第八十九話 特別ボーナスのために
お待たせしましたm(__)m
翌朝。
執務室の空気はいつも以上に重い。
何せ昨日も定時退庁を阻まれたうえ、癒やしの聖域である『ル・ビジュー』の門前で絶望を味わったのだ。
これも全ては残業のせいだ。
塵も積もれば何とやら、私の恨みは深いのだ。
私はペンを走らせながら、淡々と決裁書類を分類しているが、内心では怨念の炎を燃やしている。
表面上は無表情のはずだが、殿下は私を見るなり不快げに眉を顰めた。
「……リリアナよ、今日はより一層と陰気な顔をしているぞ。空気が淀む。とっとと普段の地味な表情に戻せ」
殿下が不機嫌を絵に描いたような顔をしながら吐き捨てた。
元はと言えば殿下たちのせいだと内心で毒づきながらも、淡々と返す。
「おはようございます、殿下。私の顔色は通常通りです。それより、本日のスケジュールは分刻みですので速やかに書類に署名をお願いします」
「王都への即時帰還命令書だな。ミハイルを演劇の『男役』として投入する件か」
「はい。不眠不休で馬を走らせることになりますが、ミハイル様なら三日で到着します」
殿下は普段の冷酷な笑みを浮かべると、躊躇なく帰還命令書に署名した。
「ミハイルには悪いが、イザベラの有り余る情熱を受け止める防波堤になってもらう。……まあイザベラの燃え上がるほどの情熱も嫌いではないが、こうも毎日浴び続けていては結婚式までに俺の身が保たんからな」
殿下は呆れたように吐き捨てたが、その声色には隠しきれない熱が籠もっていた。
口では冷たくあしらってはいるものの、殿下はイザベラ様を愛している。そんな殿下の不器用な愛情表現を脳内で処理しながら、私はすかさず『予算執行計画書』を提示する。
「次は予算管理の書類です。カトレア様から出資された金貨五千枚ですが、総監督に就任したイザベラ様から提出された『必要経費リスト』の八割を、私がこっそり差し止めました」
「ほう……。五千枚全てをイザベラの好きにさせるわけではないということか。良い判断だ」
「当然です。イザベラ様に全てを任せてしまえば、軽く三倍の予算がかかり、赤字になるどころか国が破綻します。ですので『背景用の特注クリスタル装飾』に要求された三千枚を、安物のガラス玉に変更しました。もちろん浮いた予算は機材の修繕費と不測の事態に備えた予備費として、私が厳重に管理します(特別ボーナスのために!)」
私は極めて事務的な、それでいて一片の隙もない澄まし顔で言い切った。
手元の『必要経費リスト』には、私が容赦なく引いた取り消し線が血の海のように広がっている。殿下はその惨状を呆れたように眺め、小さく息を吐いた。
「……まあ、お前に任せておけば安心か。だが、イザベラの審美眼は本物だ。偽の装飾如きで誤魔化せるとは思えんぞ」
「そこは『貴女の演出力で安物のガラスをクリスタルに見せてこそ本物です』と煽って乗り切るだけです」
「……相変わらず悪知恵の働く奴だ。だが、イザベラのプライドを逆手に取るには悪くない手だ」
殿下は手元のペンを置き、心底愉快そうに冷笑を溢した。
どうやら満足いただけたようだ。
私は眼鏡を中指で押し上げ、同意を受け取った。
これで私の特別ボーナス確保、もとい予算削減案が可決されたも同然だ。
「イザベラは逆境の中で怒りに燃えている時の方が美しいからな……いや、何でもない。せいぜい舞台上でカトレア嬢と火花を散らせておけ」
あからさまに顔を背けた殿下が書類を私に放り投げた。
「はい。それでは、私は劇場へ向かいます。今日から本格的なリハーサルを始めるとのことですので」
私は即座に踵を返した。
その足取りに迷いはない。劇場での業務をサクッと終わらせて、今日こそは絶対に定時で退庁するのだ。
背中で殿下が何か言いかけた気配を感じたが、私は聞こえなかったフリをして執務室を後にした。
◇
三日後の夕刻、王立劇場。
私が到着するや否や、そこは怒号が飛び交う騒然とした空間になっていた。
「そこ! 歩き方がなっていないわ! 貴方はジュリエッタに恋する貴族であって、市場で芋を値切る農夫ではないのよ!」
演出席に座るイザベラ様が、極彩色の扇子を振り回しながら指示を出している。
舞台上では、カトレア様が連れてきた太鼓持ち軍団、ならぬ『潤い賛美歌隊』ともいえる令嬢たちが、演技指導によって疲労困憊していた。
「イザベラ! わたくしの賛美歌隊にあまりに失礼ではなくて!?」
「あら? 勘違いしないで。彼女たちは今、私の舞台を構成する石ころ以下の存在なの。輝きを放つのは主役のカトレア、貴方一人で十分でしょう?」
二人の非生産的な口論を横目に舞台裏へ向かうと、エステナが死んだ魚のような目で羊皮紙を睨んでいた。
「リリアナ様、お疲れ様です。先ほどカトレア様が『ジュリエッタの登場シーンで本物の白鳩を百羽飛ばす』と言い始めましたので、鳩のレンタル代と劇場の特殊清掃費を計算して胃を痛めていたところです」
「お疲れ様です、エステナ様。奇遇ですね、私もイザベラ様から提出された要求リストを八割方消し飛ばし、物理法則と戦っているところです」
私たちは鏡写しのような無表情のまま、同時に深い溜め息を吐く。
似た者同士の束の間の傷の舐め合いであるが、そんなささやかな時間はすぐに断ち切られる。
「リリアナ、この予算ではやっぱり納得がいかないわ。なぜ、大道具の『黄金の馬車』が『木製のリヤカー』に変更されているの!?」
「簡単なことです。イザベラ様ご自身が『美学こそが最大の寄付』と仰いました。つまり、素材の質を技術で補うことこそがイザベラ様の演出能力の証明です。それに……殿下も仰ってましたよ」
「えっ、あの人が何と言っていたの?」
「『イザベラは逆境の中で怒りに燃えている時の方が美しいからな……』と。恥ずかし気に背けた横顔に隠し切れない熱情も浮かんでいました」
「まぁっ……!?」
イザベラ様は両手で頬を覆い、体をクネクネとよじらせながら瞳を輝かせた。
「これも愛の試練だったわ……。そうね、あの人の言う通りだわ! ただの木製リヤカーを、私の圧倒的なオーラと演出で『黄金の馬車』に見せてこそ、本物の総監督というものね! 愛しの殿下、見ていてくださいませ、このイザベラ・フォン・ローゼンバーグが、必ずやり遂げてみせますわ!」
イザベラ様が熱く闘志を燃やす中、私は静かに懐中時計を取り出す。
時刻は午後五時ちょうど。
「それでは、本日の私の業務はここまでとさせていただきます」
「お待ちなさい、リリアナ! まだジュリエッタが毒を飲む仕草の最も美しく見える倒れ方の角度が決まっていないわ!」
「それは重力に従えば自ずと解決する問題です。失礼いたします」
背後でイザベラ様の抗議の声が聞こえているが、私は速やかに劇場を後にした。




