それがきっと、酔っ払いの礼儀
正直な話、私はマデリーン嬢からの色よい返答はあまり期待していなかった。
慕ってくれるまだ歳若い部下、マディの甥であるリールベイは事あるごとに私を応援していると言ってくれていたが、肝心のマディからは再会以来二日たてど三日たてど何の接触も無かった。当然だろう、彼女にとっては唐突だろうタイミングで愛の告白までしてしまった挙句、私は彼女から向けられた呆然とした顔に耐え切れず逃げるように部屋を辞してしまったのだ。リールベイの上司としての私には好感を持ってくれていたようだったが、今の私は自棄酒をしていた情けない男であるのに加え、此度の件で言い逃げした男という評価まで加わっている。そんな相手から愛を囁かれて戸惑い以外の何を抱けと言うのか。まず最初は遠まわしな断りの言葉が来るであろう事を予想し、私は彼女の心がこちらを向いてくれるまで長期戦を覚悟していた。マイナスからのスタート、結構である。何事も積み重ねで結果を勝ち取るのが私のやり方だった。
だからこそ、その日受付嬢からもたらされた言葉に私は驚愕した。
私が日中の鍛錬を終え軍施設の自室に戻ると、長い黒髪を高く結った近衛隊の部下達にも人気の高い受付嬢が部屋の前に立っていた。彼女から私は先日好意を仄めかされたが、私の心も体もマディ一人にしか向いていない。申し訳無いと思いながらもはっきり断っていた。その彼女が今ドアの前にたっている。何事かと不自然でない距離をとり問う私に、クレメンス様、と彼女が言った。伝言が届いております、マデリーンと仰る女性から、お友達からお願いします、と。
思っても見ない了承の返事だった。私は驚愕し、興奮して彼女の両肩を掴んで叫んだ。それは本当か、嘘偽りないか。私の剣幕に受付嬢は戸惑い、頬を染め頷いた。私は感激し、脳裏に馬の頭が浮かび同時に何故か股間が反応した。マディをこの腕に抱ける―――それを思うと、居ても立ってもいられなかった。私は興奮冷めやらぬまま受付嬢に微笑み、ありがとうと言った。そうだ、明日デートに誘おう。馬の頭も届けてやらねばなるまい。夢想する私を現実に引き戻したのは、受付嬢の体の感触だった。
クレメンス様。私に抱きつき、彼女が私を見上げて言った。どうしても、私を好いては貰えませんか。情欲と好意を滲ませた目でそう問われ、私は途端にしぼんだ股間に気付き首をふった。物理的に無理だ。答える私に受付嬢が俯き、ならばせめて一夜の思い出をくださいと言った。よりによってとも思う発言だ。不能な私にとってその発言は裸丸腰で豪雪地帯に行けと言われるものに等しい。私の拒否にしかし彼女は納得せず、己のブラウスのボタンをはずして見せた。放漫な乳房が露になり、それを見せながら控えめなようで挑戦的な目付きで私をみた。私はしばし考えると一旦彼女に離れるよう言うと部屋に入り、持ってきたマディの馬の頭を彼女にかぶせてみた。馬の頭を装備した彼女が呆然とし、くれめんすさまと言った。己の股間が静かな眠りについた。やはり、私にはマディしかいない。立場こそ部下ではあるが友人であるラルフレッドの部屋に駆け込み、女性を喜ばすデートについて問うたのはそのすぐ後のことだった。因みに不思議な事に受付嬢は馬の頭を残し、消えていた。
翌朝、待ちきれず早々にデートに誘いに出向くと、寝起きの素朴なマディが出迎えてくれた。赤銅色の髪が乱れているのが何とも可愛らしく、浮かべる笑顔がしまりの無いものになっている自覚はあったがどうしようもなかった。持参した花をマディに差し出すと彼女ははにかみ、忘れないよう入れ物にしていた馬の頭を見て微笑んでいた。まるであの日のことはちゃんと覚えてますと言われたような心持になり、天にも上りそうな喜びを感じた。マディの笑顔が見たくてラルフレッドの助言通り闘犬賭博へ行ってみたが、結果としては惨敗で逆に気を遣われるという散々な結果を招いた。反省をしながらも微笑んでくれたマディがいて嬉しかったが、どうもマディがこの交際について大きな誤解をしていることが解り多少落ち込んだ。この場で訂正するのも良かったが、それよりも態度で示した方が説得力も有る。もとより長期戦覚悟だったのだ、嫌われていないのが解っているなら、これから時間をかけてわかって貰えばいいとあまり深刻には捉えなかった。
だから三度目のデートで、まさかこのような不測の事態に直面するとは思わなかったのだ。
連れて行った食事所で出された酒が思いの他強く、私は早々に飲むのを辞めた。マディにも注意を促そうと思ったが、彼女がいつになく陽気で頬を染めて微笑んでくれているのを見て惜しくなった。それをもっと見たい、もっと彼女に笑って欲しい。体ばかりが彼女の虜であった私は、いつしかすっかり心まで彼女に奪われていた。彼女の酒が六杯目を越したあたり、私は意を決して彼女に言った。マデリーン・レスハット。嘘偽り無く、私は君を愛している。私との未来を考えては貰えないか。心拍数が異常なほど高鳴るのを自覚しながら私は彼女を見守った。彼女はぼんやりした顔でふと俯き、沈黙した。悩んでいるのかと思ったが、それにしては長すぎる沈黙に心配になった。大丈夫かマディ、あまり飲みすぎては。もしや飲みすぎたかと慌てて声をかけた私に、彼女がぱっと顔を上げて言った。『だーいじょーうぶでごっぜぇまさぁあああ閣下!心配はいらねぇ、そうとも我らは一心同体!夜の戦いはこれからだぜぇええ!』
そう言い放った彼女は、立ち上がると懐から財布を掴んでカウンターに金を叩きつけ、笑いながら釣りはいらねぇよと叫んで店から飛び出した。私は目を丸くする店主に軽く挨拶をして後を追い、マディの姿を探した。既に陽が落ち真っ暗になったそこは酔っ払いやごろつきがちらほらと姿を見せ始め、マディが絡まれていないか心配になった。姿の無い彼女を探し、マディと名を呼びながら走り出そうとした矢先、ぽんと肩を叩かれ振り返った。そこに何とも野性的でエキセントリックな笑みを浮かべる鹿が立っていた。
ハッハッハ隊長、次の行き先はこの鹿に任せてみやがらねぇかい。そう言って斜めに首を傾げ親指を立てる鹿に、私はいつぞやの馬を見た。見た目も態度も別人のようだが、間違いなくマディであると確信する。とりあえず鹿マディにあわせ、ならば君に任せてみようと言うと鹿彼女が勢い良く手を打ち付けると肩を組んできた。よっしゃあ行くぜ、まずは闘犬賭博だこの野郎!叫ぶ彼女に私は笑い、アルフレッドの助言はあながち間違いではなかったかと思いながら今度は負けないぞと言った。結果は鹿共々惨敗であった。その雰囲気を振り切るようによーしこの野郎、次はてめぇの家で飲みなおすぞ!この鹿を案内しろってんだと鹿が叫んだ。私もその頃にはだいぶ飲まされ、望むところだといいながら二人で肩を組み軍歌を歌って行進した。兵舎があるため滅多に帰らない場所ではあるが、私にも一応家は有る。そこへ翌朝を見越して出来合いの食事を買い込むと、朗々と軍歌を歌う鹿をつれ家へ帰った。鹿と私は語り合った。鹿は己は鹿としての自覚がまだ足らないと悔しがり、私はそんなことはないと涙ながらに否定した。鹿はおいおいと泣き出し、唐突に立ち上がるともはやこれまでと叫びながら全裸になった。同時に鹿の頭も落ち、私はようやく鹿がマディであったことを思い出した。全裸で床に大の字で転がる彼女を見て私の股間が一気に目を覚ましたが、先日のデートでマディが誤解している事を思い出し根性で衝動をねじ伏せた。目の前には裸の恋人、その隣にはニヒルに笑う鹿の頭、そして服の上からでもはっきり解るそそり立つ己の股間。時計の音がチクタクチクタクと鳴り響く空間に、そんな魔のバミューダトライアングルが形成された。私は引きずり込まれそうな空間からはっと我に帰り、ついつい凝視しそうな目をむりやり剥がしていびきをかきはじめたマディを抱き抱えるとベットへ運んだ。ここで負けたらきっと二度は無い。マディは二度と戻ってこないと言い聞かせ、私は彼女を直視せず掛け布団をかけ立ち去ろうとした。が、それは背後から伸びてきたほっそりした腕により阻まれた。うえっへへへどこいくんだ隊長、裸祭りはこれからじゃあああ!唐突にそう叫んだかと思えば、硬直する私から寝ていたはずのマディが服をむしりとり、そのままベットへ引きずり込んだ。私は抵抗した。まずい、このままだと私の股間は暴れ出す。うわははははという笑い声を聞きながら、彼女に怪我をさせないようにどうにか脱出しようと四苦八苦抵抗していた私は、突然に後頭部から響いたごいんという音と共に目の前が真っ暗になった。力が抜け、失われていく意識の中でマディのうへへへへという笑い声が響いていた。
翌朝、蒼白のマディに何もしていない事を伝えリビングに戻ったが、入ってきた彼女は何とも複雑そうな顔をしていた。私は昨日の返答を貰えるのではないかと思い、彼女の言葉をじっと待っていた。だが返ってきたのは記憶が無いという現実で、私は思わずなるほどと思った。つまりは何だ、昨日の鹿であったときのみならず、馬であったときの記憶も彼女には無いのだ。ならば私の不能である告白も苦悩も彼女は知らず、何故私がマディに固執しているのか全く理解できない訳だ。溜め息混じりに突っ伏した私をマディが戸惑う声で呼び、私はもう一度彼女に一から説明をしようと思った。そのために、まずはこの嘘偽り無い愛を伝えねば。
けれど彼女が返したのは、どうしようもない拒絶だった。私は彼女にこれほどまでに嫌われていた。多少なりとも好かれていると思ったのは私の妄想であったのだ。私の腕からすり抜けてしまった彼女を思い、私はがっくりとひざをついた。そこで床に転がるニヒルな笑みの鹿と目が合い、私は力なく笑って鹿に言った。お前は鹿としての自覚と言ったが、私は嫌われている自覚を持たねばならなかったのだな。
軍上層部に戦場への転属願いを出したのは、翌日の事だった。引き止める高級幹部に何も言わず、私はただ宜しくお願いしますと言うとその場を辞した。近衛隊の部下達にも強く反対された。多少意固地になっている面もあったが、私にとってマディとは救いだ。その救いが絶たれた今、私にはもう戦場で剣を振るうしか価値がないように思えた。伯母の事はどうするのかと涙するリールベイに真実は話せず、私はただ残された救いはもう戦場しか残っていないのだと微笑んで言った。もはや何に対しても私は執着を持たない。これでいいのだと、己に言い聞かせていた。
そろそろ家の荷物を片付けようと思い立ち、夕方に軍施設を出ようとするとアルフレッドに捕まった。懸命に説得しようとするアルフをあしらいながら歩いていると、唐突に目の前で派手な水しぶきがあがった。慌てて駆け寄ると女性が落ちてもがいている。助けなければ。そう思った矢先、声をかけると相手が川から顔を出した。水面に広がる、赤銅色の髪。アルフが何かを言っていたが、私はそのまま川へ飛び込んだ。まさか、と思いながら、体は引き寄せられるように女性に近づいた。抱きしめたその感触に、股間がずくんと反応する。―――マディ。
助けた彼女は咳き込み、かわいそうなほど震えていた。何も聞かずにいようかと思ったが、一縷の望みに賭けて尋ねた。どうしてここに。
マディは謝罪の言葉を述べた。私が戸惑い嫌っていたのではと問うと否定した。それからのことはもう、夢の中のことのようだった。氷解していく彼女の心を、私は雫一つ零さず懸命に抱きしめた。
「私の負けです。―――愛しています、クレメンス様」
その言葉が私をどれほど舞い上がらせたか、歓喜の中に放り込んだか、きっと彼女はわからないだろう。
これまでもこれからも、私はマディに救われる。確かにはじまりは酔った上での過ちだった。だがそれをただの過ちとして終えるには、彼女はあまりに私の琴線に触れすぎた。あの日酔った彼女に絡まれたのは私だか、実際彼女に絡んだのは私だ。
酒は飲んでも飲まれるな、と笑い混じりに人は言う。それは酔って失敗した先人の、経験から来る戒めの言葉だ。酔っ払っていても、起こした失敗には責任を持たねばならない。だからこそ、酒は飲んでも飲まれてはならないのだ。私も理由はどうあれ、したたかに酔っ払って酒に飲まれていた。ならば、起こした失敗―――愛する彼女に信じて貰えないというこの事態は、信じて貰えるまで長い時間かかっても私は頑張らねばならないという事だ。
それが恐らく、クレメンス・ラオ・クラウスという酔っ払いの責任であり、礼儀であるのだろうから。