いつもどおり
月が昇るのを確認して、タクティスは魔法学院まで足を向けた。
夜の都市は朝と打って変わって人の数が激減している。あれだけ人が行き交っていた大通りを歩いているのはタクティスを含めてもほんの数人だけだ。これは都市に住む人間が暗い夜道を不必要に歩きたがらないのと、朝から始まる仕事に合わせて早めに就寝する為である。大通りだけは最近開発されたばかりの魔具灯によって淡く照らされているが、基本的に夜の都市の中は暗く、路地の複雑さも重なって迷いやすいのだ。
そんな中、タクティスは暗闇に慣れているので問題なく学院まで足を運ぶことができた。
学院の中も都市内と同じように暗く、静寂に包まれている。精々学生寮の方で人の声が聞こえるくらいだ。少なくとも目に見える範囲に人の気配はない。タクティスはそれだけ確認すると真っ直ぐ教官棟に向かった。
長い階段を上ってぶ厚い木の扉を開けると、ゼニスが待っていたように席を立った。
「見つけたのか」
「ああ。死体と一緒にな。死体は置いてきたけど、『白の本』は回収した」
そう言ってタクティスは鞄から『白の本』を取り出し、ゼニスの机の上に置いた。しかしゼニスは本には触ろうとせず、タクティスの方に目を向ける。
「盗んだ相手は死んでいたのか?」
「ああ。地下水道で死んでた。死因は分からねぇけどな。というか、あんたはこうなることを予想してたんじゃないのか?」
「……薄々はな。よし、その死体についてはこちらで回収、及び身元の確認を行う」
「勝手にしてくれ。それよりも報酬だ。元々はあんた宛の依頼を俺が代わりにやってやったんだ。国から受け取る筈の報酬は俺に回してくれよ」
「勿論だ」
タクティスは聞きたい事が聞けて満足そうに頷いた。そしてもう用はないとゼニスに背を向ける。
「……タクティス」
「ん?」
扉に手を掛けたところで呼び止められたタクティスは、胡乱な目をしながら振り返った。ゼニスは当然のように無表情のままタクティスを見据えている。
「お前は……『白の本』に触れた時、誰かの声を聞かなかったか?」
「いや? 別に何も聞いてないぜ?」
「そうか」
質問の意味は分からなかったが、ゼニスの思惑は殆ど分からないことが多い。タクティスは肩を竦めただけで、特に何も聞かずに今度こそ部屋を出た。
残されたゼニスは机の引き出しから取り出した黒い手袋を嵌めて、『白の本』に手を掛けた。別にそれだけでは何も起こらない。だが、それだけでゼニスは『白の本』の異常性に気が付いた。ゼニスの声には驚愕による震えが混じっている。
「馬鹿な……」
恐る恐る本の表紙を捲って、ゼニスは息を呑んだ。
「“中身”が……消えている」
***************
そこは真っ白な空間だった。上も下も、前も後ろも分からない。ただ、真っ白な世界にタクティスは一人で浮かんでいた。
「これは夢か?」と半ば人事のように考えながら、タクティスは辺りの観察を行った。しかしタクティスの周囲はただ白いだけで何もない。ここが何処かなんて分かる筈もなかった。
『こんにちは』
それは突然頭の中に響いてきた声。男か女かも曖昧な声がタクティスに直接語りかけてきた。
「お前は誰だ?」
『誰でもあるし、誰でもない。それが私』
「はぁ? お前も回りくどい奴だな。はっきり言ったらどうだ」
夢だと思い込んでいるからか、タクティスは声の主の解答に不満を漏らす。頭の中ではゼニスの姿が浮かんでいた。しかし声の主は面白そうに笑うばかりだ。どうやらはっきり正体を明かすつもりはないらしい。
『私は相手によって変わる。だから明確な個というのを持っていないんだ。だから私のことは好きなように呼んでくれて構わない』
「あっそ。そのうち考えるよ」
『楽しみにしているよ。じゃあ、そろそろ……始めよう』
「始めるって、何をだよ」
流されるように適当に答えていたタクティスはこの時初めて疑問を持った。だが声の主はそんなタクティスを無視して話を先に進める。
『君の胸に秘めてある願いとは何?』
「俺の願い? お前も魔具製作の参考にしたいのか?」
『合ってるけど少し違う。私の場合は魔法製作の参考にしたいんだ』
「へえ。魔法って作れるものなんだ。でも悪いな、俺に願いはないんだ」
これは新しく友人となった少年にも答えた己の考えだ。願いに“頼る”ことはしたくない。だからこそタクティスは「現実」を受け入れ、「願い」を持たないようにしている。その意思に嘘はない。
だが声の主はそんなタクティスの言葉をあっさりと否定した。
『それは嘘だよ。人は、願いなしには生きられない。特に君みたいな人間は』
「……どういう意味だ?」
『人は抑制されればされるほど“欲求”というものを溜め込む生き物だ。だからこそ、君には常人を逸した強い願いを持っている筈なんだ。それとも気付いていないのかい? 現実を受け入れたふりをしているだけで、実際は周りに迷惑をかけないように我慢しているだけだってことに』
「はっ! 馬鹿じゃねぇのか? あれも欲しい、これも欲しいなんて言ってたらキリがねぇだろ。どうせ世の中は理不尽に動いているんだ。我慢せずに子供みたいに喚いたって誰も助けてくれやしないんだよ」
謎の声の言葉を聞いて、タクティスは馬鹿にしたように笑い飛ばす。そしてお返しとばかりに己の意見を突きつけた。
それはタクティスが周りから常に敵意を向けられ育ってきたからこそ言える言葉だった。
ただ『大賢者』の息子として生まれてきただけで。
ただ魔力を持っていなかっただけで。
タクティスは「普通」とは異なる生活を強いられた。周りと違うことを何度嘆いたところで、誰もタクティスに手を差し伸べてくることはなかった。だからタクティスは助けを請うことをやめた。自分以外の誰かに頼ることを嫌うようになった。
例え家族が肯定してくれようが、友人達が理解してくれようが、タクティスは一人であると自覚している。何故なら“自分”と“それ以外”では住む世界も見ている世界も全てが異なっているのだから。
『……なるほどね。では保留にしよう。君が全てをかなぐり捨ててでも、何かを願わずにはいられなくなった時、私は再び君の前に現れることにするよ』
「今も現れてはいないだろ」
タクティスがぼやいたのを最後に、白い夢は幕を閉じた。
***************
窓からは春の陽光が差し込み、そよ風が花の甘い香りを運んでくる。そんな朝にずしりと重石を乗せられたような苦しみを覚えて、タクティスは呻きながら覚醒した。そして起きてすぐに体が動かない事に気づく。
己の体を見るとすぐに原因が明らかになった。
「……おはよう、何してんの?」
「……」
幼馴染みが泣きそうな表情でタクティスを見下ろしていた。タクティスの上に重なるような体勢で。
タクティスにはティナの表情に見覚えがあった。それは幼少の頃、ティナの両親が仕事でいなくなった時と同じ物だ。不安、寂寥感、孤独、悲しみ……そういった感情で潰れそうになっている時の彼女はよく今のような表情をしてタクティスにしがみ付いていた。
だからタクティスは何も言わず、ただ昔の時と同じようにティナの頭を優しく撫でた。
「タクティスぅ……」
「……悪かった」
タクティスは人との接点が並の者より少ない。その為か人の心の機微を読むことを不得手としていた。しかし、家族同然に一緒の時間を過ごした幼馴染みのことだけは誰よりも理解している。自分が幼馴染みを悲しませたことも、痛いほどに理解できた。
「今日から、また一緒だから、そんな顔すんなよ」
「嘘吐いたら溶解した鉄を飲ませるよ?」
「それは怖いな。針千本なんて目じゃないぜ。つーかそれって死ぬんじゃねーか?」
「私、本当に寂しかったんだよ? 怒ってるんだよ? だから、本気だもん」
若干幼児退行しているのか、ティナはタクティスの胸に顔を埋めて甘えている。それに対してタクティスは、胸が当たっているのに感触がない事実を残念に思いながら、ティナの気が済むまで好きにさせていた。
結局本来の登校時間を大きく過ぎて、タクティス達は学院に向かうことになった。その代わりにティナはすっかり元の調子に戻っていた。その様子にタクティスは内心で安堵している。
(やっぱり依頼は昨日の内に済ませて正解だったな。だけど、いい加減俺から離れても生活できるようになってもらわないとな)
噂によると学院に非公式で設立されている『ティナ様ファンクラブ』はタクティスを暗殺しようと企てているらしい。あの狂信者共はやると言ったら殺るほどの行動力を秘めている。そのやる気を『大賢者』を目指す事に使えば実力も今より飛躍するのでは? と思わないでもない。
まぁ色々と危惧することはあるが、これからはいつもどおりに生活できるとタクティスは気が抜けたように欠伸をした。
「じゃあタクティス! お昼は一緒だからね!」
「ああ」
手をぶんぶん振りながらティナは一番棟の方へ駆けて行く。それをタクティスは見送った後、一人三番棟の方へ歩いた。
いつもどおりボロボロの学棟を見て顔を顰めつつも、タクティスはその中に入っていく。長い廊下を歩いていつもどおりに図書室の扉を開いた。そこで机の上に置いたままだった物を見つけて、タクティスは思い出したように呟いた。
「おっと、そういえばこれを返し忘れてたな」
図書室の机に置かれているのは以前ここで読んでいたゼニス宛の依頼書だ。これが無いと報酬は受け取れないだろう、そう思ってタクティスは一度踵を返し、学院棟の方へと向かう。
その様子を数人の男達が影で窺い、足音や気配を消す隠密魔法を使ってからこっそりとタクティスの跡を追いかけ始めた。