第20話 鋼鉄の女王、襲来
土曜日の夜。
カニ鍋パーティーで盛り上がっていた鈴木悠作のアパート『ひまわり荘』203号室は、一瞬にして戦場のような緊張感に包まれた。
原因は、たった今、物理的に破壊された玄関ドアと、その向こうに仁王立ちする一人の女性――S級ポーター、山田しずかだ。
背中には冷蔵庫サイズの鋼鉄製コンテナ。
足元には、ひしゃげたドアの残骸。
舞い上がる土煙の中、彼女は鋭い眼光で俺を見据えていた。
「……貴方が、鈴木悠作ね」
低い、腹の底に響くような声。
俺は箸で摘んだままのカニの身を見つめ、深いため息をついた。
せっかくの至福の時間が、暴力的な隙間風と共に吹き飛んでしまった。
「……誰だ、あんた。俺の家のドアを壊した自覚はあるのか?」
俺は不機嫌さを隠そうともせずに言った。
相手がS級だろうが何だろうが、食事の邪魔をする奴は敵だ。
「私は山田しずか。S級ポーターよ」
しずかは土足のまま一歩踏み込み、ドスンとコンテナを床に下ろした。
アパート全体が悲鳴を上げ、ちゃぶ台の鍋が大きく揺れる。
「動画を見たわ。……あの時の荷物の重心移動、納得がいかないの」
彼女は挨拶もそこそこに、本題を切り出した。
その瞳には、狂気にも似た探究心が渦巻いている。
「ミノタウロス戦の直前。貴方がリュックを背負ったまま回避行動をとった時、貴方は左肩をわずかに下げて重心を逃がしたわね? ……私の計算では、あの速度で回避した場合、遠心力で荷物は右に0.5センチずれるはずなの。それなのに、動画の中の荷物は微動だにしていなかった」
しずかは一歩、また一歩と俺に近づく。
そのプレッシャーに、部屋にいた女性陣――すず、ゆき子、瞳、みのりが息を呑む。
彼女たちは直感していた。この女は、ヤバいと。
「魔法で固定していたわけでもない。……どうやったの? 重力を無視したとしか思えない。説明しなさい」
「……はあ?」
俺は呆れた。
ドアをぶち破って入ってきて、開口一番にする話が「重心移動の理論」か。
この女もまた、間違いなく「変人」の住人だ。
「企業秘密だ。それより、ドアの修理代と、こぼれた出汁の弁償をしてもらうぞ」
「お金なら払うわ。でも、その前に……」
しずかは懐から一枚の革手袋を取り出し、バシンッ! と俺の目の前のちゃぶ台に叩きつけた。
決闘の申込みだ。
「私と勝負しなさい。種目は『荷運び』よ」
「断る。飯の途中だ」
俺が即答すると、しずかは眉を吊り上げた。
「逃げる気? 私を納得させたければ、私より重い荷物を持って、私より速く、そして美しく歩いてみせなさい!」
「あんたな、人の話を聞けよ。俺は今、カニを食ってるんだ。それ以上に重要なことなんてない」
俺はカニの爪をポン酢に浸し、口に放り込んだ。
……美味い。
冷めてしまったが、それでも濃厚な甘みは健在だ。
俺の態度に、しずかがカチンときた顔をする。
彼女が俺の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした、その時だった。
「グルルゥ……!」
部屋の隅から、低い唸り声が聞こえた。
白い毛玉――フェンリルの幼体であるポチが、毛を逆立てて威嚇していたのだ。
自分の縄張りと、ご主人様を脅かす侵入者に対し、野生の本能を剥き出しにしている。
「……あら?」
しずかの手が止まった。
彼女の視線が、ポチに注がれる。
その瞬間、彼女の氷のような表情が、ふわりと緩んだ。
「……可愛いわね。フェンリル?」
「ワフッ!(寄るな!)」
ポチが吠える。
だが、しずかは気にする様子もなく、その場でしゃがみ込んだ。
その動作は、意外なほど滑らかで、そして慈愛に満ちていた。
「怖くないわよ。……おいで」
しずかが手を差し出す。
大きく、分厚い手だ。数々の重量物を運んできた職人の手。
彼女の声色は、俺に対する刺々しいものとは打って変わって、甘く優しいものだった。
「……!」
部屋にいた全員が固唾を呑む。
あの「鋼鉄の女王」が、犬相手にデレている。
これは意外な弱点か?
「おいで。いい子ね……」
しずかがじりじりと距離を詰める。
ポチは「ヒッ」と小さな悲鳴を上げ、後ずさりした。
動物の勘は鋭い。
しずかからは「可愛がりたい」というオーラと同時に、「捕まえたら絶対に逃さない」という危険な気配が漂っているのだ。
「クゥーン……」
「さあ、おいで。抱っこしてあげる」
しずかの手が、ポチに届く距離に迫る。
ポチは絶体絶命の危機を感じ、助けを求めるように視線を巡らせた。
そして、見つけた。
唯一の安全地帯を。
タタタッ!
ポチは脱兎のごとく駆け出し、しずかの横をすり抜けた。
向かった先は――。
ドスッ!
俺の背中だった。
ポチは俺の背後に回り込み、股の間から顔を覗かせた。
俺の作業着の裾を前足でギュッと掴み、ブルブルと震えている。
「ワフゥ……(親分、あいつヤバい)」
「……お前なぁ」
俺は苦笑いしながら、足元のポチの頭を撫でてやった。
ポチは安心したように俺の手に頭を擦り付け、しずかに向かって「ベーッ」と舌を出した。
性格の悪い犬だ。誰に似たんだか。
「……あ」
しずかの手が空を切る。
彼女は固まったまま、俺の足元に隠れるポチを凝視した。
その顔には、明らかなショックの色が浮かんでいた。
「……どうして? 私はただ、撫でようと……」
「殺気が出てるんだよ、あんた」
俺は呆れながら指摘した。
「荷物と同じ感覚で扱おうとしただろ? 『絶対に落とさない』『ガッチリ掴む』っていう圧が強すぎるんだよ。動物はそういうのに敏感なんだ」
「……圧?」
「ああ。もっと力を抜け。……まあ、こいつは俺以外には懐かないけどな」
俺が言うと、ポチは「そうだそうだ!」とばかりに俺の足にスリスリし、勝ち誇った顔でしずかを見上げた。
「……っ」
しずかが立ち上がる。
その顔が、悔しさと恥ずかしさで赤く染まっていた。
動物に拒絶されたこと、そして悠作に懐いていることへの嫉妬。
プライドの高い彼女にとって、それは許しがたい屈辱だった。
「……悔しいわね」
しずかは再び、冷徹な仮面を被り直した。
だが、その瞳の奥には、先ほどまでとは違う種類の炎が燃え上がっていた。
「勝負よ、鈴木悠作。……荷運びだけじゃない。この犬がどちらを選ぶか、それも含めて勝負よ!」
「話が飛躍しすぎだろ」
「明日の朝、ダンジョン前で待ってるわ。……もし逃げたら、このアパートごと担いで連行するから」
しずかは捨て台詞を残し、破壊されたドアの残骸を踏み越えて去っていった。
去り際、俺の足元にいるポチを未練がましくチラリと見たが、ポチは俺の影に隠れて目を合わせようとしなかった。
嵐が去った部屋に、再び静寂が戻る。
ただし、ドアがないので寒い。
「……最悪だ」
俺はドカリと座り込んだ。
壊れたドアから夜風が吹き込んでくる。
ポチが「行ったか?」と恐る恐る顔を出す。
「あらあら。ドアの修理代、それに明日の勝負の立会人としての手数料……請求項目が増えましたわね」
この状況下で唯一、平常運転なのが骨董店主・加藤茜だった。
彼女は懐から電卓を取り出し、目にも止まらぬ速さでキーを叩いている。
「ねえ茜。……あいつ、何だったの?」
すずが呆然と呟く。
「S級ポーター、山田しずか様ですわね。……ふふ、悠作様を取り巻く環境が、また一つ『賑やか』になりましたわ」
茜は悪魔のような笑みを浮かべた。
俺は頭を抱えた。
カニ鍋の続きを食べる気力も失せた。
「……解散だ。今日はもう寝る」
俺は立ち上がった。
これ以上、起きているとロクなことがない気がした。
女性陣を追い返し、俺は五右衛門を広げて、壊れたドアの代わりに玄関を塞いだ。
『旦那ァ、俺っちはセキュリティシステムじゃねえんでヤンスけど……』
「文句言うな。隙間風が入るんだよ」
俺はポチを抱えて、煎餅布団に潜り込んだ。
ポチの温かさと重みが、冷えた心を少しだけ癒やしてくれる。
「……明日は決戦か」
俺は目を閉じた。
相手はS級。生半可な覚悟では、文字通り「潰される」だろう。
だが、負けるわけにはいかない。
俺の平穏な生活と、ポチの飼い主としての威厳を守るために。
こうして、怒涛の週末の夜は更けていった。
激闘が待ち受けているとも知らずに、俺は短い眠りについたのだった。




