The New Days
「もう、いいな?」
次の日の朝、名無しとメールは宿屋をあとにしていた。荷物をまとめ、今日シルメリアを出発する。
メールはリオナのことが気になって、後ろ髪が引かれる思いだったが、すでに昨日お別れを告げた。これ以上彼女のためにできることはないと感じていた。
「……はい。もう、いいです」
じゃ、行くぞ。そう言って名無しはシルメリアのゲートへと向かう。メールはその後トボトボとついて行った。
「メールちゃん、手紙屋さん!」
背後から呼ばれたような気がして、メールが振り返ると、ライナスがこちらの方に走ってきていた。全速力で走ってきたようで肩で息をしていた。
「ああよかった、まだシルメリアにいらしたんですね」
「ライナスさん?」
どうしたんですか、と訊く前に、ライナスはメールの手を取り強く握りしめた。その瞳には昨日まではなかった光が宿っている。
「すぐに来てください。リオナがあなたたちに会いたがっているんです」
* * *
リオナがメールたちに会いたがっているなんて、そんなわけがないと思っていた。
だって、リオナはもう記憶を失っているのだから。メールのことを覚えているわけなんてない。
あるとしたら、奇跡が起こったとしか考えられなかった。
興奮するライナスに連れられて、メールは病室に走った。部屋には医者と看護師と母親と、ベッドの上に腰掛けるリオナがいた。
「リオナ……お姉ちゃん?」
メールはおそるおそるリオナへ声をかけた。彼女から帰ってきたのは、笑顔だった。
「メールちゃん、おはよう」
嬉しくて嬉しくって、車いすに座っているリオナに思いっきり抱きついた。
「リオナお姉ちゃん、今私の名前……。本当に? 本当に覚えてるの?」
「もちろん、だってずっと一緒にいたでしょう? 大切な友達だもん、忘れないよ」
「リオナお姉ちゃん! よかった、本当によかった!」
(奇跡が……、起こったんだ!)
メールは勢いよくリオナに抱きついた。嬉しさのあまり瞳から涙が出てきた。すすり泣くメールをリオナが優しく抱き寄せてくれた。
「ありがとう、心配してくれてありがとう」
ありがとう、ありがとうと、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
「ナナシさんも、ありがとうございます」
名無しは黙ったままだったが、手を挙げてそれに応じた。
リオナの両親の喜びようもすごかった。三年もの間、この日を待ちわびていたのだから、無理もない。
「リオナ、本当によかった」
「今日はごちそうにしなくちゃね」
うん、とリオナは笑顔を返し、メールと名無しを見る。
「メールちゃんとナナシさんはもう行っちゃうんだよね」
「うん、でも、また絶対にシルメリアに来るから! そのときにまた遊ぼう!」
「うん、約束」
そう言うとリオナは静かに小指を突きだしてきた。メールも自分の小指でそれを絡めとる。
「じゃあね、リオナお姉ちゃん。バイバイ!」
* * *
リオナと両親に別れを告げてから一時間ほど後、名無し達はシルメリアから出る馬車の中にいた。
水の都と呼ばれる大都市シルメリアだが、町の外の魔物の脅威は他の町と変わらず存在する。馬車に揺られて数分もすれば、あっという間に辺りは荒野が広がり、街の面影は見えなくなった。
名無しの隣の席で、メールが鼻歌を口ずさんでいた。よっぽどリオナのことが嬉しかったのだろう。
「ご機嫌だな」
「だってそうでしょう? ずっと治らなかったリオナお姉ちゃんの病気が治ったんですよ。嬉しくないわけがないですよ! 名無しさんも嬉しいでしょう?」
「そうだな……」
名無しはニコリともせずに馬車の外に目を向ける。ぼんやりと昨日のことを思い出した。
* * *
七日目の夜。病院前で名無したちがリオナと別れを告げたあと。日が変わる少し前。
まだ病院は戸締りをしておらず、手紙屋と名乗り出たら、受付の看護士は笑顔で病室まで案内してくれた。
「……来てくれたんですね」
名無しの姿を見たリオナは小さく息を漏らした。本当に来るか心配だったのだろう。その顔には安堵の表情が見えた。
リオナは視線を名無しから窓の外へと移す。その先には夜の黒と月の白が織りなす、幻想的な風景が広がっていた。月の光が町中を流れる水路にキラキラと淡く反射する。
「……綺麗ですね。すごく、綺麗……でも、この景色を私はあと少しで忘れてしまうんですね」
そうつぶやく彼女の声はとても小さかった。名無しは黙って聞いていた。
「景色だけじゃない。昨日までに会った人達のことも。お父さんとお母さんのことも。メールちゃんのことも。無口だけど、どこか優しい手紙屋さんのことも」
忘れるって、どういうことなんでしょうか。リオナは悲しそうに言った。
「明日起きたら頭の中が真っ白になっているんでしょうか。自分の名前も思い出せないんでしょうか。そんなの、信じられない。私、怖い。忘れることが、怖い」
でも、私が忘れることよりも、もっと嫌なことがあります。リオナは続ける。
「お父さんとお母さんが悲しんだ顔を見ることのほうがもっと嫌です。悲しい涙はもう見たくない。二人には笑っていて欲しいんです。だって親なんですから。もう悲しむのは今日で終わりにしたいんです」
リオナは体の横に置いていたものを手に取り、「アナタは手紙屋なんですよね。お願いしたら手紙を届けてくれるんですよね?」と、確認するように問いかける。
「ああ。それが手紙屋だ」
「これを、届けてください」
名無しはリオナから、彼女が手に持っていた手紙を受け取った。手紙、と呼ぶには余りにもそれは大きすぎた。中には紙きれではなくノートか、もしくは辞書のような冊子が入っていることは簡単に予想できた。
名無しはそこで、小包に宛先が書かれていないことに気づいた。
「これは誰に届けるんだ?」
「私に」
「お前に?」
「はい、届けてください」リオナはそこで言葉を切り、大きく息を吸う。「明日の私に。数時間後の、記憶を失った『リオナ・マクセル』に届けてください」
「明日のお前に、か」
名無しはそこで簡単に予想できた。彼女がこの手紙に書いた内容が。そして何をしようとしているのか。何をさせようとしているかが。だからこそ問いかける。
「本当にいいんだな」
「はい」
リオナの返事は力強かった。
「でも私はこれをアナタに渡して、明日の私に届けるだけです。これを読んで、どうするかは明日の私次第です。病気が治った私を演じ続けるのも、日記を捨てて今までと同じ一週間を送るのも、明日の私の自由です」
「そうか」
名無しはそれだけ言うとポケットからペンを取り出す。腕で手紙をしっかりと支えて何も書かれていない黄土色の封筒に静かに『宛先 リオナ・マクセル 時間指定』と書き込む。
その時だった。病室のドアがノックされ、「もう病院は閉まります。そろそろ終わらせて下さい」と、名無しを案内した看護師の声が聞こえてきた。
名無しはリオナに背を向け、ドアに向かう。その手に大きな手紙をしっかりと握りしめて。
「お願いします、ナナシさん。手紙、必ず届けてください」
リオナの小さな声は、ドアの開閉する音で名無しには届かなかった。
* * *
「名無しさん!」
そこまで思い返していたところで、メールの声を聞き我に返る。
「なんだ?」
「なんだ、じゃないですよ。むしろこっちが訊きたいくらいですよ。何回呼んでも返事してくれなかったですから。考え事してたんですか?」
「そんなところだ」
「ふーん。でも今名無しさんが何考えてたのか、私には分かりますよ。リオナお姉ちゃんのこと考えていたんですよね?」
まさにズバリで、名無しはほう、と感心した。
「何でそう思った?」
「だって、私もリオナお姉ちゃんの事を考えてましたから。よかったですよね。ちゃんと記憶が残っていて。私、本当に嬉しかったんです。だって記憶を失ってしまうなんて、そんなの悲しすぎますから」
名無しは自分のことのように喜ぶメールを見つめる。この無垢な少女は今も信じ続けている、リオナの嘘を。本当にリオナの病気が治ったのだと。
目の前の少女の笑顔。これがリオナの背負ったものだった。
彼女はこれからも嘘をついていくだろう。両親とメールにも、今まで出会った人たちにも、これから出会うであろう人たちにも。
そしていつか、また記憶を失う。なぜ自分が嘘をつくのか、そのことすらも忘れてしまう。
でも彼女は嘘をつくことをやめないだろう。今日、何も知らなかったあの子は、そう決心したのだから。死ぬまで嘘をつき続ける。
彼女の選択は、正しかったのだろうか——?
名無しには答えが出せない。彼はただ、仕事をこなしただけだ。
「早くシルメリアに行きたいですね、名無しさん」
メールが名無しに呼びかける。何も知らずに。屈託のない笑顔を浮かべて。
「街を出た直後に何を言っている」
「でも名無しさんも会いたいでしょう? シルメリア宛の手紙が手に入ったらすぐに行きましょうね。リオナお姉ちゃんに会いに」
馬車は進む。メールのキラキラした視線から目をそらしながら、名無しは小さくため息をついた。
「……ま、考えとく」




