第52話 束の間の休日と、路地裏へ消えた影
ハーヴェー様たちと約束した「地下図書室での特訓再開」の前日。
私は自室の窓から、雲ひとつない青空を見上げていた。
死に戻ってから今日で、八日目。
あの日からまだ一週間と少ししか経っていないというのに、この数日間には、一生分に匹敵するほどの激動が詰まっていた。
お姉様の『闇魔法』が覚醒した、精霊の森での魔獣襲撃事件。
メイド長マリアベルの不気味な監視を潜り抜け、辿り着いた地下図書室での出会いと、母さんが遺してくれた『治癒魔法のノート』。
そして――カーフェーン家のお茶会で果たした、親友アメリアさんとの運命の再会。
(……本当に、頭が許容量を超えてしまいそう……)
私は無意識に、勉強机の奥の隠し場所へと指を這わせた。
『作戦計画書』や『スターリーフ』、帝国と繋がる『銀色の手鏡』に、母さんが遺してくれた『治癒魔法のノート』。指先に触れるそれらの冷たい感触だけが、張り詰めた私の唯一の支えだった。
情報の整理が必要だ。母さんのノートにあった『治癒魔法の代償』、そして帝国から来たリフレットさんが言っていた『策略家キャサリーヌ』の脅威。それらがまるで見えない鎖のように公爵家を取り巻いている。
でも、収穫は大きかった。母さんのノートの破られたページに隠された『死者蘇生』という究極の禁忌と、それに伴う重すぎる代償を、いざという時は一人で背負う覚悟も……すでに私の心に深く刻み込まれている。
明日からは元・魔法兵団副団長のレイフェさんという新しい師匠を迎えての厳しい特訓が始まる。その前に、少しでも心を休め、頭を整理しておきたかった。
コンコン。
控えめなノックの音と共に、お姉様が部屋に入ってきた。
「アミア、入ってもいいかしら?」
「あ、はい。お姉様」
お姉様は私の顔を覗き込むと、ふわりと優しく微笑んだ。
「やっぱり。少し疲れた顔をしているわ」
「え……そうですか?」
「ええ、眉間に皺が寄っているわよ。……ねえ、アミア。今日はお天気がとても良いの。たまには息抜きにお買い物に行かない?」
「お買い物……ですか?」
「そう。ずっと屋敷に籠もってばかりじゃ、心が滅入ってしまうわ。この間、馬車の窓から王都の城下町に可愛いリボンのお店を見つけたの。一緒に行きましょう?」
お姉様の提案に、私は少し驚いた。
一周目でも屋敷の中で一緒に遊ぶことはあったけれど……二人きりで城下町へ買い物に行くなんて、一度もなかったからだ。
特に学園に入学してからのあの日々は、お姉様は王子の婚約者という重圧を一人で抱え込んで部屋に閉じこもるようになり、私を巻き込まないために意図的に避けるようになっていた。
でも今は違う。私たちは、普通の姉妹のように休日を過ごせるのだ。
「……はい! 行きたいです!」
私たちは早速、シャリアお母様のもとへ向かった。
幸い、お母様は機嫌が良かったのか、それとも二日前、カーフェーン家からのお茶会に招かれたことで私たちが「役に立つ」と判断したのか、あっさりと許可を出した。
「いいでしょう。ただし、羽目を外しすぎないように。リリナ、荷物持ちとしてついていきなさい」
「かしこまりました、奥様」
この屋敷の事情やシャリアの裏の顔など何も知らない、ただの真面目な古株メイドであるリリナさんが私の後ろで頭を下げる中、こうして私たちは彼女の付き添いありという条件で、久しぶりの外出許可を得たのだった。
***
王都の城下町へ向かう馬車の中、流れる景色を眺めながらお姉様と他愛のないおしゃべりを交わす、宝石のように貴重な時間を味わっているうちに、私たちは活気に満ちた石畳の目抜き通りへと到着した。
石畳の道を多くの人々が行き交い、露店からは香ばしい焼き菓子の匂いが漂ってくる。
「見て、アミア! あの髪飾り、素敵じゃない?」
「本当ですね。あっちのガラス細工も綺麗ですよ」
公爵令嬢にふさわしい上品な外出着に身を包んだお姉様と、それに合わせた仕立ての良いドレスを着せてもらった私は、ショーウィンドウを覗き込んでははしゃいだ。
後ろには、数歩下がってリリナがついてきている。彼女は私たちが迷子にならないか、あるいは怪しい輩が近づかないか、保護者のような目線でハラハラと見守っていた。
屋敷の閉塞感から解放された喜びは大きかった。
その時だった。
人混みの中から、白いハンカチで顔を隠した、茶髪の男がふらりと現れた。
男はすれ違いざま、お姉様の肩を抱くようにして、路地裏の方へと誘導した。
「……えっ?」
あまりに自然な動作だった。まるで知り合いかのように。
しかし、お姉様の表情が一瞬で凍りついたのを私は見逃さなかった。
「あっ、お姉様!」
「アミア……!」
「お嬢様!?」
私が駆け出そうとすると、リリナが驚いて声を上げた。
「アミア様、いけません! 路地裏は危険です! 私が大声で衛兵を呼んでまいります!」
(ダメ! もしあれが普通の誘拐犯じゃなくて、シャリアの差し金や公爵家の裏の事情に関わる人間だったら……! 何も知らないリリナさんが大騒ぎをして首を突っ込めば、最悪の場合、彼女まで口封じに殺されてしまうかもしれない!)
私は咄嗟に、リリナさんの腕を両手で強く掴んで引き留めた。
「待って、リリナさん! 大人が大騒ぎして追いかけたら、相手を刺激してお姉様が傷つけられるかもしれないわ!」
「で、ですが……!」
「子供の私なら警戒されないはずよ。私がこっそり様子を見てくるから、リリナさんはここで待っていて! もし本当に危なそうだったらすぐに私が大きな声で叫ぶから、その時はすぐに助けを呼んで!」
「そんな、アミア様を一人で行かせるわけには……!」
「お願い、お姉様の命がかかっているの! 頼んだわよ、リリナさん!」
私は十一歳の子供の必死な懇願と、公爵家の令嬢としての絶対的な命令を織り交ぜて、有無を言わせず言い切った。
リリナさんは私のあまりの気迫に気圧され、ハッとして一瞬だけ動きを止めた。
「お、アミアお嬢様……っ!」
その隙を突いて、私は彼女の制止を完全に振り切った。
そして、男とお姉様が消えた薄暗い路地裏へと、迷うことなく駆け込んだのだった。




