第1話 小さなシェフによるチキンソテー
食べることは生きること。
「おいしい」は、幸せの言葉。
「何なら食べられそう?」
夫がベッドに横たわったままの彩に声をかける。
彩は無言で首を振るだけ。
困ったような顔をして、小さくため息を吐いて、夫は寝室をあとにした。
彩は再び毛布を顔のそばまで手繰り寄せて、また目を瞑った。
今年の2月からご飯が食べられなくなった。
だんだん、だんだん、食べる量が減った。今日こそはと思うと、次第に嘔吐するようになっていった。
お腹が空かないんじゃない。お腹はとても空いている。けれど一口固形物を口に含むと、喉が拒否しているのを感じる。空腹なのに食べることができなかった。
そうすると今度はだんだん起き上がれなくなっていった。それでも仕事の日は必死に起き上がる。目眩にフラフラしながら、それでもニコニコ笑顔を貼り付けて。当然、帰宅すればそのまま動けない。土日はもう本当にどうにもならなかった。
悲しかった。ゴールデンウィークなのに、遊び盛りの子どもたちをどこにも連れていってあげられない。
眩しい日光を頑なに拒否するように、寝室のカーテンは閉め切っていた。
「ママ?大丈夫?」
幼い声が、薄暗い部屋に入ってくる。
「僕、鶏肉焼いたよ」
労るより誇らしさの色が滲む。
「ママにチキンソテー作ったから、食べて」
机の上には普段使わない、誰かの結婚式の引き出物でもらった大きなお皿に、ちょこんと鶏肉が乗っていた。片面だけ、不揃いにかけられた黒胡椒が見える。
目の前の小さなシェフは弟を従えて満遍の笑みだ。
箸でそっと塊を掴む。香りは何もしない。
かじると、それはそれはパサパサしていてジューシーさは皆無。噛むのが疲れるくらいだった。何より何の味もしない。
彩は思わず吹き出す。
「おいしい」
彩の言葉に、小さなシェフ兄弟の笑顔は弾ける。
でもせめて、もも肉を用意してくれればよかったのに。そう思って夫の方を振り向くと、こちらもまた同じ顔で笑っている。
おいしい。
パサパサの鶏胸肉のソテー。




