1 この後、お時間ある?
スポットライトに照らし出される、繊細なシルエット。
透き通った声が切なく響く。
セイレーンの歌さながらに、耳が否応なく惹きつけられるよう。
奥のカウンターに座る男は、氷の入ったグラスを置いてステージに目を向けた。
ヴァイラ・ツェーリ――地下のライブハウスで歌う、まだ無名の歌手。
同僚がときどき聴きに来るということで、飲みがてら誘われた。
客入りは半分ほど。
少なめの平日が穴場だと同僚は言った。
男だが、随分と線が細くて仕草が中性的。
長い黒髪がライトで紫に照らされる。
裏声で高い音を美しく歌い上げるのが、女声と違って不思議な魅力を醸し出す。
いつの間にか、飲むのも忘れて聴き入っていた。
ステージが終わり、彼が優雅にお辞儀をして顔を上げた瞬間――目が合った気がした。
✶⋆∘༓∘⋆✶
「隣、よろしい?」
同僚は先に帰ったが、もう少し飲んで余韻に浸っていたところ。
隣に来たのは、ヴァイラその人だった。
美しいが芯のある歌声のイメージと違い、細くて揺らぎそうな声。
「ああ……どうぞ」
彼が隣のスツールに腰掛けると、店員がおそらくいつものグラスをすっと差し出す。
氷も入っていなくて、きっと本当に彼専用の飲み物なのだろう。
ヴァイラは一口喉を潤すと、
「来てくれてありがとう。あなた、初めて?」
「ああ、初めてだが……」
「一緒に来てたお友達は見かけたことあるの。ときどき来てくれてるみたい」
「俺は彼の同僚だ。たまたま、誘われて。
――客の顔をいちいち覚えているのか」
「全員じゃないけどね。
駆け出しの無名歌手だから、できるだけお客さんにも挨拶するの。常連さんの顔はそれなりに覚えてるよ」
「俺にも、挨拶に来てくれたというわけか」
「ん、そう」
「光栄だよ。――音楽なんて大して知らない俺が、夢中で聴いたほど、素晴らしかった」
「本当?ありがとう」
近くで見るヴァイラは小柄で華奢、ステージ衣装と化粧のせいか、透き通る妖精のようだ。
言い方を変えればどこか人間味に欠けているような、少しばかり危うい雰囲気もある。
「お兄さんは、もしかして軍人さん?」
「――ああ、そうだ」
「雰囲気がそれっぽい。体が分厚いんだもん」
「まあ……大体当てられる」
「お兄さんのお名前は?」
「アンデ」
「アンデ」
ヴァイラが名を繰り返す。
その声は、妙に艶めいていて甘い。
ヴァイラに顔を向けると――
彼の前髪の間から、翡翠のような瞳が真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「この後、お時間ある?アンデ」
さりげない微笑とともに、誘いを受けた。
歌手という人種の生態はよく知らないが、ひょっとしたら水商売的な何かに誘われようとしているのかもしれない。
彼が女性だったなら、まずそれを疑っただろう。
こういった娯楽の場の女性やダンサーなどが、軍人の懐に入り込んで情報を持っていくというのは、聞いたことのある話。
だが、相手は男。
「門限はない」
アンデの返答を聞いたヴァイラの微笑が、一気に純粋な笑顔に変わった。
笑顔だけで判別できるものでもないが、少なくとも女性の笑顔よりは信憑性がありそうな気がする。
「じゃあ、着替えてくるからちょっと待っててね」
ほとんど客が引き、ビートの効いたBGMが空虚に流れる中、アンデは知り合ったばかりの男を待った。
✶⋆∘༓∘⋆✶
いつの間にか、朝。
カーテンの隙間から、僅かに光が入り込んでいる。
自分の部屋ではないベッドで、アンデは目覚めてしばらく固まっていた。
他人の息遣いを感じて隣を見ると。
昨夜知り合ったばかりの歌手、ヴァイラが眠り込んでいる。
(……なぜこうなったんだ)
一度、目をこする。
だが夢ではなく、確かな記憶。
ヴァイラと一緒に別のバーで飲んだが、酔うほど飲んでおらず、酔った自覚もない。
ヴァイラの足元が少々危うかったので、彼のアパートに送ることになった。
今いるこのアパートまで送り届けて帰ろうとしたとき、ヴァイラとふと目が合って。
それから、何をしたのかも覚えているが、なぜそうしたのかは分からない。
細い胴まわりに、消えそうな息遣い。
それでいて、うっとりと自分を見つめてくるきれいな瞳。
男相手はしたことがなかったし、そんな趣味もないはずだったのに。
彼に引き込まれるがままに、戸惑う間もなく、彼を腕に抱いていた。
改めて彼を見下ろせば、顔色は青白く、やはり細い息遣い。
露わになった肩は骨ばっていて、シーツ越しにも彼の線の細さがはっきり分かる。
昨夜の妖艶な雰囲気はすっかり消え失せ、ただ泥のように眠る青年がそこにいた。
とりあえずベッド脇に散らかっていた服を着て、部屋を見渡した。
随分と殺風景で、生活感がない。
キッチンのテーブルには食事の跡も見られなかったし、ベッドしか使っていないのではと思うほど物が少なく、使われている様子が見られない。
その中でもレコードプレイヤーと何枚ものレコードだけが、異質な存在感を放っていた。
泊まった礼に食事の準備でも、と思ってそっと冷蔵庫を開けてみるが、中はからっぽ。
(食事、どうするつもりなんだ)
何か準備しようと思い、アンデはそっとアパートを抜け出した。
微かな寝息を、その耳に確かめながら。




