤也は視線を落とした。
「麻友さんは本来“見えない”体質ですから、今の状態は体に負担がかかります。あなたが望むと望まないとに関わらず、あなたの側に引っ張られるんです」
篤也はうつむいて唇を噛んだ。彼にも、わかっているのだ。麻友のことを想っての自分の行動が、必ずしも麻友のためにはならないことを。
「よく、お考えください」
英知の口調は優しいが、篤也には重くのしかかる言葉だった。
2009年初出




