第十八話 紳士と野獣(1)
エリカが部屋を去っていったのは、昼近くになってからだった。冷たくなったコーヒーカップに手を掛ける。ふと甦るエリカの優越感を含んだ表情。
そして、聞き逃せない一言。
『夕べ健斗さんと一緒だったのよ』
胸がざわめく。
そう言ってから、慌てた様に取り繕っていた。しかし、今までも美和の好きな人を横取りしてきたエリカだ。健斗に手を出していないという証拠は無い。
信二の時も不安を抱きながらも信じてきたが、結果別れが待っていた。
今回も同じなのか?
『今度の彼氏は本当に凄いテクニックなんだから』
そう言った時のエリカの目。
(あんたはまだ知らないでしょ?)
そう言って笑っていた。
コーヒーカップを持つ手が震える。
「大丈夫。彼はそんな人じゃないわ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「彼は、私を大切に思ってくれているのよ。今までの人たちとは違う」
水道を捻ると、カップに向かって水が落ち、カップの側面を噴水のようにしぶきとなって踊り狂う。
ぼんやりとその光景を眺めなら、あらぬ妄想が美和を支配する。それはエリカと健斗の激しくもつれ合う姿だ。
否定しても否定しても、浮かんでくる。
口では新しい彼氏だと言っていたが、エリカの目が彼氏は健斗だと教えていた様に思う。
例えば、それが本当だったら……。
美和と健斗には男女の関係が無い以上、美和の負けなのかもしれない。健斗が選んだのがエリカだったということ、それが事実となる。
(でも、決まった分けじゃないわ)
美和はスポンジを手に取ると、真っ白な泡を立てカップを洗い始めた。不安な思いを心から洗い流すように……。
バイトが終わり部屋に辿り着けば八時を回っていた。それでも健斗が来た時の為にと台所に立つ。
誰かの為に料理をすることが、これ程幸せな事なのかとつくづく思う。
しかし、料理をしながらもエリカの勝ち誇ったような顔がちらつく。どんなに洗い流したつもりでも、まとわり付いてくる不安。いっそ、健斗に聞いてみようかとも思った。しかし、そんな事をしてエリカとの事を認められたら、せっかく信二との事が過去として、受け入れられる様になってきたというのに、自分は今度こそ本当に、死を選んでしまうだろう。
(だから、もう少しだけ幸せ気分でいさせてください。神様)
包丁を握りながら、祈ったことの無い神に祈りを捧げる。
三十分もすると鍋が熱い湯気を立て始めた。
冷蔵庫には、餃子が焼かれるのを待っている。
発泡酒とはいえ、ビールも冷蔵庫に入っている。
赤に黄色に緑の野菜がきらきらと輝きを放つサラダボール。
どれも少量ずつだが、二人っきりの食卓なのだ、これだけあれば十分過ぎる。
エプロンを外し、ほっと溜息を吐いたところでチャイムが鳴った。
チャイムに答える暇も無く、玄関の扉が開く。これが健斗の来訪の仕方なのだ。
「いい匂いだね、外まで匂ってるよ」
「グッドタイミングね」
「今日はバイトだって聞いていたからね。きっと、このくらいに来れば居るだろうと思ってね」
「いい勘してるわ」
話しながら部屋に上がる。
まるでその部屋が、自分の城ででもあるかのように自然だ。そんな自然な振る舞いに、美和は笑みが浮かぶ。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。ちょっと、幸せかもって思っただけ」
「幸せかも……か。疑問形なんだね」
おかしそうに健斗が笑う。
(やっぱり、エリカから感じたのは私の思い過ごしね。本当にエリカと何かあったら、こんなに自然には行かないはずだもの。今までの事がどこかで引っかかっていたから、変に気を回しちゃったんだわ)
美和は自分の愚かさを恥じた。
健斗を信じ切れなかった自分を恥じたのだ。




