第八話『入居』
夏樹たちが例の異空間に放り込まれたのは昼頃のことだったから、少なく見積もっても五時間近く、あの空間に閉じ込められていたらしい。
もし檸檬が警察に捜索願でも出していたら、身元不明の外国人であるユーリエのことはどうやって誤魔化そうかと考えながら、夏樹はユーリエの肩を借りて帰路に就く。
素足で歩くコンクリートの上は思いの外痛く、夜が近いせいで低気温による冷えも加わっていて、ちょっとした拷問のようだった。
「痛いってコレやばいってコレ。嘘でしょ僕、本当にこんな凶暴な道を三年間も歩き続けてたの?」
今後は家の中でも靴下くらいは履くようにしようと夏樹は心に決めるが、それで現状が改善されるわけでもない。
せめてもう少し滑らかというか、目の細かい場所はないだろうかと視線を巡らせる夏樹に、どこかから取り出した靴をユーリエが差し出した。
「なつき、リレユフレツヘルヘメイ。ユヘミニリニネニヘ、ムリミヒイメイレリミメレメンレヒ……」
「え、これを僕に履かせてくれるの? 気持ちは物凄く嬉しいけど、ユーリエが履きなよ。女の子がこんなことで足をボロボロにしちゃダメだよ」
「なつき、ユネレンレユイユネイヘルヘメイ。レンレヒユイメネレメペ、ネンヒレテレムヘミュウ? なつきテレネニンネンヘムレメ、レメヘユイヘユメネレメペへメヘム」
自分を苦しめている痛みがユーリエにも襲いかかっているのだから、ユーリエよりも自分を優先するわけにはいかないという男の子の意地は、聞き分けのない子供を叱るような口調でユーリエに棄却されてしまった。
意外と頑固なところがあるらしい。
何を言っても引いてくれなさそうな空気を感じ取り、夏樹がしぶしぶと靴を履くと、ユーリエは満足そうに頷いた。
どうやらユーリエも無理をして履いていた靴のようで、サイズが全く合わないその靴を履くためにかかとを潰してしまったが、ユーリエはさして気にしていないみたいだったので夏樹は胸を撫で下ろす。
そうしてユーリエの肩と靴を借りて、ゆっくりと家路を歩く。
傷口を刺激しないように気をつけたせいで、家の扉の前に立つ頃にはすっかり日が沈んでしまっていた。
「うぅ……どうしよう、帰りたくないなぁ……。檸檬、絶対怒ってるよなぁ……。二、三発殴る程度で許してもらえるかなぁ……」
化け物にやられた傷のことを思えば、それすら致命傷になりかねないが、そのことを説明するだけの猶予が、果たして夏樹に与えられるのだろうか。
今からでも再びあの異空間に引きこもれないだろうかと、早くも喉元過ぎた熱さに焦がれる夏樹の懊悩に気づくことなく、ユーリエが家の扉をノックする。
「イルメレ、イミルネツヘミレツヘリウミユレエミレメン! ヘヘイレヘンネメレユイフメミレミヘ!」
「ちょっと待って、ユーリエ! もう少し慎重になって!!」
檸檬の凶暴性を知らないユーリエは、慌てふためく夏樹に怪訝そうな視線を向ける。
しかしすぐに何か合点がいったらしく、にっこりと夏樹に微笑みかける。
「ヘイミュウプヘムユ、なつき。ユレミイリヒテネニリネレツヘニヘムレメ。ユヘミレメリリヒンヒメフレイミレムレメ、エンミンミヘルヘメイ」
握りこぶしを作って自身の側頭部をこつんと叩く謎の仕草のせいで、向けられた台詞は死刑宣告のように夏樹には聞こえた。
だから出会った直後であれば、いったいどこでユーリエの機嫌を損ねてしまったのだろうと、戦々恐々としていたかもしれない。
けれど、夏樹は知っている。
顔を真っ赤にして怒るような意味らしいサムズアップを向けてきた夏樹に対しても親切にしてくれた、ユーリエの「殺す……っ!」「がふぉっ!?」何倍も凶暴な幼馴染の回し蹴りが、迅速かつ的確に襲い掛かってきた。
どうやらかなり苛立っていたらしく、ドアを開くと同時に放たれた蹴りに夏樹は全く反応できず、もろに食らって吹っ飛ばされる。
一応ユーリエに当たらないよう振るわれたあたりに理性の残滓を感じるが、その優しさが自分にも向くのを期待するほど夏樹は楽天的ではない。
「……誘拐してきた子と仲良く肩なんか組んで……! あの子に一体何をしたの……!!」
しかも、まだ誤解が解けていない上に洗脳の嫌疑までかけられているらしい。
吹き飛ばされた夏樹が弁明しようとするより早く、マウントを奪った檸檬が拳と怒りを雷雨の如く叩きつける。
「いだっ……ちょっ、檸檬待って! 死ぬって、ホントに死んじゃうって!!」
「……人に心配をかけさせておいて他の女の子といちゃつくような夏樹なんか、死んじゃえばいい……!」
「良くないって! 女の子が『死んじゃえばいい』なんて可愛くない言葉を使っちゃダメだよ!」
というか、異空間で遭難して死にかけるのは『いちゃつく』という動詞(?)にはカテゴライズされないはず。
「夏樹の死体と一緒に私も焼身自殺するから、性別なんか関係ない……!!」
「亡き骸の処理まで考えてあるの!? 檸檬、もしかして本気で僕を殺しにきてる!?」
火葬ついでに自殺するという、命がけの嫌がらせを敢行するほど怒られるとは思わなかった。
どうにかして逃げられないだろうかと視線を巡らせてみるが、周囲に使えそうな物は何もないし、檸檬の怒りに当てられてオロオロしているユーリエ以外は何者もない。
万事休すかと夏樹が脳内で遺書を綴り始める頃、夏樹を打ち付ける拳の威力が落ち始める。
好機とみて夏樹は抜け出そうとするが、檸檬が夏樹の胸に顔を埋めるようにして重みをかけてきたために、余計に身動きがとれなくなってしまう。
それで一瞬もがくのを止めたからか、蚊の鳴くような声でこぼれた檸檬の呟きが、夏樹の耳にはっきりと届いた。
「……本当に……本当に、怖かったんだから……っ!」
「………………ごめん、檸檬……」
ぽす、ぽすと、夏樹の胸を叩く檸檬の力は、今は弱々しい。
ぽつ、ぽつと、夏樹の胸を打つ檸檬の涙が、代わりにとても痛かった。
怖がりで泣き虫な幼馴染の頭を、夏樹は子供の頃のようにそっと撫でる。
それで大人しくなった檸檬は、ぐずるように呻きながらさめざめと泣き続ける。
少しして顔を上げた檸檬は、やっぱり不機嫌そうに夏樹を睨みつけてから、ぽかりと一発叩いて夏樹を解放してくれた。
「心配してくれてありがとね、檸檬」
「……別に、夏樹の心配なんかしてない……」
「あはは。それは残念だなぁ」
朗らかな気持ちで檸檬の強がりを聞きながら、夏樹は涙でぐしゃぐしゃになった檸檬の顔を拭く。
檸檬はうっとうしそうに唸るが、それ以上の抵抗は特にしなかった。
「……なつき……ミニ、レネテテイリヘムレ?」
「ん、どうしたのユーリエ? 怪我の心配をしてくれてるなら大丈(ガシッ)ぶぉふっ!?」
恐る恐るといった様子で話しかけてきたユーリエに笑顔を向けたら、突如視界が何かに覆われた。
こめかみ付近に走る激痛を鑑みるに、檸檬にアイアンクローをされているのだろう。
「って、いだだだだだだ!! 何なに!? どうして僕いきなりこんなことされてるの!?」
「……あの子とずいぶん仲良くなってるみたいだけど、どこで何をしてきたのか教えてもらえる……?」
「教える教える教える! だからお願いします、手を離して下さいっ!?」
「エニっ、イルメレ! イヒフイヘルヘメイ、ユヘミヒなつっ……ヘンネメレニエイヘニテ、ユレミイリヒテネニリニテイレメン! ヘンネメレテ、チリルニイヒメメヘユヘミユヘムレヘルヘメツヘヘレネンヘム!」
「……まずは、あれだけ怯えてたこの子を、どうやってここまで手懐けたのかから白状してもらう」
「言います言います言います!! だからせめて、もう少し手加減してほしいな!! このままだと僕の頭がリンゴみたいに砕けちゃうよ!?」
『リンゴみたいに砕ける』というのが比喩として正しいのかどうかは分からないけれど、檸檬の握力がそれを上回る異常さを発揮しているので、おあいこだろう。
生命が存続の危機に瀕している状況で気にすることでは、絶対ないけれど。
「……安心して。そのときはパイ生地に包んで、ミートパイにするから」
「できれば僕も食べる側として食卓に着きたいです!!」
砕けなければどうなるのかは、怖くて聞けなかった。
◇
なぜかユーリエが庇うほど酷くなっていった折檻を無事に生き残った夏樹は、現在リビングのフローリング部分に正座をさせられていた。
今や化け物にやられた傷よりも痛む頭で必死に整理した現状を、夏樹は目の前で仁王立ちしている檸檬に説明する。
「……異世界召喚……?」
「うん。この世界……地球じゃないどこかから、何か不思議な力で呼び出されたんだと思う」
サブカルチャーに疎い檸檬は、毛虫でも見るような目で夏樹の見解への懐疑を露骨に示すが、夏樹たちが異空間に放り込まれる瞬間を目撃していたからだろう、比較的あっさりと警戒心を解いてくれた。
ちなみに当のユーリエは、檸檬に通された椅子に落ち着かなそうに腰をかけ、不安げに夏樹と檸檬のやり取りを見守っている。
夏樹が気絶したユーリエを前に思ったことと同じことを考えたのか、椅子に座らせるときに一瞬躊躇しているようだったが、あとできちんと拭けばいいということで自己完結したのだろう。
「……それで? どうして、あ……あなたは、異世界からやってきたその子を、わざわざこちら側に連れてきたの?」
どうやら檸檬が言うところの、夏樹がユーリエと『仲良く肩を組んで帰ってきた』ことがよほど腹立たしかったらしく、顔を真っ赤にして目を逸らした檸檬は、名前さえ呼んでくれなくなってしまった。
確かに心配していた相手が能天気に遊んでいたら腹の一つや二つも立つだろうが、それは誤解なのだから、そろそろ機嫌を直してくれてもいいんじゃないのかと、夏樹は胸中で独り言つ。
とはいえ、名前を呼んでもらえなくて拗ねてるみたいに思われるのも癪だった夏樹は、そんな不満を表には出さなかったが。
「どうしてと言われても……。こっちに戻るのはたぶん、ユーリエの力じゃないと戻れなかったし……あんな危ないところに置いてくるっていうのも、人としてどうかと思うし」
「………………? 危なくたって、そこがその子の故郷なら、こっちに連れてくる理由はないはず」
「故郷……?」
果たしてそうなのだろうか?
あの空間には人の気配が全くなかったし(紅い瞳の女の子はノーカウント)、放り込まれた時のユーリエのパニック状態を思い出せば、とても馴染みのある場所には見えなかったけれど……。
と、そこまで考えてから、夏樹は檸檬の誤解に気づいて説明する。
「異世界っていっても、一つとは限らないよ。きっと僕らの世界やあの場所の他にもたくさんの世界があって、ユーリエの故郷はその中のどれかなんじゃないかなって思う」
「…………………………………………………………………………………………」
夏樹の説明を聞いた檸檬は何故か、物凄く嫌そうに顔を歪める。
何か変なことを言っただろうかと自らのセリフを反芻してみるが、心当たりが全くない。
しきりに首をひねる夏樹に、心底嫌そうな声音で、檸檬が尋ねた。
「……その子のこと、これからどうするの?」
「へ? そりゃもちろん、故郷が見つかるまでウチの部屋を貸してあげるつもりだけど」
何を当たり前のことを、と思いながらも答えると、檸檬は大きく嘆息した。
呆れを含んだ『言うと思った』というセリフが聞こえてくるようなその嘆息にむっとした夏樹が物申そうとするのを制して、檸檬は言った。
何をそんなに怒っているのか、耳まで真っ赤にして、眉を吊り上げて。
「……それなら、今日から私もここで暮らす」