第十話 放課後のオイル、五月の予感
「紬、これ。草津までの高低差、調べておいたよ」
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴るなり、真波がノートを広げて紬の席へやってきた。
「……真波、まだ準備中だから。目的地は内緒って言ったでしょ」
紬は苦笑しながら、手作りのおむすびを一口かじる。
お昼休みの喧騒の中、二人は頭を突き合わせて「作戦会議」を繰り広げる。
次の連休、自分たちの原付でどこまで行けるか。坂道で失速しないか。予備のプラグは必要か。
以前の紬には無縁だった、具体的で、けれど最高にワクワクする悩み事。
放課後、紬はいつものように『アンカー』のカウンターに立っていた。
「マスター。あの、今度の連休……少し長く休ませてもらってもいいですか?」
皿を拭きながら、紬は勇気を出して切り出した。
マスターは黙ってコーヒーを淹れ終えると、眼鏡の奥の鋭い目を紬に向けた。
「……どこまで行くつもりだ」
「山の方へ。真波のカブと二台で」
「ふん。まあ、無茶をして店に穴を開けなきゃいい。……これを持って行け」
マスターがカウンターに置いたのは、使い込まれたウエストバッグだった。
「俺が昔使っていたやつだ。50ccで走るなら、背中に荷物を背負うと肩が凝って集中力が切れる。重いものは車体か、腰に固定しろ」
「ありがとうございます、マスター」
バイトの後、紬はガレージでCL50と向き合った。
源さんの指導のもと、初めてのオイル交換に挑戦する。
ドレンボルトを緩めると、真っ黒に汚れたオイルがドクドクと流れ出した。それは、紬と一緒に街を走り抜けた証そのものだ。
「新しいオイルは、この子の血になるんだから」
黄金色の新しいオイルを注ぎ入れ、キックを踏む。
心なしか、アイドリングの音がさっきよりも軽やかになった気がした。
銀色のタンクをひと拭きし、紬はガレージの電気を消す。
窓の外には、春から初夏へと移り変わる濃い緑の匂いが漂っていた。
連休まで、あと少し。
紬の旅は、もう、誰にも止められないところまで来ていた。




