第十七話 くすぶった感情
眠りから覚めるとけだるさが残っていた。
エリカは天井を見上げながら、さっきまでの激しく燃えるようなぶつかり合いを思い返していた。それは、未だかつて経験したことの無い、感情と快楽が何度も何度も津波のように押し寄せては引く、不思議な体験だった。裸の胸に触れると、健斗の手の感覚がそこにあるように感じる。今すぐにでも、もう一度愛して欲しい。切なさに溜息が出る。
(本当に彼と美和は関係が無いのかしら……)
今までならそんな事は考えなかった。美和の恋人を横取りできればそれで良かったのだ。しかし今は違う。美和と健斗が愛し合っていたら、健斗の体が美和を喜ばせていたらと考えると苦しくなるのだ。
ベッドから身を起こし、布団をめくる。裸身をそのまま鏡に映す。
胸元をじっくりと見つめ、紅く内出血された跡を撫でる。
キスマーク。
激しく燃えるようなあの瞬間が現実の時間であったことの証。
ふとエリカの口元が歪んだ。
下着を付け、胸の開いた服を選ぶ。化粧をし、コートを手にすると部屋を後にした。
テーブルに向かいながらコーヒーを手にする。意識は本に集中している。
今日の講義は午後からだ。
そんな日は、ゆっくりと朝を楽しむのだ。貴重な午前のゆったりとした時間。
教科書を広げるのもよいが、好きな小説を読むのも楽しい。どちらを読むかは本棚に向かったときの気分次第。
講義の後はバイトが待っている。健斗に夕飯を作ってあげなくてはならないが、バイトをしないと食べても行けない。
最近は、そんな悩みが美和の中に生まれていた。
「簡単に作れて、美味しいもの……」
結局、今の読書は料理の本のようだ。
ページをめくりながら、どれにしようかと頭の中の冷蔵庫と相談をする。
美和の幸せな時間だ。
幸せな時間を破るかのように玄関のチャイムが鳴った。
本からあげた顔には、確かに不愉快そうなしわが見て取れる。テーブルに両手を付いて、立ち上がり玄関へと足を向ける。こんな時間に来る者が一体誰なのか、美和には検討が付かない。
「どちら様ですか?」
ドアに向かって声を掛けると、ドアの向こうからエリカの声が返ってきた。急いでドアを開け、笑顔で迎え入れると、エリカは「暖かいわねぇ」と言いながらコートを脱いだ。
胸元には、健斗が付けたキスマークが勲章のように主張している。
「どうしたの、朝から来るなんて珍しいじゃない?」
「うん、いいことがあったから、嬉しくてさ」
「へぇ、珍しいね。エリカがそんなに舞い上がるなんて」
「そう? 私だって女の子よ」
そう言うと、ふふっと笑って見せた。
美和はコーヒーを淹れながら、エリカを見た。
「意味有り気ね。その理由は胸のキスマークにあるのかしら?」
「あら、分かった?」
「そりゃね、それだけはっきりと胸の開いた服を着てればね」
今の季節、余程の理由が無ければ寒くて着れたものではない。
「大丈夫よ。コートが温かいもの」
「でも、その格好で大学へは行けないわよ」
「今日の講義は無いわ」
「そうなの? 私は午後からよ」
美和の反応の薄さに、エリカの感情が満足できなくなってきた。
(どうしてこうも鈍感なわけ?)
いつだってそうだ。自分の彼氏を取られていると知っていても、そんな時にキスマークを付けて現れても、大した反応をしないのだ。
(鈍感なのか、馬鹿なのか、それともわざと無視してるのか、一体どれよ!)
「ねぇ、美和はどうなの?」
「私?」
「そうよ、美和と健斗さん」
「……」
少し考えて美和は答えた。
「別に、何もないわよ」
「本当? 本当に何も無いの?」
大げさに驚いて見せる。
「どうしたの? そんなにおかしい?」
「そりゃ……」
(ダメ、健斗と約束したんだから)
夕べの一部始終を美和に暴露したい衝動がエリカを捉える。しかし、今それを暴露しなくても、後に必ず分かることだ。
美和の心の傷が癒えたときに、全てをはっきりさせ、健斗を自分のものにするのだ。
いや、実質は既に自分のものなのだ。
「……ううん、なんでもないわ。健斗さんは優しいのね、きっと下心で動いてるわけじゃないのね」
「ああ、そういうこと。そうね、健斗さんは私を大切にしてくれてると思うわよ」
(大切にね……。意味が違うと思うけどな)
「で、そのキスマークは新しい彼氏?」
「……そうよ。彼のSEXは最高よ!」
「そう、よかったわね」
ゆったりと静かに流れるはずの貴重な時間が、エリカの出現でくだらない夕べの体験談へと変わった。
優越感が見え隠れするエリカの表情と一緒に。
(今夜の夕飯は簡単にしなくちゃ……)
美和の思考がエリカの声を遮断していった。




