13 浮気したらやだよ
ツアー初日だというのに、ヴァイラは気だるげに起きてきた。
大きなステージを控えているとは思えない緊張感のなさは、肝が据わっていると前向きに捉えるべきか。
「眠いよぉ」
「俺のセリフだ、なんで俺が夜中に来ておまえの荷造りから始めてるんだよ」
「まじありがとぉ」
「さっさとシャワーしてこい。洗濯物はうちでやっとくからまとめとけ」
「だるい……」
「出発まで二時間だぞ、急げよ」
ヴァイラをバスルームに放り込んで、いつものように朝食を準備する。
昨夜の甘い余韻はどこへやら、なんとも慌ただしい朝だ。
それも仕事終わりで来るのが夜中になったので、そこからヴァイラがやりっぱなしにしていた荷造りをし、それからヴァイラのいつまでも続く甘えに応えた。
多分、二人とも数時間しか眠っていない。
自分はいいとして、ヴァイラは大事な仕事の初日である。
アンデが到着したときには仮眠はしていたものの、危なっかしすぎる。
ヴァイラお気に入りのオムレツと、アンデいち押しのライ麦パン、りんごヨーグルト。
食後の紅茶もセットしておく。
バスルームからしばらく鈍いドライヤーの音が聞こえていて、一応髪が整ったヴァイラがようやく出てきた。
それでもシャワーである程度目が覚めた感じだ。
「早く、食え」
「アンデ、きびしい……昨日はめっちゃ優しかったのに……」
「時間がなくなるっつってんだ」
ヴァイラが空にした皿からさっさと引いて、洗っていく。
軍隊にこんなマイペースな人間はいないので、時間をまったく意識していないヴァイラが信じられない。
ヴァイラを急かして急かして、ようやく食事を終わらせた。
「あ、メイク」
「は?まだやんのか」
「アンデ、こわい〜」
「おまえが余裕こきすぎなんだよ、時計を見ろ時計を」
「まだ大丈夫だって」
化粧台でメイクを始めるヴァイラ。
アンデは我が事のように焦ってしまうが、ヴァイラは一向にマイペース。
もうスーツケースを玄関のところまで準備しているのに。
✶⋆∘༓∘⋆✶
車に乗り込んで、会場に向かう。
首都であるこの街での初日は、五千人規模のホール。
それでも今のところ、ヴァイラは冷静そのものである。
「今日から一人で寝るのやだな……寝るとき電話していい?」
「いれば、出る」
「シャツ入れてくれた?アンデの」
「は?入れてねぇよ」
「えぇ〜なんで?あれがないと寝れないんだけど」
「持って行くなよそんなもの」
「信じらんないまじで困る」
「んなもん知るか」
「ねえまじで無理だからそのシャツちょーだい」
「待て待て待て、運転中だろうが」
危うくヴァイラにシャツを引き裂かれるかと思った。
最近、ヴァイラの我儘度が増している気がする。
かわいい。
「おれがいない間、浮気したらやだよ」
「は?誰がするか」
「付き合いで他の人のライブとかはいいけど、女の子のお店はやだ。あともちろん男の方もやだ」
「行かねぇよ」
ヴァイラにはその辺何も言わないのに、ヴァイラからは言われるのは。
別に、いい。
そもそも、こんな話題は今初めて出た。
ヴァイラが独占してくれているような気がして、むしろ嬉しさを覚えるほど。
「おれも、しないから」
「ん?」
「アンデ以外と、しない」
アンデの腕を取って、顔を寄せてくるヴァイラ。
「……やっても、怒んねぇよ」
「なんで?おれ嫌だもん」
「おまえは気にせず、最高のパフォーマンスができる状態にしておけ」
「もう、違う、アンデ。
そこは“浮気したら許さない”でしょ」
「なんだ?おまえを束縛したらいいのか?」
「束縛してよ」
「なんなんだよ……」
ヴァイラは、本気で言っているのだろうか。
彼が成功できるなら、何でも協力するけれど。
本気でなのか、揺さぶりなのか、じゃれているのか、どう捉えたらいいのか測りかねている。
アンデの内面にするりと入り込んで、勝手に居座っている猫みたいだ。
✦
会場の裏口に到着し、駐車場へと乗り入れる。
急かしたおかげで、時間にはまだ余裕があった。
会場地下の駐車場の端の方へ、車を停めた。
ヴァイラの荷物を下ろし、助手席のドアを開ける。
「ヴァイラ。
これ、持っていけ」
ヴァイラが降りる前に、小箱を差し出した。
「なに?これ……あ、」
パッケージを見て、ヴァイラは中身を把握したよう。
「“メルティン・バール”じゃん。なに?フレグランス?なんで?」
「おまえ、誕生日だっつっただろ」
「……!」
ヴァイラの目が、初めて見るほど大きくなった。
「俺のと同じ香りだよ。ツアー中、それでなんとか頑張れ」
「まじで……
めっちゃ嬉しい……ありがと、アンデ」
助手席から、ヴァイラがアンデの首に腕を巻き付けてきた。
ハグを返して、そのままヴァイラのキスを受け止める。
「開けていい?」
「ああ」
早速箱から出して、瓶を手にとって、ヴァイラはうっとりと見つめた。
「瓶かわいい」
早速手首に一振り、爽やかな香りが広がった。
「うわ、めっちゃアンデの匂いじゃん。ずっとつけとこ」
アンデと同じ香水をまとったヴァイラは、思った以上に、自分のもののような錯覚をしそうだった。
その彼が、今夜、大きな舞台に出ていく。
誇らしい気もするし、自分の手を離れてしまいそうな気も、少しだけ。
離れるも何も、自分のものではないはずなのに。
「……もう行こう。到着日、また教えてくれ。迎えに行ける時間なら、行く」
「うん。
一緒に中入れたらいいのになぁ」
「さすがに無理だろ」
「もっと出世しなきゃあ」
車を降りるヴァイラに手を貸して、
「席から見てる。頑張れよ。
――誕生日、おめでとう」
「ありがとぉ、アンデ」
もう一度しっかりとハグを交わして、ヴァイラは車を降りた。
アンデが荷物を持って、関係者入口の手前まで歩く。
いよいよ会場の中へと姿を消すヴァイラは、もう既に歌手の“ヴァイラ・ツェーリ”に変わっていた。
✶⋆∘༓∘⋆✶
客席は、“エルメト・デア”を観に来た客で一杯だった。
大きなホールで、地下のライブハウスとは比べ物にならない観客数。
自分が出るわけでもないのに、アンデは妙に緊張してしまう。
会場が暗くなり、アナウンスが告げた――ヴァイラ・ツェーリの名を。
曲の始まりが会場に流れた。
バンド形式ではなく、レコードの音源で歌うと聞いている。
照明が一気に点き、ヴァイラが単体、ステージに登場した。
マイクの前に立ち、いきなり声をぶつけるように、マイクにぶち込む。
(安定してる)
一声聞いて、安心した。
力強く、太い声。
その細い体から発せられるのが、不思議なほどに。
高い音までしっかり歌い上げ、余すところなく、実力を見せつける。
躍動感のある曲は、最初ヴァイラがバンドと衝突したときのもの。
あのときはバンドに速さを伝えようとしていたと聞いたが、バンドが居ない今も、頭を振り激しいリズムの取り方をする。
ヴァイラは大丈夫と言っていたが、激しいパフォーマンスは、どうにも心配になってしまう。
でも、朝からしっかり食べさせたし、大丈夫なはずだ。
曲が終わると、会場からは緩い拍手。
ヴァイラも、前座だからエルメトのおまけ程度と自分で言っていたが、本当にそれを思い知らされる観客の反応だ。
アンデは、周囲で一人だけ、大きな拍手を送る。
歌い終えて礼をするヴァイラの姿は、間違いなく美しい。
ヴァイラの持ち時間は三曲分だと聞いていた。
短いが、それが前座の役割。
もっと、ヴァイラの歌を聴いていたい。
美しい高い声が、ホールいっぱいに響き渡る。
ライブハウスよりも、もっと大きく、体に響いてくるヴァイラのエネルギーを感じた。
今はマイクスタンドをしっかり掴んで、しっかり根が張っているような雰囲気で歌うヴァイラが、なんだか頼もしい。
初めて見たとき、妖精のように儚げな印象だったのを思い出したけれど、今はもっと――
美しくも、透明感もあるのに、それでいて存在感のある、力を秘めた、音の精霊のよう。
‐‐
学校で習ったよな ダイヤは最高硬度だって
きみもそろそろ覚えとけよ 僕は砕けないって
‐‐
歌詞を深く考えたことはなかったが、今なら思ってしまう、
(砕けるだろ)
ダイヤにだって、弱い角度がある。
(なら、砕けないように、俺が守りたい)
‐‐
地中に埋もれていようと
ずっと夜が明けなくても
僕は自分で輝く この暗闇の中で
‐‐
もうヴァイラは、もう地中の存在ではない。
地上に、堂々と立っていて。
でも、立ち続けられるのかはどうにも心配で。
一人でやるな。俺がいる。
下から押し上げてやるから、存分に輝け。
歌を聞きながら、そんな思いが飛び出す。
そう、ツアーにだってついて行って、いつでも側にいられるような――
(俺は、何を)
途中で否定しかける自分もいるが、ヴァイラへの思いは、溢れて止まらない。
もう今はそれでいい。
ヴァイラ・ツェーリの歌に、感情を委ねて、溺れて。
(おまえが、好きだ)




