第54話 狂わされた家族たち
ジェック様は、私とお姉様のやり取りを聞いて痛ましそうに……けれど、娘を支える私の存在に少し安堵したように静かに目を伏せ、やがて私の方へ真っ直ぐ視線を向けた。
「……アミア君。君の父親……アレト・ファミル殿も、あいつの薬の犠牲になったというのか?」
「……ジェック様。私のお父様を知っているんですか?」
私が驚いて尋ねると、ジェック様は顔を歪めて静かに首を振った。
「直接会ったことはないが、名前だけはな。……俺が姿を消してから数年後、シャリアが腕利きの魔道具師を新しい夫として迎えたという噂は、隠れ家にも届いていた。まさか、彼もあいつの毒牙にかかっていたとは……」
私は、自分の過去の記憶と突きつけられた事実をパズルのように繋ぎ合わせる。
(……お姉様が三歳の時にジェック様を消そうとし、その数年後、私が五歳の時には優秀な魔道具師である私のお父様を洗脳して取り込んだ)
(たった一人の女の果てしない野望のために……私たちの家族は、無惨にも踏みにじられていたんだわ……!)
私は、涙を流すお姉様を支えながら、ジェック様を真っ直ぐに見上げた。
「ジェック様……その『心を壊す薬』というのは……?」
私が恐る恐る尋ねると、ジェック様は忌々(いまいま)しそうに顔をしかめた。
「ああ。アセレリア帝国の近くの洞窟でしか採れない、『ヒプノ草』という違法な毒草を原料にした催眠薬だ。……本来、あれはただ対象に成分を浴びせたり、嗅がせたりすれば、一時的に強烈な幻覚を見せるだけの植物なんだがな」
(……え? 嗅がせたり、浴びせたり……?)
ジェック様の言葉に、私は内心でハッと息を呑んだ。
(一周目の地下牢で、レオニス王子が『本来は強烈な幻覚を見せるだけの毒草だ』と指摘していたから、その性質自体は知っていた。……でも、本来は『匂いを嗅いだり、成分を浴びたりする』ことで発動する植物だったなんて、初めて知ったわ)
(お姉様が私に飲ませた記憶を消す薬も、お父様を支配している薬も、シャリアが独自に調合・濃縮して作った『飲み薬』だった。……だから私はてっきり、口から摂取しなければ効かないものだとばかり思い込んでいたんだわ……!)
私が新たな知識に戦慄していると、ジェック様は忌々しそうに言葉を継いだ。
「だが、あいつは……シャリアは、その『幻覚』という性質を悪魔的に利用したんだ。成分を極限まで濃縮し、特定の暗示を刷り込むための『触媒』へと作り替え、経口摂取できる薬にした。……そして出来上がったのが、あのアレト殿を縛り付けている支配型の催眠薬だ」
「私、公爵家の禁忌の植物図鑑で読んだことがあります。調合次第で人の心を完全に支配してしまうという悪魔の毒草……」
私は動揺を隠し、わざと子供らしい「図鑑の知識」として言葉を紡いだ。
(……間違いない。一周目の地下牢で、お姉様から泣きながら教えられた真実と同じだわ。私のお父様の心を縛り付けているのは、やっぱりその薬なんだ……!)
すると、横で聞いていたお姉様もハッとして顔をさらに青ざめさせた。
「ヒプノ草……! 私も図鑑で読んだことがあるわ。アセレリア帝国の近くの洞窟でしか採れないという、違法な植物……。お母様は、そんな恐ろしいものを……!?」
お姉様も、公爵家の娘としてその禁忌の植物の知識を持っていたのだ。
「ああ、二人ともよく知っているな。……だが、ヒプノ草は調合の仕方によって効果が大きく変わる」
ジェック様は重々しい声で説明を始めた。
「成分を大きく薄めて調合すれば、一回の暗示で済む『単発の催眠薬』になる。暗示をかけ終えれば薬の効き目はスッと切れるため、対象の精神を壊すような後遺症は残らないが……その代わり、自我を支配することはできず、せいぜい『特定の記憶を消したり改竄したりする』ぐらいしかできない。消された記憶は基本的に元には戻らない。消された事自体にも気づかないが、何かを思い出そうとした時に、強い違和感や頭痛として現れることがある」
「記憶を……消す……」
お姉様が、ひゅっと息を呑んだ。
「それって……その人が持っている、誰かとの『大事な思い出』も……?」
震える声で尋ねる娘に、ジェック様は重苦しく頷いた。
「そうだ。術者の暗示次第でな。どんなに大切な記憶でも、家族との愛しい時間でも……脳から強制的に切り取って、完全に消し去ってしまう恐ろしい薬だ」
ジェック様は、重々しい声でさらに残酷な事実を告げた。
「この薄めた薬の最も恐ろしい点は、たとえ王家が所有する最高位の『浄化薬』を使ったとしても、一度奪われた記憶だけは絶対に元には戻らないということだ。浄化薬は毒を消せても、切り取られた記憶そのものを復元することはできないからな」
お姉様は血の気を失った顔で口元を覆い、立っていられないかのようにガタガタと震え出した。
自らの母親がそんな悍ましい毒を扱い、他人の人生を平然と踏みにじっているという事実。そして、もし自分や大切なアミアがその牙にかけられたらという、底知れない恐怖。
(……ああ。お姉様、やっぱり一周目のあの時も、きっとこんな顔をしていたのね)
お姉様はリィエル家の娘として『ヒプノ草』の存在は知っていた。けれど、それがこんな悪魔の薬に変えられることまでは、知るはずもなかった。
シャリアに脅されて初めてその薬を見せられた瞬間のお姉様の表情を、私は見ていない。
……でも、痛いほどわかる。
あの最悪の地下牢で、私を裏切った罪悪感に押し潰されそうになりながらすべてを告白してくれた、あのお姉様の掠れた声と慟哭を知っているからだ。
(……あの声を知っているから、確信できるわ。あの時もお姉様は、今と同じように……ううん、私に飲ませなきゃいけないという地獄の選択を迫られて、今よりもずっと深く絶望し、心を血に染めていたはずだわ……!)
(……間違いない。一周目の地下牢で、お姉様は『ヒプノ草を薄めて調合していた』と泣いていた。ジェック様の言う通り、私に違和感と空白だけが残り心が支配されなかったのは、あれが特定の記憶を消すための『薄めた薬』だったからだわ)
(浄化薬でも戻らないという記憶……。でも、私はあの地下牢で、お姉様とアメリアさんの必死の叫びを聞いた瞬間、強烈な頭痛を乗り越えてすべてを思い出した。……あれはきっと、二人を想う限界を超えた強い感情が、薬の呪縛を自力で打ち破る『引き金』になったんだわ)
私が一周目の凄惨な記憶と結びつけて密かに戦慄していると、ジェック様はさらに険しい顔つきになって言葉を継いだ。
「だが……対象の自我を完全に奪い、心を永続的に支配する『強力な催眠薬』として定着させるには、薄めたものではダメだ。本来なら原液に近い薬を使い、『一週間』は継続して暗示をかけ続けなければならない」
「逆に言えば、こちらは常に毒が脳に作用し続けている状態だ。だから、もし王家が所有する最高位の『浄化薬』を投与できれば、体内の毒を完全に抜いて、元の正気を取り戻させることができる。……もっとも、そんな国宝級の薬、俺たちが手に入れられるはずもないがな」
「一週間……」
(……お父様を洗脳して支配したのも、ヒプノ草を丸々一本使った原液に近い薬を飲ませて、一週間継続して暗示をかけ続けるやり方だわ! あの時の地下牢でお姉様が『丸々一本使った支配型の薬で、暗示をかけ続けた』と言っていた通りだ)
「ああ。だが、あれにはもっと恐ろしい使い方がある。一度薬を飲ませて暗示をかけた後、一日以降に『もう一回』同じ薬を飲ませるんだ。そうすれば暗示が劇的に強くなり、定着までの期間も大体『二日』に短縮される」
「二日に……!?」
私とお姉様は同時に息を呑んだ。
そんな恐ろしい使用法、図鑑にも載っていなかったし、あの時のお姉様から聞いた話の中にもなかった、全く未知の知識だ。
「そうだ。だが……その短期間での重ね掛けは、脳と精神に致命的な負荷をかける。精神そのものが強引に変容し、後遺症が残ったり、最悪の場合は心そのものを完全に壊してしまう危険な劇薬だ。強烈な『憎悪』や『殺意』といった単純で強い感情を植え付けるのには向いているが、複雑な思考力は失われる可能性が高い」
「そんな……! じゃあ、私のお父様はもう元には……」
(……お父様も、私への愛を早く消して支配するために、その『二度目の薬』を使われて……すでに心を完全に壊されてしまっているんじゃ……!?)
その最悪の想像に私の顔から一気に血の気が引いたが、ジェック様は私の不安を察したように、静かに首を振った。
「いや、絶望するのは早い。……シャリアは冷酷だが、打算的な女だ。アレト殿の『魔道具を作る高度な技術と知能』を長期間利用し続けるためには、彼を完全に壊してしまうわけにはいかない。だから、取り返しがつかなくなるほどの『短期間での過剰な重ね掛け』は絶対に避けているはずだ。俺は、そう思っている」
(……待って、落ち着くのよ。一周目のあの時だって、お父様の心は完全には壊されていなかったはずだわ)
(地下牢でお姉様が教えてくれた通り、お父様はシャリアの言いなりになりながらも、自分の『家督』と私の『レフィーナ』という家名だけは決して譲らなかった)
(あれは心を完全に壊された人形の振る舞いじゃない。支配されながらも魂の奥底で、亡き母さんと私への愛を、最後の一線で守り抜いてくれていた証拠よ……!)
(だから一周目では、心を壊す『二度目の薬(重ね掛け)』は使われていなかった。……でも、二周目の今はどうなの!?)
心臓が、早鐘のように激しく脈打つ。
(今は一周目とは明らかに状況が違う。魔獣事件を生き延びた私たちが、ハーヴェー様たちという強力な後ろ盾を得ようと動いている)
(もし……シャリアがその不穏な気配に焦りを感じ、お父様という『カード』をより確実に縛り付けようとしたら?)
(『まだ壊れていないから大丈夫』なんて、一周目の知識に縋って油断している余裕はないわ。……もし私の知らないところで、もう二度とお父様が私の名前を呼んでくれなくなるような、取り返しのつかない劇薬が使われてしまったら……!)
「……っ」
私は、お姉様を抱きしめる手に、自分でも無意識のうちに力がこもるのを感じた。
(……一刻も早く、お父様を救い出さなきゃ。一周目で証明されたお父様の『愛』が、二周目のシャリアの『焦り』によって完全に塗り潰されてしまう前に!)
(……お父様を救うための『王宮の最高位の浄化薬』。一周目の地下牢で、レオニス王子もそれを使えばお父様は元に戻ると言っていた。ジェック様の言う通り、支配型の薬なら浄化で治せるんだわ!)
(でも、王族に頼ってあの浄化薬を手に入れるなんて現実的じゃないし、私たちの事情を知らないあの冷酷な王子たちに借りなんて絶対に作りたくない。……だからこそ、私には亡き母さんが遺してくれた希望がある。王家の浄化薬と同じ……いや、それ以上の力を持つ、猛毒の浄化と魂の鎮静を行える『上位治癒魔法』!)
(ノートには『長期間投与された毒物の場合、一度で完治しないこともある。根気強い治療が必要だ』と書かれていた。たとえ術者への負担が倍増して、私の命を削ることになっても。私が習得して、何度だって魔法の力で直接お父様の心を浄化して救い出してみせる。やるべきことは変わらないわ)
ジェック様は、重苦しい声でさらに言葉を続けた。
「だが、安心はできない。シャリアは、アレト殿のような技術者にはその手を使わないが……もし、用済みになった相手や、短期間だけ『絶対に逆らわない狂信的な操り人形』が欲しい状況に陥れば……一切の躊躇なく、その二度目の薬を使うだろう」
お姉様が、恐怖に口元を押さえる。
「そんな……お母様が、そんな恐ろしい薬を……」
「実はあいつな。ヒプノ草の他に、もう一つ厄介なものを手に入れていたんだ」
「もう一つ……?」
「ああ。同じアセレリア帝国に生えている『スリプ草』という毒草だ」
スリプ草……?
(そんな名前の植物、禁忌の図鑑にも載っていなかったわ。それに……そんな薬のこと、一周目でも、この二周目でも、今まで一度も聞いたことがない……!)
全くの未知の毒草の登場に、私はごくりと冷たい唾を飲み込んだ。
「あいつが何の為に持っているかは俺にも分からない。……だが、あれの抽出液を嗅げば、対象は二日間もの深い昏睡状態に陥り、目覚めた時には前後の記憶を少し奪われる。致死性はないが、誰かの口を封じ、足止めして証拠を隠滅するには最悪の薬だ」
(嗅げば……。さっきのヒプノ草の本来の使い方と同じだわ!)
私は、ジェック様の言葉の端々に漂う「帝国の毒草」の共通点に戦慄した。
(帝国に生える特殊な草の多くは、無理に飲ませる必要なんてない。ただ『匂いを嗅がせる』だけで、これほど容易に対象の意識や記憶を奪えてしまうということなの……!?)
(もしあの女たちがその気になれば、食事や飲み物に細工する手間すら省いて、ただ通り魔的にすれ違いざまに匂いを撒くだけで、私たちの自由を奪える。……なんて恐ろしい手札を隠し持っているの……!)
私はゴクリと息を呑み、ジェック様を縋るように見上げた。
「ジェック様……もし、そのスリプ草で眠らされてしまった場合……先ほどの『浄化薬』を使えば、目を覚ますことはできるのでしょうか?」
私の問いに、ジェック様は静かに頷いた。
「ああ、もちろんだ。強力な昏睡作用とはいえ、物理的な毒であることに変わりはない。王家が持つような上位の浄化薬を使えば、体内の毒素は即座に中和され、すぐに昏睡から目覚めるだろう。……もっとも、薬を吸わされた前後の『すでに奪われてしまった記憶』までは戻らないがな」
(……よかった。奪われた記憶はどうにもならないけれど、深い眠りから強制的に目を覚まさせるだけなら、上位の浄化薬と同等の力を持つ……私の『上位治癒魔法』で対処できるんだわ!)
「二日間も眠らされて、記憶まで奪われる薬……。そんな恐ろしいもの、絶対に嗅がされないように気をつけなきゃいけませんね」
「……でも、お父様」
お姉様が、ふと湧き上がった疑問を口にした。
「図鑑にも載っていないような帝国の毒草や、お母様が裏で作っている薬のことに……どうしてそこまで詳しいのですか?」
ジェック様は、小さく自嘲気味に笑って答えた。
「……一応、俺も『魔法薬の技術で名高い』リィエル公爵家の血を引く薬師だからな。隠れ住んでいる間も、ただ逃げていたわけじゃない。あいつが裏でどんな薬を作り、誰と繋がっているのか……自分の知識と裏のツテを総動員して、ずっと調べ続けていたんだ」
(ジェック様のその声には、家を追われた者の悲壮なまでの執念と、リィエル公爵家当主としての強い誇りが滲んでいた)
(暗闇の中で一人。どれほどの絶望と孤独を噛み締めながら、愛する娘を取り戻すために泥を啜って情報を集め続けてきたのだろうか……)
お姉様は、実の父が一人で耐え抜いてきた過酷な年月に思いを馳せたのか、痛ましそうに胸を押さえて俯いた。
私もまた、この優しく強い本当のお父様を必ず日向へ連れ戻すと、胸の奥で再び固く誓い直したのだった。




