第20話 鋼鉄の女王、襲来
「いいえ。プロとして、貴方のその技術を見過ごすわけにはいかないのよ。……拒否権はないわ」
鋼鉄のコンテナを背負ったS級ポーター、山田しずかの腹の底から響くような重い宣言が、狭い6畳間に落ちた。
俺は、特製の割り下がしっかり染み込んだ極上の黒毛和牛の薄切り肉を箸で挟んだまま、完全に動きを止めていた。
たった今、物理的に蝶番からへし折られ、無惨にひしゃげた玄関ドアの残骸。そこから容赦なく吹き込んでくる11月の冷たい夜風が、熱々のすき焼きの鉄鍋から立ち上る至福の湯気を、無情にも吹き散らしていく。
俺の両サイドに座っていたすずとみのりは、箸を持ったまま石像のように硬直している。ゆき子に至っては、しずかの放つ圧倒的な威圧感に当てられ、小動物のようにちゃぶ台の端で震えていた。瞳だけは、白衣のポケットからこっそりタブレットを取り出し、無表情で新たな乱入者のデータを収集し始めている。
「……だから、今肉のいいところだって言ってるだろ」
俺は箸に挟んだままの和牛を恨めしく見つめ、深いため息をついた。
相手がS級だろうが何だろうが、せっかくの休日の晩酌と極上のすき焼きを邪魔する奴は、俺にとってはただの害悪でしかない。
「俺の家のドアを物理的に破壊した自覚はあるのか? ドアの修理代と、冷めていく肉の弁償はどうするつもりだ」
不機嫌さを隠そうともせずに睨みつける俺に対し、しずかは土足のままさらに一歩踏み込み、背負っていた冷蔵庫サイズのコンテナを、ドスンと床に下ろした。
アパートの基礎全体が悲鳴を上げ、ちゃぶ台の上のすき焼き鍋が危うくひっくり返りそうに大きく揺れる。
「お金ならいくらでも払うわ。私のスポンサーの経費で落とせるから。……でも、その前に私を納得させなさい」
しずかは挨拶もそこそこに、鋭い眼光で俺を射抜いた。
そのエキゾチックな顔立ちと瞳の奥には、狂気にも似た同業者への探究心が渦巻いている。
「ミノタウロス戦の直前。貴方がリュックを背負ったまま回避行動をとった時、貴方は左肩をわずかに下げて重心を逃がしたわね? 私の計算では、あの速度と角度で回避した場合、遠心力で80キロの荷物は右に0.5センチずれるはずなの。それなのに、動画の中の貴方の荷物は、ミリ単位で微動だにしていなかった」
しずかは一歩、また一歩と俺に近づく。
彼女の歩幅に合わせて、築40年のフローリングがミシミシと限界を訴える音を立てる。その重戦車のようなプレッシャーに、部屋の空気がさらに冷え込んだ。
「魔法で固定していたわけでもない。……どうやったの? 重力や慣性の法則を完全に無視しているとしか思えない。同じプロとして、説明しなさい」
「……はあ?」
俺は心底呆れ果てた。
他人の家のドアをぶち破って入ってきて、開口一番にする要求が「重心移動の理論」か。この女もまた、間違いなく俺の天敵である「変人」のカテゴリーに属する人間だ。
「企業秘密だ。俺は今、すき焼きを食うことにしか興味がない」
俺は冷めかけた黒毛和牛を溶き卵にたっぷりと絡め、そのまま口に放り込んだ。
……美味い。
冷たい隙間風のせいであと一歩で脂が固まるところだったが、それでも和牛の暴力的なまでの濃厚な旨みと、甘辛い割り下の風味は健在だ。
俺の完全に無視を決め込んだ態度に、しずかがカチンときたように眉を吊り上げる。
彼女が苛立ちを露わにし、俺の作業着の胸ぐらを掴もうと太くしなやかな腕を伸ばした、その時だった。
「グルルゥ……!」
部屋の隅、ヒョウ柄のクッションの上から、低く重い唸り声が聞こえた。
白い毛玉――フェンリルの幼体であるポチが、全身の毛を逆立てて激しく威嚇していたのだ。
自分の縄張りと、美味い肉をくれるご主人様を脅かす不作法な侵入者に対し、野生の王種としての本能を剥き出しにしている。
「……あら?」
しずかの手が、空中でピタリと止まった。
彼女の鋭い視線が、ポチに注がれる。
その瞬間、彼女の鋼鉄のような厳しい表情が、まるで魔法が解けたかのように、ふわりとだらしなく緩んだ。
「……可愛いわね。フェンリル?」
「ワフッ!(寄るな!)」
ポチが鋭く吠える。
だが、しずかは全く気にする様子もなく、その場でしゃがみ込んだ。
その動作は先ほどまでの重戦車のような動きとは打って変わって、意外なほど滑らかで、そして慈愛に満ちていた。
「怖くないわよ。……おいで」
しずかが両手を差し出す。
大きく、分厚く、豆だらけの手だ。数々の重量物を極限の環境下で運んできた、本物の職人の手。
彼女の声色は、俺に対する刺々しいものとは完全に別人のように、甘く、とろけるように優しいものだった。
「……!」
部屋にいた女性陣が、思わず固唾を呑む。
あの業界で恐れられる「鋼鉄の女王」が、犬相手に完全にデレている。
俺の心の中で「こいつ、大型犬と勘違いしてるのか?」という疑問が湧いたが、今はどうでもいい。
「おいで。いい子ね……」
しずかがじりじりと、膝行で距離を詰める。
ポチは「ヒッ」と小さな悲鳴に似た声を上げ、後ずさりした。
動物の勘は鋭い。
しずかからは「可愛がりたい」という甘いオーラと同時に、「一度捕まえたら絶対に落とさない、逃さない」という、超一流のポーターとしての異常な執着と危険な気配が漂っているのだ。
「クゥーン……」
「さあ、おいで。優しく抱っこしてあげるから」
しずかの大きな手が、ポチの首根っこに届く距離に迫る。
ポチは絶体絶命の危機を感じ、助けを求めるように視線を部屋中に巡らせた。
そして、見つけた。
この部屋における、唯一の絶対的な安全地帯を。
タタタッ!
ポチは脱兎のごとく駆け出し、しずかの横を俊敏にすり抜けた。
向かった先は――。
ドスッ!
俺の背中だった。
ポチは俺の背後に回り込み、あぐらをかいている俺の股の間から顔だけを覗かせた。
俺の作業着の裾を前足でギュッと掴み、ブルブルと小刻みに震えている。
「ワフゥ……(親分、あいつヤバい)」
「……お前なぁ。都合のいい時だけ頼るんじゃない」
俺は苦笑いしながら、足元で震えるポチの頭を撫でてやった。
ポチは安心したように俺の手に頭を擦り付け、しずかに向かって「ベーッ」と舌を出した。
本当に性格の悪い犬だ。一体誰に似たんだか。
「……あ」
しずかの手が空を切る。
彼女はしゃがみ込んだ姿勢で固まったまま、俺の足元に隠れるポチを凝視した。
その顔には、明らかなショックと喪失感の色が浮かんでいた。
「……どうして? 私はただ、少し撫でようとしただけなのに……」
「殺気が出てるんだよ、あんた」
俺は呆れながら指摘した。
「ポーターの職業病だろうが、ただの犬を『荷物』と同じ感覚で扱おうとしただろ? 『絶対に落とさない』『ガッチリとホールドして運ぶ』っていう圧が強すぎるんだよ。動物はそういう無自覚な拘束感に敏感なんだ」
「……圧?」
「ああ。もっと力を抜いて、自然体で接しろ。……まあ、こいつは警戒心が強いから俺以外には懐かないけどな」
俺が言うと、ポチは「そうだそうだ!」とばかりに俺の足にスリスリと身を擦り寄せ、勝ち誇った顔でしずかを見上げた。
「……っ」
しずかがゆっくりと立ち上がる。
その顔が、先ほどのデレた表情から一転、悔しさと恥ずかしさで真っ赤に染まっていた。
動物に明確に拒絶されたこと。そして、自分が目の敵にしている「同業者」である悠作に懐いていることへの猛烈な嫉妬。
プライドの高いS級ポーターである彼女にとって、それは技術を否定されるよりも許しがたい屈辱だった。
「……悔しいわね」
しずかは深く息を吐き、再び冷徹な「女王」の仮面を被り直した。
だが、その瞳の奥には、先ほどまでの純粋な探究心とは違う種類の、燃え盛るような対抗心の炎が宿っていた。
「勝負よ、鈴木悠作。……荷運びの技術だけじゃない。この犬がどちらを優秀な主として選ぶか、それも含めて私と勝負しなさい!」
「話が飛躍しすぎだろ。そもそも勝負なんて受ける義理がない」
「明日の朝7時、練馬ダンジョンの正面ゲート前で待ってるわ。……もし逃げたら、明日の夜はこのアパートごと担ぎ上げて、私のクランハウスまで強制連行するから」
しずかは有無を言わさぬ捨て台詞を残し、自らが破壊したドアの残骸を無造作に踏み越えて去っていった。
去り際、俺の足元にいるポチを未練がましくチラリと見たが、ポチは俺の影に完全に隠れて決して目を合わせようとしなかった。
★★★★★★★★★★★
嵐のような圧力が去った部屋に、再び静寂が戻る。
ただし、玄関のドアが完全に失われているため、信じられないほど寒い。
「……最悪だ」
俺は座布団の上にドカリと座り直した。
吹き込んでくる夜風で、鉄鍋の中のすき焼きは完全に冷え切って脂が白く固まり始めている。
ポチが「もう行ったか?」と恐る恐る顔を出した。
「加藤さん……今の人は一体、何だったんですか?」
すずが、ようやく金縛りが解けたように呆然と呟いた。
A級トップランカーである彼女でさえ、あのS級特有の異常な気迫には完全に気圧されていたようだ。
「S級ポーター、山田しずか様ですわね。……ふふ、悠作様を取り巻く環境が、また一つ『賑やか』になりましたわ。それにしても……」
この状況下で唯一、平常運転なのが骨董店主の加藤茜だった。
彼女は懐から真鍮製の電卓を取り出し、目にも止まらぬ速さでキーを叩き始めている。
「玄関ドアの完全交換費用、床の修繕費。……大家さんからまたこっぴどく怒られますわね。もし手持ちの現金で足りないようでしたら、いつでもご融資いたしますわよ? 金利はトイチで♡」
茜は悪魔のような、ひどく楽しそうな笑みを浮かべた。
俺は両手で顔を覆った。
すき焼きの続きを食べる気力も、怒る気力も完全に失せていた。
「……解散だ。お前ら、早く帰れ。今日はもう寝る」
俺は立ち上がった。
これ以上起きていると、さらなる厄介事が舞い込んできそうな気がした。
不平を漏らす女性陣をどうにか追い返し、俺は背中から五右衛門を剥がすと、大きく広げて壊れたドアの空間を塞ぐように画鋲で留めた。
『旦那ァ、俺っちは隙間風を防ぐためのブルーシートじゃねえんでヤンスけど……』
「文句言うな。布なんだから風くらい防げ。俺はもう限界だ」
俺は部屋の明かりを消し、冷え切った体を温めるためにポチを抱えて、万年床の煎餅布団に潜り込んだ。
ポチの温かさと、心地よい重量感が、荒みきった心を少しだけ癒やしてくれる。
「……明日は、どうやって手を抜いて負けるか」
俺は目を閉じ、深い思考に沈んだ。
相手はS級だ。まともに勝負をして勝ってしまえば、今度こそ俺の異常性が完全に証明され、平穏な定時退社ライフは永遠に失われる。
かといって、あからさまに手を抜いてわざと負けたとバレれば、あのプライドの高い女は激怒し、本当にこのアパートごと担いで連行しかねない。あんな筋肉ダルマのストーカーに粘着されれば、退去費用どころの騒ぎではなくなる。
「……適当に息を切らして、体力の限界を装ってギブアップするか。いや、あの観察眼の鋭いプロを相手に、小細工が通用するか……?」
どうやっても面倒な未来しか見えない。
俺は深く、重いため息を暗闇に吐き出した。
目立たず平穏に生きるための「完璧な敗北計画」を必死に練りながら、俺は冷たい隙間風の吹く部屋で、短い眠りについたのだった。




