『名無し』と呼べ
そこで手紙屋の青年は目を覚ました。どうやら夢を見ていたようだ。しかしいざ何の夢だったかを思い出そうとしても、目覚め特有のまどろみの中に消えて、何も思い出せなくなっていた。
障子から茜色の夕日が差し込み、部屋の中をほんのりと茜色に染め上げている。既に夕方になっているようだ。
青年はいま見た夢の内容を思い出すのを諦め、半分閉じてる目をしっかり開き――、
真上でギラリと光る大斧を振りかぶる女の姿が目に入った。
「なっ!?」
青年はとっさに体をひねり、横に転がった。直後、先ほどまで青年が転がっていた畳に大斧が深くめり込んでいた。
すっかり眠気の吹き飛んだ瞳で標的を見定め、武器の銃を構え臨戦態勢をとる。
「いやーやっぱあんたすごいわ。今の一発をその寝ぼけた状態でかわすなんてね、さすがさすが」
女は手紙屋に笑いかけた。彼女はベージュのコートを羽織っていた。暑いのか、前を開けているので、下に着ている白シャツが見えていた。下半身は黒いパンツを履いて、完全に両足を隠していた。
「でも次はどうかしら――」
そういいながら再び斧を構えた刹那、
「手紙屋さん、遅くなりましたー。でも見てください、新鮮な魚がこんなにたくさんもらえましたよ」
タイミングがいいのか悪いのか、メールが港から帰ってきたようで、袋いっぱいに詰まった魚を見せびらかしにきた。
メールの介入によって場の空気は一変した。客間に入ってきた少女は、ぽかんと二人の顔を交互に見る。ドサリとその場に魚の入った袋を床に落とした。
そして何よりも斧を持つ女の顔色が変わった。そっと斧から手を離して、苦笑いを浮かべた。その顔からは汗が吹き出していた。
「やばっ」
「……お姉ちゃん?」
* * *
「……それで? お姉ちゃん」
「いやあ、あるじゃない? 目の前で人が眠ってたら顔に落書きしたくなるとか、ほっぺたをつねりたくなるというか。それと同じノリでコイツの顔見てたら無性に斧を振り下ろしたくなったっていうか、そういう――」
メールは鋭い目つきで姉を睨みつける。
「――はい、なんでもないです。すいませんでした」
「もう……」
目の前で正座しながら深々と頭を下げる姉を見下ろし、メールは呆れ顔でため息をついた。客間の真ん中に目を向けると、床に敷いた畳が大きく抉られてしまっていた。目も当てられないこの状況の後処理も考えなくてはならない。
まず、なによりも先にメールは手紙屋の青年に謝罪した。
「手紙屋さん、迷惑をかけてすみませんでした。……それでですね、もう大丈夫なので、『それ』しまってもらえますか」
部屋の隅っこにいた青年は、メールの言葉に黙ってうなずき、手に持っていた銃を元の場所に納めた。
メールは再び姉に向き直る。大きな体が嘘のように縮こまっているその姿を見ていると、なんだか可笑しくなってきた。そして久しぶりに会えた喜びが沸き上がってきた。
「でもよかった、お姉ちゃんが無事で。お帰りなさい」
「できればそのセリフ、もっと早く聞きたかったなー」
「何か言った?」
「いえ、何も」
はぐらかした姉は顔を上げて、ちょいちょいとメールを手招きした。メールはそれに応えるように彼女の胸に飛び込む。
「ただいま、メール。一人で大変だったでしょう?」
「平気だよ。おばさんが助けてくれるし。いつも村のみんなと遊んでるし。それにお姉ちゃんは手紙屋なんだもん、仕方ないよ」
「一人でも仕方ない、なんて割り切る人は、こんなに強く抱きつきません」
「……………」
メールは何も答えず、より強く姉に抱きついた。姉はそれを拒むことなく、メールの気が済むまでずっと髪を撫で続けた。
「それにしてもお姉ちゃん、今日は今まで以上に鞄がパンパンだね。最近はそんなに仕事が増えてるの?」
手紙がはみ出るほど限界に膨らんだ姉の鞄を見ながら、メールは問いかけた。
「いやいや、今回は手紙だけじゃなくて、小包みたいな荷物が多くてさ、だからこうなってるの」
「手紙屋って、手紙だけじゃなくて、小包とかも届けないといけないの?」
「そう、他にも食べ物とか動物とか。場合によっちゃ鞄に入りきらないような大きなものも運ぶわよ。『手紙屋』っていうけど、実際は町から町へどんなものでも届ける仕事なのよ。手紙以外でもなんでもござれってわけ」
「ふーん、そうなんだ。……今回はいつまでいるの?」
「そうねー、リリアーヌ宛ての手紙は一通だけだし、隣のル・ベージュにも手紙を届ける予定があるから、あまり長くは入れないかも。ごめんね」
「やっぱり手紙屋って大変なんだね」
そこまでつぶやいたとき、メールはようやくそばに手紙屋の青年がいることを思い出した。あわてて姉から離れて口を開く。
「すみません……。えっと、紹介しますね。私のお姉ちゃんでフーリエって言います」
青年は表情をいっさい変えず、ほんのわずかうなずいたような気がした。
「で、お姉ちゃん。こっちが手紙屋の――」
そこまで言ってメールはあることに気づいた。
「そういえば、手紙屋さんの名前、まだ聞いてませんでしたよね。教えてもらえますか?」
「…………」青年は何も答えない。
「えーと,手紙屋さん?」
「コイツには名前がないのよ。どういうわけか知らないけど、名前を名乗りたがらないのよ」
フーリエの発言にびっくりして、メールは青年の顔をうかがった。
「俺には名乗るような名前はない。だから好きに呼べ」
――俺は誰でもないし、誰でもいい。
はじめて会ったときの青年の一言の意味がちょっとだけわかった気がした。
「あたしは『コイツ』とか『あんた』っていうふうに呼んでるけど。 メールもそう呼べば?」
「そんなのだめだよ。人をコイツ呼ばわりなんてしちゃ」
フーリエの提案をやんわりと却下して、メールは考え込んだ。
「うーん。それじゃ、『名無しさん』とか?」
一瞬、場の空気が凍り付いた。しかし直後にフーリエが大笑いしたことで、それは吹き飛んでいった。
「あっはっはっはっ! いやーあんたならそんな名前を付けると思ってたわよ。でもさすがにそれはないでしょ!」
いまだに笑いが収まらないようで、フーリエは必死に笑いを噛み殺していた。
「す、ストップ! 今のは無し! 冗談、冗談ですよ! ちょっと言ってみただけ!」
メールは頭と手をぶんぶんと振り、自分の発言を取り消した。おそるおそる手紙屋の顔を伺ったが、青年は腕を組んだままピクリとも動かない。
(怒ってもドン引きしてもいいから、なんかリアクションしてー!)
メールは心の中で訴えかけたが、当然届くはずもない。
いたたまれない空気が少し続いたのち、ようやく青年が口を開いた。
「…………、か」
「え?」思わずメールは聞き返す。
「なんでもない。それでいい。『名無し』と呼べ」
ひとまず怒っていないようでメールはほっと胸を撫で下ろした。
「……へえ」
フーリエは名無しとメールを交互に見ながら、意味深な表情を浮かべていた。
「じ、じゃあ、そろそろ晩ご飯を作りますね。少しの間、待っていてくださいね」
そう告げた後、メールは家の台所へと向かっていった。
「ありがたく思いなさいよ、あんた。メールの料理は超うまいんだからね」
背後の客間から、そんなやり取りが聞こえてきた。