第10話 辺境の空を駆ける
監査が始まった。
エドモン公爵に資料を届けた翌日、公爵府から正式な通達が出された。
わたしが中央で書き写した五社分の契約書の記録。それとヴェルデン商会の原本。
合わせて六社に及ぶ同一構造の不当条項。
公爵はそれを見て、即座に決断した。
「これは一商会の問題ではない。制度の問題です」
公爵が派遣した監査官たちが、ゲイル商会の帳簿を精査していく。
わたしが提出した資料は、その調査の起点となった。
結果が出るまでの日々は、穏やかとは言えなかった。
マリスが社交界でわたしの悪評をばら撒いた。
「没落令嬢が逆恨みで大商会を陥れようとしている」と。
「聞いた話だけど」と前置きしながら、あることないことを言い触らしているらしい。
ヴェルデンにも、その噂は届いた。
街の人々の中に、不安そうな顔が増えた。本当に大丈夫なのか。大手商会に逆らって、辺境が報復されるのではないか。
ルチアが心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「リーネさん、大丈夫? 顔色悪いよ」
「大丈夫。少し疲れているだけ」
「嘘。リーネさんが大丈夫って言う時は、全然大丈夫じゃない時だってもう知ってるんだから」
ルチアの鋭さに、わたしは苦笑した。この子は人の感情を読むのが本当に上手い。
ポムがきゅうと鳴いて、わたしの膝に乗った。
小さな温もりが、張り詰めた神経を少しだけ緩める。
ヴィクトル王太子も不快感を示したと伝え聞いた。
ゲイル商会は王太子の関係する事業の一端を担っていた。
監査が入ることは、間接的に王太子の面子を傷つける。
カイルの兄——辺境伯家の長男による商会接収の話も、水面下で進んでいた。
オルヴァンの入れ知恵だろう。監査が完了する前に商会を取り上げてしまえば、証拠の提出元がなくなる。
「兄貴とは、直接話す」
カイルが言った。
「説得できるのか」
「分からん。でも、逃げない。兄弟の問題だ。数字じゃ解決できない」
その通りだった。名誉と血筋の問題に、帳簿は通用しない。
カイルは翌日、辺境伯の屋敷に向かった。
何を話したのかは、聞かなかった。聞く必要はなかった。
夕方に戻ってきたカイルの顔は疲れていたが、表情は穏やかだった。
「兄貴は、商会には手を出さないと言ってくれた」
「どうやって説得したんですか」
「帳簿を見せた」
わたしは目を瞬いた。
「お前がまとめた数字だ。辺境全体がどれだけ搾取されてきたか。兄貴は数字に弱いが、金額の大きさには反応した。自分の領地がどれだけ損をしてきたか、分かったらしい」
「……結局、数字ですか」
「数字は嘘をつかないんだろう? お前の口癖だ」
カイルが笑った。わたしも、少し笑った。
◇
監査開始から十日後。
結果が公表された。
ゲイル商会による辺境を含む中小商会への組織的な不当価格操作が認定された。
六社以上の商会に対し、同一構造の不当な違約金条項を含む契約を結ばせていたことが確認された。
違約金条項は公序良俗に反するとして無効。
さらに、過去五年分の過大請求について返還命令が出された。
返還額は膨大だった。辺境の商会だけでなく、中央の中小商会にも恩恵が及ぶ。
オルヴァン・ゲイルは商会会頭の地位を剥奪され、中央での商業活動を十年間禁じられた。
淡々とした処分だった。
派手な断罪ではない。公開の場で糾弾されたわけでもない。
制度が、制度として機能しただけのこと。
監査結果の書面を読むオルヴァンの姿を、人づてに聞いた。
柔和な微笑みは消え、手袋をはめた手がわずかに震えていたという。
わたしは何も感じなかった。溜飲が下がるとか、そういう類の感情はなかった。
ただ、数字が正しく評価された。それだけだ。
マリスはオルヴァンとの繋がりが露見し、社交界での信用を失った。
噂を広めていた張本人が、今度は噂の的になった。
「聞いた話だけど」という常套句が、皮肉な形で本人に返ってきたのだ。
誰も同情しなかった。けれど、わたしも溜飲を下げるつもりはなかった。
彼女もまた、自分の弱さから誰かを攻撃することしかできなかった人間だ。
ヴィクトル王太子は、エドモン公爵からの進言を受けて事態の収拾を図った。
ゲイル商会との関係を清算し、商業制度の改革を支持する立場に転じたという。
面子は潰れた。けれど致命傷ではない。痛みを知ることが成長になるかどうかは、本人次第だろう。
「終わったんだな」
カイルがわたしの隣に座った。
商会の裏庭。夕陽が山の稜線を染めている。
いつもの景色だ。けれど、いつもより少し、金色が深い気がした。
「終わりました」
「感慨は」
「……あんまり。帳簿が正しかっただけですから」
嘘だった。少し。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていた。
達成感とも違う。認められた、とかでもない。
ただ、間違っていなかった、という安堵。
わたしの数字は正しかった。わたしの三年間は、無駄ではなかった。
そして、この辺境で過ごした日々も。
監査後、辺境の商業環境は急速に変わっていった。
ゲイル商会の仲介がなくなり、中央との直接取引の道が開けた。
ヴェルデン商会は辺境の特産品——森の薬草、職人の革細工、農家の保存食——を中央に販売するルートを確立した。
取引先は着実に増えている。
かつてゲイル商会を恐れて取引を断った農家も、少しずつ戻ってきた。
蜂蜜の老人も、薬草の若い夫婦も。
「すまなかったな」と頭を下げる人たちに、カイルは笑って言った。
「気にするな。これからよろしく頼む」
その言葉に嘘がないことを、みんな知っている。
ルチアは読み書きがずいぶん上達した。
帳簿の基本的な記帳ができるようになり、わたしが外出する日は彼女が経理を預かることもある。
「リーネさん、ここの計算合ってる?」
「合ってるよ」
「やった!」
その笑顔が、わたしの一番の報酬かもしれない。
字が読めなかったルチアが、帳簿を読んでいる。それだけで、ここに来た意味がある。
トーマは相変わらず寡黙だった。
けれど最近は、わたしの分の茶を毎朝黙って用意してくれるようになった。
机に座ると、すでに湯気の立つ茶碗がある。
薬草を混ぜた、ほんのり甘い辺境の茶。それだけで十分だった。
ヨハンからは手紙が届いた。
ダイス商会でも、監査の結果を受けて改革が進んでいるという。不当な契約が見直され、正当な取引条件に改められたと。
「あなたのおかげです」と書いてあったが、わたしは首を横に振った。彼が勇気を出してくれなければ、書庫には入れなかったのだから。
ポムは相変わらずわたしの肩に乗っている。
カイルが指を伸ばすと、最近はぷいと顔を背けながらも、鼻先だけ触れさせるようになった。
「進歩だ」
「微々たるものですね」
「いいんだ。信頼ってのは、そういうもんだろ」
カイルはそう言って、わたしを見た。
あの言葉が、わたしたちの間のことも指しているのだと、気づいていた。
少しずつ。ゆっくりと。けれど確実に、距離が縮まっている。
ある夕方。商会の仕事を終えて裏庭に出ると、カイルが先に来ていた。
柵にもたれて、山の方を見ている。
「リーネ」
「はい」
「来月、中央で商業会議がある。辺境の代表として出席することになった。辺境の商会を束ねる立場として、制度改革について意見を求められている」
「それは大きいですね。辺境の声が中央に届く機会は滅多にない」
「ああ。——一緒に来てくれないか」
仕事の依頼。それだけのはずだった。
けれど、カイルの目は少しだけいつもと違った。
いつもの鋭さの奥に、照れのような、不安のような、柔らかいものが混じっている。
「経理として?」
「それもある」
沈黙が落ちた。
夕陽が二人の影を長く引いている。
「……それだけじゃないのか、と聞いてほしいのか?」
カイルは耳の後ろを掻いた。日に焼けた頬が、夕陽のせいだけではなく赤い。
「隣にいてほしい。ずっと」
短い言葉だった。
飾りは何もない。上手な告白でも、ロマンティックな台詞でもない。
カイルらしかった。言葉より行動で示す人が、精一杯の言葉を選んだ。
わたしの目が熱くなった。
けれど今度は、悲しいからではなかった。
「——わたしも。ずっとここにいたいと思っています」
声は小さかったけれど、震えてはいなかった。
ポムがきゅうと鳴いて、わたしの肩からカイルの肩へ飛び移った。
そしてまたわたしの肩に戻り、またカイルの肩に飛ぶ。二人の間を行ったり来たりしている。
「ポムも賛成みたいだ」
「……そうみたいですね」
カイルが手を差し出した。わたしはその手を取った。
大きくて、温かくて、少しだけ荒れた手。
何度も荷を運び、人を助け、この街を守ってきた手だ。
山の稜線に夕陽が沈んでいく。
ヴェルデンに来た最初の日と、同じ金色の光。
けれど、同じ景色なのに、今はまるで違って見える。
隣に誰かがいるだけで、世界はこんなにも変わるのだと知った。
帳簿は嘘をつかない。人は嘘をつく。
二十四年間、わたしはそう思って生きてきた。
でも今は、少しだけ書き換えたい。
帳簿は嘘をつかない。
そして、この場所の人たちも——嘘をつかなかった。
追い風が吹いている。
わたしの背中を押す風が、辺境の空を駆けていった。
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