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名無しの手紙  作者: 山本良磨
第3話 シルメリア編
35/72

The Last Day

 夜が過ぎて、当然のように朝がやってきた。

 今日が最後の日だ。メールは宿屋で窓の外を見上げながらため息を漏らす。

 今日が終わると、リオナは記憶を失ってしまう。

 メールの知っているリオナは死んだも同然となってしまう。

「メール……」

 扉の前から名無しが声をかけてきた。心なしか、声が優しい気がした。

「おい、メール!」

 名無しの声が大きくなる。

「俺はこれから病院に行くが、ついてくるのか?」

 もちろん、ついていく。メールはそう心の中で返した。

(でも、なんとなく気が重いな……)

 それから丸々十分近く、そのまま窓際で景色をぼうっと眺めていた。


          *     *     *


 メールたちは病院の前に来ていた。予想していたが、リオナやライナスたちの迎えはない。

 近くではメールと同じくらいの年の子たちが喋りながら元気に遊びまわっていた。

 数日前も当たり前にあったはずの光景。それが今のメールにはなんだか遠いものに感じられた。

「……名無しさんは、これからどうするんですか?」

「さあ。お手紙様の気分次第だな」

「…………」

「それで、どうする? 入るのか、入らないのか?」

 ここまで来ておいて、会いに行かないのは、リオナたちから逃げるような気がした。結末がどうなったとしても、メールはメールなりのケリをつけなければいけない。そう思った。

「……行きます」


          *     *     *


「ああ、メールちゃん、今日も来たんだね」

「ライナスさん……」

 リオナの病室に入ると、椅子に座ったライナスがいた。たった一日会わなかっただけなのに、ライナスは目に見えてやつれていた。


 ——誤解しないでやってください。妻は、本当はとても思いやりがあって優しいんです。しかしリオナの状態が状態なので。


 昨日のライナスの、弱々しい言葉が耳の奥から思い起こされる。そして離れなかった。

「あの、リオナお姉ちゃんは……」

「ああ、もう病院にはいないよ。妻と二人で外に出ているんだ」

「二人で? 大丈夫なんですか?」

 メールは言った直後に、今のがリオナの母を侮辱したともとれる発言だったと気づいた。

「あ、その、ごめんなさい……」

「いいんですよ。昨日のアレを見たら無理もない反応ですから。でも大丈夫。もう妻にその気はないですよ」

「でも、やっぱり二人きりは危ないと思います。せめてライナスさんだけでも一緒についてあげたほうがいいんじゃないですか?」

 メールがそう言うと、ライナスは首を左右に振った。

「大丈夫です。最後の時間を、二人だけで過ごさせてあげてください」

「ライナスさん……分かりました」

 メールはそれ以上何も言えなかった。言えないほどの思いがライナスから伝わってきたのだ。

「君たちも、もう行っていいんだよ」

「え?」

「君たちまでこんな辛い思いをしなくていいんだ。もう手紙は配り終えているのだろう? もう次の町に行っていいんだよ?」

 それに似た言葉は数日前にも聞いたが、昨日の件がある前と後では重みがまるで違った。記憶をなくす人のそばにいることはこういうことなのだと、まざまざと見せつけられた。

(でも)

 メールは口を開く。

「昨日も言いました。『私は最後までリオナお姉ちゃんと一緒にいたい』って」

「そうか……。本当に優しい子だ」

 そう言ってライナスはメールの頭をそっと撫でた。

「多分、二人は昼過ぎには帰ってくると思う。それまではゆっくりしたらいい」


          *     *     *


 何回来たかわからないくらいだったが、この丘がこんなに殺風景なのは初めて見た。

 基本、リオナの家族が丘を訪れるのは花が咲き乱れる春であり、それ以外の季節には今まで来たことがなかったのだ。今は冬なので、当然花はなく、葉を落とした裸の木々がさびしそうに寒風に吹かれていた。

 しかし、いくら記憶の中の光景と違っていても、ここが思い出の場所であることに変わりはない。

 リオナの母親は、リオナの乗っている車イスを押しながら、ゆっくりと回りを見ながら歩いていた。

「懐かしいわね。ね、リオナ、前にここに来たこと覚えてる?」

「……ううん、ごめんなさい」

 力なく首を振るリオナを見て、当然だろうと思った。最後にここを訪れたのは一年前の春。リオナが覚えているはずがない。

「私たち家族はね、ここに毎年遊びに来るのよ。休日にお弁当を作って。春にはね、今のこの景色が信じられないくらいの花が咲いて、とてもきれいになるのよ」

「へえ、そうなんだ、すごい!」

 リオナのその言葉が他人事のように聞こえて、母親の心がちくりと痛んだ。

「リオナ……昨日はごめんなさい。お母さん、ちょっと取り乱しちゃって」

「ううん、私気にしてないよ。その、私もごめんなさい。お母さんとお父さんに迷惑ばかりかけて」

 そんなことない。母親はそっとリオナの頭を後ろから撫でつける。

 迷惑なんて。子どもが親にそんな言葉使わないで。

「昔の話をしましょうか。リオナがまだ小さかったときのことを」

「うん」

「何を話そうかしら。リオナが恥ずかしい思いした失敗談でも話しちゃおうかしら?」

「ちょっとやめてよー。私なにか変なことしたのー?」

 そりゃ子どもだもの。失敗なんていくらでもあるわよ。

「あれはそう、リオナが五歳の頃だったかしら」

「うん」

「あなたとお父さんがボールを投げて遊んでいたの」

 目の前に小さなリオナと若いライナスが見える気がした。

「お父さんが投げたボールを取れなくて、遠くに飛んでいったの。リオナは必死にボールを取りに走ったわ。そしたらそのボールね。お兄さんが拾ってくれてたのよ。二十歳くらいの人で——、とてもかっこよくてね」

「……まさか」

 リオナは先の展開が読めたようで苦笑いをしたが、当然話を止めるつもりはない。

「お兄さんからボールをもらって帰ってきたあなたを見たとき、びっくりしたわ。五歳の女の子のくせに頬を赤らめながら『私、あの人のお嫁さんになる!』って言うんだもの」

「あー、あー、あー!」

「いろいろと段階飛ばしすぎでしょう? でもあなたは本気だったみたいで、それからずっとキャッチボールそっちのけでお兄さんの方ばかり見てたわ」

「やーめーてー!」

 ぎゃー、と大声を出しながら耳を塞いで意地でも話を聞くまいとしていた。

「それにお父さんも。あの人そんなリオナを見て顔を渋くして、それからずっと不機嫌だったのよ。別にほんとに嫁に行くわけでもないのに」

「あー、恥ずかしくて死ぬかと思った。私そんな子どもだったんだ」

「そうよ。子どものころからずっと頭の中がお花畑で」

「……褒められてる気がしない、それ」

 リオナが口を尖らせる。その仕草がとても可愛らしくって、笑いが止まらない。

「何事にも一生懸命で、元気いっぱいなおてんば娘で、いつも周りを笑顔にしてくれる、私たちの自慢の娘よ」

 リオナは何も言わなかった。母親は視界の先にある一本の木を指差す。

「あそこ、あの木。昔リオナはあの辺りで蜂に追いかけられたのよ。それで蜂に首を刺されて大騒ぎだったんだから」 

「うん」

「それにあそこ。七歳くらいだったかな。あの池を泳ぐ鳥を捕まえようとして、真っ逆さまに池へ落ちたのよ。頭から足のつま先までずぶ濡れでもう大変だったわ」

「うん」

 手の甲にぽたりと落ちた。それはただただ、冷たいものだった。

「それで、ね。十歳のとき、初めて一緒にお弁当を一緒に作ってくれて。あなたのおにぎり、形はひどかったけど、とっても……おいしくて」

「うん」

 思い出すと止まらない。あの頃は笑って、怒って、泣いて。

 楽しいことばかりではなかった。辛いこともあった。

 でも毎日が充実していて、幸せ、だった。

 なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

(私たちは何もしていない。何もしていないのに!)

 ……どうして私たちばかりがこんな目に遭わなければならないのだろう。


 返してください。どうか、あの幸せな日々を返してください。


 もう限界だった。泣き崩れ、嗚咽を漏らした。

「お母さん……」

 リオナがそっと頭を撫でてくれた。とても優しくて、あたたかかった。


          *     *     *


 リオナと母親が病院に帰ってきたのは夕方だった。ライナスの予想よりもだいぶ遅れた。

 どうやら帰る途中に母親が涙を堪えきれなくなったようで、街の人に助けてもらいながらようやくたどり着いたらしい。

 ライナスは二人を送ってくれた人たちにお礼を言っている。

 名無しとメールは遠くから、未だに泣き続ける母親と悲しそうな表情で俯くリオナをずっと見ていた。

「……だから、なんでお前が泣くんだ」

「だって……ごめんな、さい」

 名無しの隣でメールは涙を流していた。せめて声だけは出すまいと口を両手で抑え込んでいる。

 ライナスは全員に礼を言い終わった後、二人のもとにいく前に、メールのそばに来た。

「私たちのために泣いてくれて、ありがとう」

 家族三人は強く肩を抱き合った。そしてライナスは母親を支え、病院へ帰っていく。最初はリオナの車イスも押して行こうとしたのだが、

「私は大丈夫。それよりお母さんをお願い」

 という言葉にうなずき、ゆっくりとした足取りで病院の中へ歩いていった。

 リオナは車イスを自分で動かして、両親の後に続く。その途中で、名無しとメールの元へ寄った。

「メールちゃん。今までありがとう。……バイバイ」

 その言葉の本当の意味を悟り、メールは一層真っ赤に泣き腫らす。言葉は出ず、頭を小さく縦に振ることしかできなかった。

「ナナシさんも、今までありがとうございました。それと——」

 名無しはリオナを見下ろした。覗き込んでくる瞳には光が宿ってた。

「お願いがあります。聞いてもらえますか?」


          *     *     *


 宿屋に帰ってからもメールはずっと沈んだままだった。

 何回か名無しが呼びかけていたが、生返事しかする事ができなかった。

 ようやくメールから話したのは、風呂から上がり、タオルで髪を拭いているときだった。

「……なんとかできないんでしょうか」

「…………」

「こんな、こんなの悲しすぎます。何か方法があるんじゃないでしょうか?」

「…………」

 名無しは沈黙を貫く。

 メールの瞳から、静かに涙がこぼれた。頭の中でリオナと彼女の両親の姿が映っては消えていく。

(私、ずっと泣いてばっか……)

 まだ髪も顔もろくに拭けてないから、気づかれてないだろうか。顔も俯いてるし。

 ふと名無しがメールの頭をぽんと叩いた。タオル越しでも手の感触が伝わってくる。

「もう寝ろ」

 それだけ言って名無しはソファに腰掛け腕を組み、寝る体制に入った。

 メールもそれに倣ってベッドの中に潜り込む。

 ただ、目を閉じる前に、髪を拭いていたタオルを枕に巻き付けておいた。

 もしまた泣きたくなってしまったときに、宿屋の人に迷惑をかけないように。


          *     *     *


 夜の涼しい空気のなか、眠っていた彼女は目を覚ました。夜空にぽつんと浮かぶ月だけが暗い部屋を淡く照らし出している。

 彼女は非常に緩慢な動きでベッドから体を起こした。シーツの擦れる音が心地よく耳に届く。

「目が覚めたか」

 窓からかすかに風が吹いた。顔が無意識に声の聞こえた方を向いた。

 扉の前には誰かが立っていた。しかし部屋に明かりがなかったので、分かるのはだいたいのシルエットだけ。顔も影で見えなかった。

「あなたは、誰ですか?」

「その質問、少し前にもされたな。別の奴に」

 何のことかわからず首を傾げた彼女に「気にするな、こっちの話だ」と呟く。

「俺は誰でもないし、誰でもいい」

 彼はそれだけを告げ、鞄らしいものに黒い手袋をはめた手を突っ込んだ。中からは小包みのような塊を一つ取り出した。

「お前宛の手紙だ、リオナ。受け取れ」

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