第55話簒奪者(さんだつしゃ)シャリア・イビルと、託された希望
薄暗い路地裏で、ジェック様は悔しげに拳を握りしめ、重苦しい声で言葉を継いだ。
「あいつと結婚した当初は、俺たちも仲のいい夫婦だったんだ。だがあいつは……ある女と出会ってから、完全に変わってしまった」
「ある女……?」
「ああ。アセレリア帝国の『策略家』と呼ばれる、底知れない女だ」
「帝国の、策略家……!」
私とお姉様は、弾かれたように顔を見合わせた。
(キャサリーヌ……!!)
数日前、王城の地下図書室で聞いた、他人の悪意を操る狂気の完璧主義者。
驚愕に息を呑む私たちに、ジェック様は忌々しげに言葉を続けた。
「あいつは策略家にそそのかされるように、金と権力への野心を膨らませていった。そして、作った違法薬を盗賊や裏社会……あろうことか、その女を通じて敵国である『アセレリア帝国』に売り捌くようになったんだ」
「そんな……お母様が、敵国の人間と結託して……お父様を……?」
お姉様は、信じていた母親のさらに深い裏切りに、足元から崩れ落ちそうに顔を覆った。
私はお姉様を支えながら、胸の奥で激しい怒りと戦慄を抱いていた。
(……シャリアが帝国の毒薬を密輸し、私を魔獣実験の標的にした裏にあの女がいることは気づいていた。……でも、シャリアを冷酷な毒婦に変貌させ、お父様の心を壊す違法薬を作らせ……ジェック様を暗殺して私たちの家族を根底から壊した『全ての元凶』すらも……最初から全部、あの女だったなんて!!)
記憶と事実が、最悪の形で完全に繋がる。
シャリアは単なる毒婦ではない。あの巨大な悪意に魅入られ、国を売っている売国奴だったのだ。
(……やっぱり。でも、ずっと戦争状態だった敵国の人間が、どうやって一介の公爵夫人であるシャリアに接触できたの……?)
(いや、待てよ。策略家には、距離の概念を無視する幻級魔法の『転移』がある。国境の壁なんて関係なく、直接シャリアの元へ現れることができたんだわ……!)
だとしたら、もう一つの大きな疑問が浮かび上がる。私はジェック様に向かって、急いで口を開いた。
「……ジェック様。あなたが公爵家にいた十一年前、屋敷に『マリアベル』という名前のメイド長はいましたか?」
私が尋ねると、ジェック様は怪訝そうに眉をひそめて首を横に振った。
「マリアベル? ……いや、そんな名前のメイドは知らないな。俺がいた時は、屋敷には数人のメイドしかいなかったはずだ」
ジェック様の言葉に、隣で聞いていたお姉様がハッとして言葉を繋いだ。
「じゃあ、そのマリアベルという人が……お母様や、その『策略家』と関わっている可能性は?」
ジェック様は少し考え込むように視線を落としたが、静かに首を振った。
「いや……当時そんな奴がいたかどうかは分からない。俺が姿を消した後に、シャリアがどこからか雇い入れた者かもしれないが……」
その言葉に、お姉様もハッとして記憶を遡るように目を瞬かせた。
「そうよ、思い出したわ。アミア……お父様が言った通り、そんなメイドは公爵家にいなかったわ」
(ジェック様がいた頃にも、お姉様が幼い頃にも、策略家と繋がっている気配のある者はいなかった……。じゃあ、マリアベルはシャリアが個人的に雇っただけの凄腕の魔法使い?)
(……ううん、それはないわ。帝国の『皇帝の右腕』の隠密が、ただのメイドを策略家の工作員だと見誤るはずがないもの)
(……待って。私は先日『マリアベルは一周目でもずっと気配を消して暗躍していた』と推理したけれど、本当に『ずっと』だったの?)
(思えば、私が十四歳で記憶を改竄された時も、十五歳でなり損ないの烙印を押された時も、記憶を覗けるはずの彼女が『直接触れて』確認に来ることは一度もなかった。……つまり、彼女はずっと屋敷に常駐していたわけではなく、必要な時だけ呼び戻される『遊撃の駒』として不在の期間があったんだわ!)
(そんな彼女が、二周目の今。魔獣事件を切り抜けた『次の日』に突然メイド長として現れ、真っ先に私へ探りを入れてきた。……理由は一つよ)
(先日、地下図書室で気づいた通りだわ。一周目で私を襲った魔獣が一匹だけで済んだのは、森に潜んでいたリフレットさんがスタンピードを食い止めてくれたから。そして、その最後の一匹からも、お姉様が『闇魔法』で私を助けてくれた)
(一周目では、その直後にお姉様が闇魔法を必死に隠し通してくれたおかげで、私の『光』もお姉様の『闇』もバレず、私は無害な子供として生かされた)
(二周目の今回も、残りのスタンピードをリフレットさんが止めてくれた結果は同じはず。……でも、今回は一周目とは『過程』が違った)
(私一人だけではなく、あの『幻惑の花』に二人揃って誘い込まれ、予定外の魔獣が二体も現れる異常事態を生き延びた。このイレギュラーな生還が、シャリアの強い警戒を引いたんだわ!)
(あの女たちは私たちを怪しみ、探るためにマリアベルを急遽送り込んできた。……でも、現にリフレットさんは『メイド長はミストを使って逃げた』と状況を正確に把握していたわ)
(マリアベルは魔獣を放った後、駆けつけた魔法兵団やリフレットさんを警戒して、私たちが『どうやって』魔獣を倒したのかという一番の核心部分を確認できずに逃げ帰ったのよ! だからこそ、直接探りを入れるために屋敷へ来るしかなかったんだわ……!)
(……今のところ、決定的な秘密(光と闇)はバレていないわ。もし完全にバレていれば、泳がせておくはずがない。すぐに薬を飲まされてどうにかされているはずだもの)
(……けど。どうしても一つだけ、拭えない疑念が残るわ)
(マリアベルが帝国の『策略家』の工作員なのだとしたら……どうして十一年以上前からシャリアと結託しているのに、今まで屋敷に常駐して監視していなかったの?)
(もし、リフレットさんの隠密すらも完全に欺いて……キャサリーヌとも違う『別の巨大な悪意』が、幻級魔法使いをこの屋敷に送り込んでいるのだとしたら)
(……この盤上は、私が思っている以上に複雑で、恐ろしいものになっているのかもしれないわ……!)
私が脳内で恐るべき推理に戦慄していると、隣でお姉様は首を横に振った。信じたくない、という拒絶の表情。
「嘘……。お母様が、そんなこと……」
「ネフェリア。お前はずっと、シャリアのことを『偉大なるリィエル公爵家の当主』だと思っていたな?」
「は、はい。だってお母様は公爵夫人で……」
「違うんだ」
ジェック様は首を振った。
「リィエル公爵家の正当な血筋は――俺だ」
「……え?」
私とお姉様の声が重なった。
これは、前の人生の地下牢でも明かされなかった、完全な新事実だった。
「あいつの本当の名前は、シャリア・イビル。……ただの没落した男爵令嬢だった」
シャリア・イビル。
その名前に、私とお姉様は愕然とした。
お姉様ですら、母親のそんな旧姓(本名)を聞いたことは一度もなかったのだ。
「あいつの生家は、俺と出会うずっと前に流行り病で全滅していた。……あいつは家族を失って、天涯孤独の身だったんだ」
「家族を、失って……」
お姉様が、ふっと痛ましそうに目を伏せた。冷酷な毒婦に成り果てた母にも、そんな哀れな過去があったのかと、持ち前の優しさから一瞬だけ同情してしまったのだろう。
だが、ジェック様は悔しげに拳を握りしめ、その甘い同情を冷酷な事実で打ち砕いた。
「俺は……身寄りもなく、たった一人で泣いていたあいつの悲しみに付け込まれたんだ。野心だけは人一倍強くてな……俺は愚かにも、あいつの涙と『リィエル家を支えたい』という熱意に完全に押されるまま、結婚してしまった。……でも、彼女の狙いは最初から『リィエル公爵家』そのものだったんだ」
「……っ!」
お姉様は、母親の『涙』すらも公爵家を乗っ取るための計算尽くの罠だったと知り、サッと顔を青ざめさせて愕然と後ずさった。
私も、怒りで全身の血が沸騰しそうだった。
(家族を失った悲しみを利用して、優しいジェック様の同情心に付け込んだというの……!?)
(私だってお母様を失って、お父様と二人きりで生きてきた。大切な家族を喪う痛みがどれほど辛いか……それを、ただの家乗っ取りの『手口(武器)』として使うなんて、絶対に許せない!)
「彼女は俺と結婚し、お前を産んだ後……邪魔になった俺を殺して、家を乗っ取ったんだ」
「本来なら、リィエル家の当主は俺だ。そして次の後継者はお前だ、ネフェリア。シャリアはただの『配偶者』に過ぎない」
「……そんな……」
お姉様は愕然として後ずさった。
ずっと絶対的な支配者として君臨していた母親が、実は他人の善意を踏みにじって家を盗んだ泥棒だったなんて。
「あいつは俺を消し、公爵家の全権を掌握し、さらにファミル伯爵を取り込んで地盤を固めた。……すべては、あいつ自身の欲望のために」
「……許せない……」
私の口から、乾いた声が漏れた。
(先ほど確信した通りだわ。正当な後継者であるジェック様を殺そうとし、ネフェリアお姉様を道具として扱い、私のお父様を洗脳して技術を奪った)
(他人の善意や愛を奪い尽くして、平然と公爵の座に居座っている……。シャリアは、ただの毒婦じゃない。全てを裏で操る『簒奪者』だわ……!)
「……でも、お父様。どうして今まで、魔法兵団に保護を求めなかったのですか?」
お姉様が、縋るような瞳で尋ねた。
「お父様はリィエル公爵家の正当な当主でしょう? 兵団に事実を話せば、きっと守ってくれたはずなのに……!」
ジェック様は悲しげに目を伏せ、首を横に振った。
「……もちろん、俺もそう考えた。だがな、先ほども言った通り、あの時の俺はあいつが放った盗賊どもから受けた傷で、瀕死の状態だったんだ。森を逃げ延びるだけで精一杯で、意識が遠のく中、もはやこれまでかと思った。……だが、偶然通りかかった旅人が俺を見つけ、貴重な回復薬を分け与えてくれたおかげで、奇跡的に生き延びることができたんだ」
お姉様の声が震える。ジェック様は重苦しく言葉を継いだ。
「傷が癒え、這うようにして国に戻ってきた時には……もう、公爵家は完全にシャリアの物になっていた。……俺はすぐに魔法兵団へ駆け込もうとしたさ。だが、屋敷の様子を影から伺った時、気づいてしまったんだ」
「……?」
「あいつの側には、まだ幼いお前……ネフェリアがいた。……もし俺が魔法兵団に保護を求め、あいつを罪に問おうとすれば、追い詰められたシャリアは何をするか分からない。最悪の場合、お前を道連れにする可能性だってあった」
「……っ!」
お姉様が息を呑む。ジェック様は拳を強く握りしめた。
「それに、シャリアには帝国の『策略家』という強力な後ろ盾がある。俺が生きていると公に知られれば、兵団の手が届く前に、今度こそ確実に殺しに来るだろう。……お前を守るため、そして俺自身がいつか反撃のチャンスを掴むため……俺は『死んだ人間』として、泥を啜りながら隠れ住む道を選ぶしかなかったんだ」
(……そうだったんだ。お父様は、自分の命よりもお姉様の安全を優先して……)
(一周目でも……私たちが知らないところで、お父様はずっと一人で、この街の片隅で耐え続けていたんだわ……!)
私は熱くなる目元を拭い、ジェック様を真っ直ぐに見上げた。
「ジェック様、もう大丈夫です。……明日、私たちは『レイフェ』さんに会うことになっています」
「レイフェ……? 確か、元・魔法兵団副団長の?」
ジェック様が驚いたように目を見開いた。
「はい。先日、ハーヴェー大臣とお会いした時に、私たちの師匠として紹介すると約束してくださったんです。……レイフェさんなら、公爵家の事情も、シャリアの不審な動きも以前から独自に調べていたと聞いています」
「ハーヴェー大臣と、レイフェ殿が……」
ジェック様は、信じられないというように目を見張り、やがて深く息を吐き出した。
「……そうか。兵団という『公式の組織』を動かせば確実にシャリア側に情報が漏れるが……『元』副団長である彼女が、大臣と共に極秘で動いてくれているというなら話は別だ。……彼女なら、信頼できる」
「明日会った時に、私たちが責任を持ってレイフェさんに事情を話し、ジェック様の身の安全と保護を頼みます。……だから、あともう少しだけ……もう少しだけ待っていてください。必ず、お父様を日向へ連れ戻しますから!」
私の必死の訴えに、ジェック様の目から再び涙がこぼれ落ちた。
「……ああ。ありがとう、アミア君。……ネフェリア。いい妹を持ったな」
「……はい! 自慢の、世界一の妹です!」
「……もう行かなければ。あのメイドに見つかれば騒ぎになる」
その言葉に、ジェック様は心底安心したように相好を崩した。
しかし、ふと路地裏の入り口の方へ警戒するような視線を向け、少しだけ声のトーンを落とした。
「そういえば……さっきネフェリアに接触する前に一緒にいた、あの優しそうなメイドは誰だい? あのメイドは、俺が屋敷にいた頃にはいなかった顔だが……」
ジェック様の問いに、お姉様が静かに答える。
「リリナよ。アミアが公爵家に来てから、ずっと私たちのお世話をしてくれているの」
「はい。シャリアの裏の顔や、公爵家の恐ろしい事情なんて何も知らない……ただの真面目で優しい人です。だから、絶対に彼女を裏の事情に巻き込みたくなくて、私が強引に入り口で待たせているんです」
私がそう補足すると、ジェック様は深く納得したように頷き、目を細めた。
「そうか……。あいつの毒牙に染まっていない、善良な使用人もいるんだな」
ジェック様は少しだけ口角を上げ、私たちに真っ直ぐな視線を向けた。
「……もし全て決着が着いて、俺たちが本来の居場所を取り戻せたなら。その時は、あのメイドをこの先も不自由がないように、公爵家で重用してやろう。……シャリアに媚びて甘い汁を吸っている他の者たちの処遇はどうなるか分からないが、彼女だけは、俺が保証する」
「お父様……!」
「ジェック様……ありがとうございます!」
私たちが顔を輝かせてお礼を言うと、ジェック様は「約束だ」と優しく頷いてくれた。
「なら、彼女に見つかって騒ぎになる前に、俺はもう行かなければ。あんな普通の娘に、こんな泥沼を背負わせるわけにはいかないからな」
ジェック様は、名残惜しそうにお姉様の肩から手を離し、再びハンカチで顔を隠した。
「ネフェリア、アミア君。どうか気をつけてくれ。あいつは、娘であるお前たちでさえ、利用価値がなくなれば捨てるかもしれない」
「……はい」
「また必ず会おう。その時まで、生き延びてくれ」
ジェック様は踵を返そうとして、ふと足を止め、思い出したように私たちを振り返った。
「後な。……シャリアは今、帝国の策略家から、『一回で完全に暗示が効く薬』を作るように頼まれているらしいんだ」
「一回で……効く?」
お姉様が驚いて聞き返すと、ジェック様は重々しく頷いた。
「そうだ。あいつが作っていたのは、俺の口封じやアレト殿を洗脳するための薬だけじゃあなかったんだ。帝国側は、何か別の大きな目的のために、その『完璧な催眠薬』を求めている」
「だが……たとえどれほど強力な催眠薬が出来たとしても、暗示が一回で済むような完璧な薬なんてできるわけがない。シャリアや、俺が薬師でもな」
ジェック様はそう吐き捨てるように言い残し、今度こそ別れの言葉を告げるように、私の方へと真っ直ぐに視線を向けた。
その目は、娘の唯一の味方である私への信頼と、懇願に満ちていた。
「アミア君。……娘を、ネフェリアをよろしく頼むな」
私は背筋を伸ばし、その想いをしっかりと受け止めた。
「はい。……必ず、守ります」
私の返事を聞くと、ジェック様は安堵したように頷き、今度こそ足早に路地裏の奥へと消えていった。




