第十六話 同棲相手
明け方の街は空気が新鮮に感じられた。
しかし、健斗の足取りは重く、車を止めても直ぐには車から降りることが出来なかった。
誰もいない駐車場。
誰もが皆、まどろみの中を彷徨っている時間だ。
健斗は、意を決したように車から降りるとゆっくりと歩き出した。肩をすぼめ、両手をジャケットのポケットに突っ込む。
さすがに寒さが身に沁みてくる。
玄関ドアの横には、白い長方形の紙に【笠井・山根】と書かれている。
薄っぺらな紙切れの表札を目にすると、健斗の表情が曇った。
健斗は、鍵穴に鍵を差込み、静かに回した。
いつもなら、何とも無いロックの外れる音が、やけに大きく聞こえる。
大きく溜息を吐くと、ドアを開け、中に体を滑り込ませた。
室内はしんと静まり、冷たい空気に痛みさえ感じる。
健斗は音を立てないように、静かに部屋の中を移動した。台所に立ち、コップを手にする。水道をひねると、水道管を流れてくる水の音が聞こえる。
「随分、お早いご帰還ね」
背後から、空気よりも冷たい声が健斗を捕らえた。
「こんな朝早くに帰って来るって、一体いつ出かけたのかしらね」
健斗はコップに口を付けながら振り返った。
そこには、パジャマ姿の山根恵子が立っていた。
「やぁ、早起きだね」
「おかげさまで、仕事まで随分と時間が余るわ」
「もう一度寝たらどうかな? 寝不足は美容に悪いよ」
「貴方こそお疲れでしょ?」
恵子は嫌味を連発してくる。朝帰りをすると毎回だ。いい加減慣れが生じてくるというものだ。
「僕は疲れてなんていないよ。大丈夫さ」
「そう、随分とタフなこと。いつもは、終わったらすぐに寝るくせに」
「そりゃ、終わればね。今日はまだ何も終わってないよ。始まったばっかりじゃないか」
そう言いながらコップを置くと、腕組みをしている恵子に両腕を回した。
「今からでも、君を充分に愛してあげることができるさ」
「じゃぁ、夕べはどこにお泊りされたのかしら?」
「もちろん、友達のところで騒いでいたのさ。ごめんよ、連絡しなかったのがいけなかったよ。でも、そういう雰囲気じゃなかったんだ」
「そういう雰囲気じゃ無い時が多すぎないかしら?」
「男同士の付き合いなんて、そんなものだよ」
「そう? うちの会社の連中はちゃんと奥さんに連絡してるけど?」
「社会人と学生は違うさ。ね、ベッドへ行こう」
健斗が優しく囁く。しかし、同棲生活も二年を過ぎた恵子にその手は効かなかった。
「結構よ! 私はこれから仕事なの。遊んでいられる貴方とは違うのよ」
そう言うとトイレへと向かった。その背中は冷たく、全てを突き放して見えた。
健斗は、大仰に肩をすぼめるとエアコンのスイッチを入れた。
少しでもご機嫌を取ろうとしているのが自分でも分かる。
こういう時の恵子は当たらず障らずご機嫌を取るのが一番なのだと、健斗も熟知しているのだ。
エアコンが作動すると、ベッドルームへと向かう。
冷たいパジャマに着替え、恵子が温めたベッドに潜り込む。
本心を言えば、パジャマに着替えるなんて面倒なことをせずに、そのままベッドに潜り込みたい位に疲れているのだ。しかし、そんな事をすれば潔癖症の恵子の怒りはマックスに達する。
ベッドに横になりながら、隣の部屋で恵子が動く気配に意識を向ける。
着替えをし、顔を洗い化粧をする。健斗が朝帰りの日は、特に念入りに化粧をするのが癖のようだ。今日も同じように、時間を掛けて顔を作っている。
(いっそ、お面でもつければ簡単なのにな)
そんな想像を働かせていると、可笑しくなってきた。
知り合った頃の恵子は、社会人一年生だった。健斗も又、大学一年生。お互い、輝きに満ち溢れていた。
友達の紹介で知り合い、輝いている恵子に惹かれ、あっという間に恋に落ちた。同い年だというのに、恵子は大人びて見えた。社会人であるというだけで、大人の女を感じたのかもしれない。
恵子も又、健斗に大学のインテリというイメージを抱いたようで、お互いに魅かれるものがあったということだ。
恵子に難しい話を向けると何も分からないようで、目をパチパチとさせながら健斗の話を聞いていた。
それが楽しくて、いろいろな話題をネットから拾ってきては披露したものだ。
笑い転げる恵子が可愛くて愛しくて、付き合いだして一年後に同棲していた。
同棲生活も最初は楽しかった。
しかし健斗の誰にでも優しいそぶりが気に入らず、喧嘩になることが多かった。
そして、同棲二年。恵子も社会に出て三年が経つのだ。学生の健斗が、子供っぽく見えるのは仕方が無いことだが、それ以上に恵子には気に入らない事が多かった。
日に日に、膨らんで行く不満。
そして、今日も…。
恵子の溜息が聞こえた。
(あの頃は可愛かったよな)
天井を見ながら三年前の恵子を思い浮かべる。
(笑顔が眩しくて、目がくるくるとよく動いてたな……)
いつの間にか、天井に浮かぶ恵子の顔がダブりだしエリカになる。
(いい体してたよな。すっげぇ、絞まってたなぁ、かなり鍛えてないと無理だよな)
思い出すと野卑な笑いが漏れる。
(恵子とは違うよな)
エリカがぶれて美和に変わる。
(美和か……大分明るくなってきたよな……)
玄関の開閉音が響いた。
時計を見ると、もうすぐ六時だった。
(こんなに早く出社してどうするんだ? 可愛げないよなぁ。変に仕事の出来る女になっちゃって。もっと可愛くして欲しいよなぁ。だから他に目が行くんじゃないか)
何とも自分勝手な言い種だが、健斗は本気でそう思っているのだ。
同居人がいなくなった部屋は静かで、安心できる空間へと変わっていた。
目を閉じると、体が落ちていくような錯覚を覚えた。
そして、睡魔が健斗を捕らえた。




