セイレーンが聴こえる 2
静かに紡ぎ出される哀愁を帯びたメロディに、鈴の音のようなソプラノ。その歌声に、英知は瞬きさえ忘れそうになった。その視線の先で目を閉じて歌う彼女から、目をそらせない。
お願い、どうかわたしを 忘れないで
「…聴こえる?」
食い入るようにステージを見つめている英知に凪は尋ねた。すると、英知は視線を動かさぬまま、そっと手を伸ばして凪の手を掴んだ。驚く凪の手を英知がギュッと握る。
「佐原さんも、聴いて」
その瞬間、凪の耳にも声が流れ込む。
「藁科さんも」
ちらりと視線を隣へやった英知は、理子の肩にポンと手を乗せた。すると、理子の耳に鮮明なメロディが届き、その目には歌声の主が映った。
たとえ この命果てても
わたしは風になりましょう
あなたに向かってこの歌を
届けるゼピュロスになりましょう
だから どうか この歌を聞いたら
わたしを思い出してください
目を閉じて情感深く伸びやかに歌うその姿は、見る者の目を惹きつける。
「セイレーン…」
思わず理子は呟いた。それは聴こえてくる歌のタイトルの一部だ。『セイレーンが聴こえる』というのが正式なタイトルで、合唱部がよく練習している歌だ。部内では略して「セイレーン」と呼んでいた。
「…愛音先輩」
その歌声の主の名を口にして、理子は歌に聞き入った。
流れていた旋律が消えると、彼女は目を開けた。理子、凪、英知の順に視線を向けていく。
「どうかお願い、姫音祭のソロは、私に歌わせて」
確かに、三人の耳には彼女の声が届いた。
「…愛音先輩…、私も、先輩にソロを歌って欲しいですけど…」
大石 愛音は、姫乃木女子大学付属高校の三年生で、合唱部だった。類稀な歌声の持ち主で、合唱部の誰もが認める歌姫だった。
だが、病弱なため大会などへの出場経験はほとんどない。本来ならソロを任されるほどの実力の持ち主だが、大事な大会に出場できないのでは部に迷惑がかかるので、大会でのソロはできないのだ。しかも、長時間の移動が必要になる主要大会には出場できなかった。
だから、三年生の部員たちは、最後のステージである姫音祭では愛音にソロを歌わせてあげたいと考えていた。
それは理子たち後輩も同じで、最後のステージは愛音のためにと考えていたのだった。
「でも、先輩は、もう…」
けれど、病弱ゆえに、愛音は姫音祭の前に夏休みの間に亡くなってしまったのだ。
「そう。私はもういない。だけど、このまま忘れられていくなんて嫌」
もともと病弱で学校へもあまり来ていなかった愛音の死は、クラスメイトたちには意外とあっさり受け入れられてしまった。
いなかったも同然の人間が死んだと聞いても、それは彼らにとって大きな変化ではない。それは仕方のないことだとわかっている。
わかっているけど、でも、
「私が確かにここにいたのだと、残して逝きたいの。このまま、誰の記憶にも残らないで、いなくなるなんて、悲しくて」
せめて、この歌声を残していきたかった。
この声を届けることができたなら、きっと彼らのうちの何人かの心には残る。自分がここにちゃんと生きていたのだと、記憶に残せる。
「お願い、私の最後のわがまま。あのステージに立ちたいの」
翌日、理子は部員たちが集まった講堂で、練習前に話があると切り出した。
「理子? どうしたの?」
話があると言ったのに、沈黙してしまった理子に、部員たちを代表して前部長の小野 奏恵が尋ねた。
「…あの、先輩、私、姫音祭のソロは、やっぱり愛音先輩に歌って欲しいんです」
「…なに、言ってるの?」
奏恵は顔をこわばらせた。
「愛音はもういないじゃない…」
その場にいた部員たちも沈痛な面持ちで二人を見つめた。
「私だって、できれば愛音に歌わせてあげたかったけど、愛音は…」
「いるんです、まだ。愛音先輩は、ここに」
理子はそう言ってステージ上のバルコニーを指差した。部員たちの視線が集まるそのステージに、一人の生徒が現れた。
たとえ 姿が見えなくなっても
わたしは標となりましょう
あなたに吹きこむ嵐を
降り立つノトスを教えましょう
あなたが 無事に過ごせるよう
近くで見守り続けましょう
静かに流れるメロディは、彼女たちには耳慣れたものだった。そして、その歌声も、彼女たちには馴染みのある美しい歌姫のもの。
もう二度と聞くことができなかったはずのその歌声に、驚きよりも懐かしさや感動が勝って、部員たちはただじっとステージを見つめ、歌声に耳を傾けていた。
歌が終わっても、暫く部員たちは黙ったままでいた。
「…愛音…」
誰かが呟き、鼻をすする音がいくつも響く。
「みなさん、聞こえましたか?」
部員たちと一緒に歌を聞いていた理子が尋ねた。みんながそれぞれに深く頷く。彼女の声は、確かに部員たちに届いたのだ。
理子はステージ上のバルコニーを見上げた。
「みんな聞こえたそうですよ」
すると、ステージに立っていた女子生徒の後方から一人の男が姿を現した。教師ではない、まだ大学生くらいの若い男だ。
「藁科さん、ここにいるのは何人?」
「20人弱です」
「全校生徒は?」
「400人弱です」
理子の返答を受け、男はあごに手を当てる。
「20倍かぁ。どう思う、佐原さん?」
男は隣の女子生徒に視線を向けた。聞かれた凪は、困ったように首を傾げた。凪に判断できることではない。すべては、この男に懸かっているのだ。
2009年初出