ラスト・サマー 5
カチャカチャとパソコンのキーボードを叩く音だけが、その部屋の聴覚を刺激するものだった。隣室の教授室には松沢がいるはずだが、教授室も静かだった。沈黙したままパソコンや本に向かう学生たちは、お互いに相手の様子を探っていた。
「ねえ、一昨日のミス研の人の言ったこと、どう思う?」
最初に口を開いたのは伊藤だった。
「安藤が殺されたって話? 本当なのかな?」
「ただの幽霊話で、大げさなんじゃないのか」
吉田と中村がそれに答える。
「…私、やっぱり黙ってるなんてできない!」
木部が思いつめた表情で立ち上がった。突然のことに驚いてゼミ生たちは茫然と彼女を見つめた。
「私、警察に行ってくる」
言うや否や、木部は研究室を出て行った。ゼミ生は顔を見合わせた。「まさか、彼女が犯人なの…?」と伊藤が呟く。
研究室を出た木部は早足で人気のない廊下を歩いていた。彼女の足音の後を小刻みな足音が追う。影は彼女の背後に迫り、腕を振り上げる。
突き飛ばされた木部はよろめいて、廊下の角から飛び出してきた凪に受け止められた。
振り上げられた腕には英知の足が命中し、その手に持っていたペーパーウェイトがごとりと音を立てて床に落ちた。凪よりも早く飛び出した英知が木部を突き飛ばして庇い、彼女を襲った人物の手首を蹴り上げたのだ。
逃げようとする相手の腕を英知が掴んだ。それを振り切ろうと英知に向けられた拳をひらりとかわし、英知は相手の足を払った。バランスを崩した相手の腕を取り、身動きが取れないように背中でねじり上げた。
「やはりあなたでしたか、松沢教授」
見下ろした英知の視線の先には蒼白な松沢の顔があった。
思いつめた様子の木部を心配して追いかけてきたゼミ生たちは、目の前の出来事が理解できないでいた。
「安藤さんを殺したのは、あなたですね、松沢教授?」
「…そうだ。私が突き落とした」
観念したように力なく松沢は認めた。
「どうして先生が?」
驚きを隠せないゼミ生たちを代表するように伊藤が震える声で尋ねた。
「彼女に、知られたくない秘密を知られたからですよね?」
「ああ。その上あの女、私をゆすろうとしていたんだ」
もう抵抗を諦めたのか、松沢は頷いた。
「そう思っていたのは、あなたたちだけでしたけどね」
「どういうことだ?」
松沢と木部は英知の言葉を理解できずにいる様子だった。
「松沢教授は木部さんと不倫していた。松沢教授はそのことを安藤さんに知られたと思ったんですよね?」
二人が不倫をしていたことは、既に凪が木部に確認している。頷く松沢に英知は意外な言葉を投げつけた。
「でも、彼女はそんなこと、知らなかったんですよ」
「嘘! だって、あの子、私に松沢先生の秘密を知ったって」
あの事件の前、木部は鈴果から「実は私、松沢先生の秘密を知っちゃったんだ。今度タカってやろうっと」と聞いていたのだ。
「それは、松沢教授が隠していた宝くじのことです。その当たったお金で、大方あなたと旅行にでも行ったんでしょう」
これも木部に確認済みのことだ。当たりくじのお金だとは木部は知らなかったようだが、旅行に行った時期から考えてそうだろう。家計にも自分の小遣いにも響かない都合のいい金ができて、浮気相手との旅行に遣ったのだ。
「それを人に知られては都合が悪いから、松沢教授は当たりくじのことは黙っていた。しかし、それを偶然彼女が見つけてしまった」
10万の当たりくじを見つけた彼女は、飲み会で先生に奢ってもらおうと考えた。松沢の秘密をもったいぶって木部に言ったのは、みんなの前で暴露して先生を少し困らせたら面白いと考えただけだった。
後ろめたいことがあった木部は、勘違いしたのだ。松沢先生が自分と不倫関係にあることを知られたのではないかと。そして不安に思ってそのことを松沢に伝えた。教授昇進間近だった松沢は焦った。教え子との不倫なんてスキャンダルは昇進に響く。しかも、鈴果の口ぶりでは、自分をゆするつもりなのではないか。わざわざ木部にそんなことを言ったのは、脅しなのではないか、と後ろめたいがために余計な心配をした。
そこで、松沢は鈴果の口を封じることにした。
酒に酔った鈴果が一人で帰ると言ったのは好都合だった。中村と別れたあと、鈴果を追いかけて、むりやり廃ビルの階段に連れて行き、そこから突き落としたのだ。
それが事故死とされて、松沢は安堵した。
ところが、1年経った今、ミステリー研究会の大学生が事件を調べ出し、木部が警察に行くと言い出した。自分が犯人だと判ってしまった木部が警察に通報するのだと思った松沢は、彼女の口さえも封じようと慌てて部屋にあったペーパーウェイトを持って彼女を追いかけ襲ったのだ。
「…じゃあ、昨日、私に先生に聞こえるように警察に行くって言えと言ったのは…」
英知の説明に木部が呟いた。昨日英知は、木部に学校で先生と皆がいる時に警察に行くと宣言してこの廊下を通るよう指示していたのだ。
「教授をあぶり出すためです。何しろ証拠は何もないので、自白が必要だったんです」
そして、それを聞く証人たちも。証人にされたゼミ生たちは事態の把握に一生懸命のようだった。
「あなたは、自分の身を守ろうとしただけなのかもしれない。けれど、それが人を殺していい理由にはなりません」
事の真相は、誤解が生んだ残酷な悲劇だった。
警察に自首するという松沢を、英知は鈴果のもとへ連れて行った。罪は贖えないが、せめて謝罪くらいしたらどうだと英知に言われて松沢は頷いた。
真相を聞いた鈴果は、怒りを顕わにした。
「許さない。そんなことのために私を殺すなんて」
あの時、鈴果から感じた深く暗い感情が蘇る。このままでは松沢は呪い殺されかねないが、鈴果の怒りを鎮める術を英知は知らなかった。
「待って」
そこへ、凪が現れて鈴果を止めた。凪は、鈴果の別れた彼氏の杉田と一緒だった。
「ありがと、佐原さん」
頷いて凪は杉田を英知のもとに連れてきた。実は英知が凪に頼んで連れてきてもらったのだ。
「後悔してたみたいだから、最後に伝えてみたら」
英知は杉田の肩をぽんと叩いた。その瞬間、杉田の目の前に懐かしい人が現れた。
「鈴果…」
別れ話をしたその日、この世からいなくなってしまったはずの人。最後に泣き顔しか見られなかった大切だった人。
「ごめん、鈴果。俺、最後に見たのが泣き顔なんて、ずっと後悔してて。伝えなきゃいけないこと、伝えられてなくて。本当は、ありがとうって言いたかったんだ」
杉田の言葉に、鈴果の纏っていた怒りの感情が和らぐ。
「…私といて、少しは幸せだった?」
「うん、幸せだったよ」
別れを選びはしたが、嫌いになったわけではない。過去には、確かに幸せな時間を共有していたのだ。
「私の人生、あなたがいてくれて、そう悪くはなかったのかもね」
鈴果は笑った。まるで、生前の彼女のように柔らかな笑みだった。
「松沢先生、彼に免じて、呪い殺すのはやめてあげる」
視線を松沢に移した鈴果が言った。
「せいぜい私を殺したことを後悔して、生きて罪を償うといいわ」
そう言うと、鈴果は英知と凪に「ありがとう」と言葉を残して消えていった。ふわりと浮いた最期の彼女の光は、シャボン玉が割れるように消えた。
「いつから犯人に気付いてたの?」
松沢が自首したのを見届けて英知と凪は警察をあとにした。
「最初に会った時。半分はカンだけど、何となく雰囲気で」
第六感の鋭い英知には、雰囲気から何かを感じ取る能力があるようだった。
「二人が不倫してるっていうのは?」
「それも松沢先生に会った時。木部さんのことを佳乃って呼んでたから」
何となく人目を忍ぶ感じだったし。それに、最初にゼミ生に話を聞いた時、木部さんだけやけに詳しく先生のスケジュール知ってたし。でも先生の左の薬指には結婚指輪があったから、そうかなーって。
そう言う英知を、見ていないようで意外としっかり見ている男だと凪は思った。
「二人がそういう関係なら、犯人てこともあると思って」
元彼の話をしても、あの二人だけ、元彼が犯人なんじゃないかって疑わなかったんだよ。動機なら元彼の方があるでしょ、普通。だから、この人たち犯人知ってるんじゃないかと思って。で、鈴果さんが犯人は男だって言ってたから消去法で松沢教授かなって。
「佐原さんが、秘密を知られたってことも動機になるって言ってたでしょ。それで、秘密を持ってそうな人をマークしたってわけ」
うしろめたいことのある人間は、どこかしらそれを隠そうと不自然になるものだ。英知は木部のうしろめたさを利用して協力させたのだった。
その日、W大のテニスサークルを姫大付属高校のテニス部員たちの何人かが訪ねた。千早がコートサイドにいた従兄の大樹に声をかけた。
「ちょうど英知がサークル代表とゲームするところだよ」
そう言って大樹はコートを指差した。みんなの注目が集まるコートには、テニスウェア姿の英知と、見るからに屈強そうなサークル代表がいた。
「ザ ゲーム オブ ワンセットマッチ」
サークル代表のサービスでゲームが開始される。強烈なサーブを英知は難なくリターンする。いいコースをついたリターンをサークル代表が何とか返す。すかさず英知は逆サイドをついた。
「15-0」
審判がコールする。
サークル代表は上手かったが、1ゲーム目から英知がブレイクした。
「強い」
凪の呟きに大樹はまるで自分のことのように自慢げに言った。
「強くて当然だよ。何しろあいつ、インハイベスト4だぜ」
ゲームは、どちらも引かない展開ではあったが、英知の強さが優ることは明白だった。
「ゲーム、ウォン バイ 桜沢」
結局、英知が6-1で勝った。サークル代表でさえこのスコアなのだから、このサークルでは無敵ということだろう。
「あれ、みんな来てたの」
コートサイドに戻ってきた英知は女子高生たちに気付いて微笑んだ。
「佐原さん、ごめん、着替えてくるから待ってて」
凪に微笑を向けて英知はクラブハウスへ急いで行った。
「何? 凪、英知くんとデート?」
「そんなんじゃないわよ」
否定するも周りの目はそれを信用していないようだ。
「ちょっと、同じ用事があるだけよ」
急いでクラブハウスから戻ってきた英知が凪を促して二人は帰って行った。その姿に女子高生たちは顔を寄せ合う。
「ね、どう思う?」「最近仲いいよね」「よく一緒にいるし」噂好きな女子高生たちは人の恋愛の話題が大好きだ。
しかし、残念ながら、二人の向かった先は色気などない場所だった。
安藤鈴果の墓前で二人は手を合わせる。供えた花と線香の香りが漂っていた。
「…みんな、夏になるたび彼女のことを思い出すかな」
「そうね」
相槌を打って凪は水の残った桶を持った。
「──俺も、夏になると思い出す人がいるよ」
凪から桶を取って英知は運んでいった。その背中がなぜか寂しそうに見えて、凪は後を追いながら言葉を探した。
「私も夏になると田舎のおばあちゃんを思い出す」
夏休みになるとよく遊びに行っていた祖母の家。優しくしてもらったこと。楽しかったこと。思い出した瞬間、心の中で彼女は蘇る。
墓前で静かに手を合わせる人がいたので、それを邪魔しないように二人はその後ろを黙って通り過ぎた。
「佐原さん、ありがとね」
桶を片付けながら英知は言った。「何が?」と訊くと「犯人探しとか、いろいろ」と英知は答えた。
「駅前のカフェのフルーツパフェでいいわよ」
「…おごりますか」
苦笑した英知に凪は勝ち誇った笑顔を返した。
2009年初稿、2019年改稿。