エピローグ
それきり理亜とは会っていない。連絡も取っていない。そして瑠衣が寮に戻ってくることもなかった。代わりのように、理亜が警察に行ってから二ヶ月ほど経った頃に坂口が訪ねてきた。
以前と同じ来客室の椅子に座った彼女は、しかし以前とは違う自然な穏やかな笑みで「崎山さんが気にしてると思いまして」と、その後の理亜のことを教えてくれた。
彼女が言うには理亜が罪に問われることはないとのことだった。宮守家、香澄家の両親とも同様。その言葉に音羽は安堵した。そんな音羽の反応に坂口も安心したように微笑む。
「わたしたちの方でも事情を聞いて改めて当時のことを調べてみたんですが、書類上はとくに問題もありませんでした。何より、当人たち同士で納得済みのことでしたし」
穏やかな表情で話す彼女は、仕事としてというよりは坂口個人として音羽と話しているように見える。彼女はテーブルの上に置いた手を組んで「宮守家の本当の長女については」と言葉を続ける。
「死産だったって、そう仰ってました。どちらのご両親も」
「そう、ですか」
以前聞いたときには死産だったのかどうかわからないと言っていた。しかし坂口にそう伝えたということは、それを真実とすることにしたのだろう。坂口は続ける。
「それからあの遺書も筆跡鑑定の結果、香澄美琴さんのものであることが断定されました。彼女のご両親から聞いたお話では美琴さんは事故に遭われて以来、そういうことを予想させる言動を取ることがあったそうで……」
「じゃあ、あの山で亡くなっていたのは」
「ええ。美琴さんであると判断されました。死亡届も美琴さんのものが改めて提出され、理亜さんのものは撤回されました」
「撤回……。じゃあ、理亜は?」
音羽は坂口を見つめる。彼女は微笑みながら小さく頷いた。
「社会的にも生き返ったということです」
「そうですか。よかった……」
心から安堵して音羽は笑みを浮かべる。
「理亜は戻れたんですね。元の、宮守理亜に」
「ええ」
しかし坂口はなぜか表情を曇らせた。
「なにか、あったんですか?」
思わず心配になって訊ねると、彼女は「実は理亜さんが」と沈んだ声で言った。
「精神的に不安定で」
「精神的に……」
坂口は頷いた。
「美琴さんのことや彼女の人生を盗んだという罪悪感もあったんでしょう。医師の判断でも、しばらくは静かな落ち着ける場所での静養が必要だということでした」
「じゃあ、理亜は今どこに」
しかし坂口は首を横に振った。
「それはわたしにも……。ただ、先月でしたか宮守さんのお母様と電話でお話したときには、今は別の土地で暮らしているということでした」
「そうですか。元気なら、それでいいです」
音羽は笑みを浮かべる。
彼女が元気で暮らしているのならばそれでいい。きっと彼女は一人ではない。瑠衣が一緒にいるはずだ。瑠衣がずっと理亜を守っているはず。
音羽がそう言うと、坂口は「そうですね」と優しい表情で頷いた。
それきり坂口と連絡を取り合うこともなくなり、音羽の生活は穏やかに過ぎていった。
寮の部屋にはもう誰も帰って来ない。理亜も、瑠衣も。
静かな相部屋には音羽一人だけの生活が続いていた。しかし、新たな学年を迎えた春。転入生の入寮を機に寮の部屋割が一部変更となった。理亜がいなくなってから一人で部屋を独占していた音羽にもついに新しいルームメイトができたのだが、その相手はどういうわけか転入生ではない。
「前のルームメイトと気まずくなったりしないの?」
部屋に荷物を運び入れるのを手伝いながら音羽は見慣れた女子生徒に問う。彼女は部屋の床にドサッと段ボールを置くと「ならないよ。表向きは学校側の意向だからね」と苦笑しながら振り返った。
「本当は?」
音羽が訊ねると彼女はフフッと息を吐くようにして笑った。そして肩をすくめる。
「真面目にクラス委員やってると、こういうとき得だよね」
「職権乱用だね?」
音羽は苦笑して首を傾げる。
「いいの!」
「いいの?」
「だって崎山さんと同じ部屋になりたかったんだもん」
「ふうん。なんで?」
すると彼女は一瞬考えてから「近くで見守っていないと心配で?」といたずらっ子のような表情で笑った。
「過保護だなぁ」
「崎山さんが相手だからねぇ」
「……どういう意味?」
「胸に手を当てて聞いてみて」
「いや、わかんない」
「じゃ、わかるまでわたしがそばにいないとダメだね」
涼は音羽の頬を両手でペチンと挟んでから微笑み、再び荷物運びに戻っていった。音羽は頬に手をあてて首を傾げる。
最近、よく彼女はこういう表情を見せるようになった。学校でも音羽と二人でいるときにはよく砕けた表情を浮かべている。きっとこれが本当の彼女の姿なのだろう。そんな気がする。
音羽にだけ見せてくれる姿は、彼女が音羽に心を開いてくれている証拠なのかもしれない。そんな彼女と同室になることに異論はない。むしろ楽しそうだとすら思う自分がいる。それは理亜とのことについて自分の中で整理がついたからなのか、それとも涼の優しさを知っているからなのかわからない。
理亜が警察に行った日から、彼女は理亜のことを口にしなくなった。どうなったのかということも聞いてはこない。坂口が訪ねて来た日に音羽から理亜のことを話したときには、ただ微笑んで頷いただけだった。
決して理亜のことに興味がないわけではないだろう。いや、涼のことだ。むしろ気になっているに違いない。それでも深く聞いてくることがないのは音羽のことを気遣っているからだろう。
思えば、それからかもしれない。涼がこうして音羽に意外な一面を見せるようになったのは。
学校でも以前より多く二人で時間を過ごすようになった。休日には一緒に遊びに行ったりもする。まるで理亜の代わりを務めるように。
本人にそんなつもりはないのかもしれない。それでも理亜がいなくなってからずっと一人だった音羽には彼女の行動が、そしてその存在が嬉しかった。
そして新生活にも慣れてきた初夏の土曜日。涼と会話をしながらまったりと昼下がり時間を部屋で過ごしていると、珍しく寮母が訪ねて来た。
「崎山さんにお手紙が届いてるよ」
そう言って彼女が渡してくれたのは見覚えのある封筒だった。音羽は寮母が部屋から去ってからもドアの前でそれを見つめて立っていた。
それは去年の秋、音羽の元に送られてきた封筒と同じ。そして香澄美琴の遺書が入れられていた封筒と同じ。そっと裏を確認する。そこに書かれてあったのは宮守理亜の名前。
音羽は微笑みながら振り向き、涼に視線を向けた。彼女は不思議そうに「手紙? 誰から?」とテーブルに両腕を置いて身を乗り出してきた。
「理亜」
「え、うそ」
「ほんと」
音羽は言いながらクッションの上に座ると封筒を開いた。涼はさらに腰を上げて封筒の中を覗き込んでくる。その中には一枚の写真が入っていた。他には何もない。音羽はそれを取り出すとテーブルの上に置く。
「……なにこれ。手紙とは言えないよね」
写真を見た涼が呆れたように呟きながら腰を下ろす。
「ほんとだね」
音羽も苦笑しながらその写真を見つめた。それは理亜と瑠衣が両手を空に伸ばしてポーズをとった写真だった。
後ろに広がっているのは、見たこともないほど綺麗な浜と海。二人はお揃いの水着を着ているようだ。海の色はコバルトブルーで沖には島も船も見えない。
どこまでも続く綺麗な海は、まるでその先で真っ青な空と溶け合っているようにすら見える。そんな景色を背景にして満面の笑みを浮かべる二人の上には太いマジックで『元気!』と力強く書かれていた。
「元気なのは見たらわかるでしょ」
写真を見つめ、穏やかに微笑みながら涼が言う。音羽も頷きながら写真の中にいる理亜を見つめた。
水着の胸元にはあのペンダントが太陽の光を反射させている。音羽は自然と自分の胸元に手をやる。
彼女がこのペンダントを着けてくれている。それだけで理亜と繋がっているような気がして心が温かくなる。
「……崎山さん?」
不思議そうな涼の声に視線を向けたそのとき、テーブルに置いていた音羽のスマホが鳴り始めた。着信だ。画面を確認した音羽は思わず「え?」と目を丸くした。
「なに、どうしたの?」
涼がさらに不思議そうに首を傾げた。しかし音羽はその声に答えるよりも先に通話をタップしてスマホを耳に当てていた。
「あ、出た。なんだよ、遅いよ。ちゃんとコールは二回で出てくれないと」
「ごめん。びっくりして動けなかった」
音羽が言うと理亜は声を上げて笑った。楽しそうに。
「手紙、届いた?」
「うん。ちょうどさっき届いてね。今見てたところ」
「すごい。タイミングばっちりじゃん!」
「だからびっくりしたんだってば」
「ねえ、誰からなの?」
涼が眉を寄せながら音羽のことを見つめているのでスマホをスピーカーに切り替えてテーブルに置いた。
「ん、音羽?」
テーブルに置いたときに音が響いたのだろう、不思議そうな理亜の声が聞こえた。
「え、この声って宮守さん?」
涼は目を大きく見開いた。その声に理亜が「なんだよ、下村もいるの?」と怪訝そうに言う。
「そこ、音羽の部屋じゃないの?」
「そうよ。部屋替えがあって、春からわたしが崎山さんのルームメイト」
「えー、なんだよそれ」
「そこは俺の場所だったんだぞ?」
ふいに聞こえた不満そうな声は瑠衣のものだった。どうやら向こうもスピーカーにしているようだ。しかし二人の声以外は聞こえない。室内にいるのだろう。
「瑠衣ちゃん、元気?」
「何言ってんだよ、音羽。元気って書いてるだろ、写真に」
少し懐かしい生意気な口調に音羽思わず笑いながら「たしかに」と答える。
「でも、なんで手紙? スマホが変わってないならメッセージでも――」
「だって残るじゃん」
音羽の言葉を遮って理亜は穏やかな声で言った。
「……残る?」
「うん。手紙だったら残るでしょ?」
「――そっか。そうだね」
音羽は微笑みながら写真を手に取る。そんな音羽を見つめていた涼は「それで?」とため息交じりに言った。
「宮守姉妹は今どこにいるわけ?」
すると理亜と瑠衣が声を揃えて「沖縄」と答えた。
「沖縄? なんで」
「医者がさ、わたしにはのんびりした空気が必要だって言うんだよ。だから宮守の親戚の家に世話になってんの」
「瑠衣ちゃんもそうなの?」
音羽が聞くと「いや、俺は親命令で家を出された」と笑い混じりの瑠衣の声が答えた。
「親命令?」
「そ。もっと外の人間と触れ合って来いってさ」
「まー、つまり二人まとめて成長してこいってことみたい」
「家出たくらいで成長できるわけ?」
涼の呆れた声に二人の笑い声が響く。音羽も一緒になって笑いながら写真を見つめる。
「ところで下村。おまえ、音羽に何もしてないだろうな?」
写真の理亜は笑顔だ。いつもこの部屋で見ていたのと同じ、ちょっと挑発的で魅力的な笑顔。
「はあ? 何もって何をよ」
「お前が音羽に気があることは分かってる」
「ちょっ! なに言ってんの?」
理亜の体型は、音羽が知っているときよりも痩せているように見える。
「ごまかすな。分かってるんだからな。瑠衣からもそう聞いてるんだから」
「あんた、なに余計なことを」
「余計なって言ってる時点で認めてるぞ、お前」
再び二人の笑い声が響いた。隣では涼が顔を真っ赤にして「違うからね? 崎山さん」と慌てたように言う。音羽は苦笑を浮かべた。
「大丈夫だよ。気にしてないから」
「いや、それはそれで……」
「言っとくけど、音羽はわたしのだからね」
「なに言ってんの、理亜」
笑って答えながら音羽は視線を写真に戻す。
「崎山さんにそういう気はないみたいだけど」
「音羽の気持ち関係なく、音羽はわたしのなの。わたしがそう決めたの」
写真に写る理亜の右腕には傷跡のようなものがあった。白い肌が引き攣ったように見える小さなそれは、もしかするとレンズの汚れかもしれない。あるいは写真そのものが汚れているのか。考えながら音羽はじっと写真の中に写る彼女の腕を見つめる。
「勝手に決めないで。崎山さんに迷惑でしょ」
どうやらそれは写真の汚れでもレンズの汚れでもない。間違いなく理亜の腕にある傷跡だ。それに気づいた瞬間、一気に血の気が引いていくのがわかった。
音羽が知る限り、理亜の右腕にそんな傷はなかったのだ。しかし音羽は知っている。事故で右腕に怪我を負った少女のことを。
「迷惑なわけないじゃん。音羽だってわたしのこと好きだし。ね、音羽」
理亜の楽しそうな声が聞こえる。いつもここで彼女が音羽をからかっていたときと同じ、ちょっと勝ち気で意地悪そうな口調。
「――ねえ、理亜」
口を開いた音羽に涼が不思議そうな表情を向けた。
「ん、なに? まさか怒った?」
「そうじゃなくて、腕」
「腕?」
「うん。右腕。怪我したの?」
すると一瞬の間があって「あー」と理亜の困ったような声が聞こえた。
「ちょっとね」
「いつ?」
「いつだったかな。覚えてないけど……。かなり前だよ」
「かなり前……。瑠衣ちゃん、知ってた?」
「いや、知らないけど。でも理亜が覚えてないってことはたいしたことなかったんだろ。理亜、色が白いから傷も残りやすいんじゃない?」
瑠衣の口調からは、まるでそのことを気にした様子も感じられない。それは涼も同じようで、彼女はただ怪訝そうな表情で「崎山さん、どうしたの? 何かちょっと顔色悪いけど」と音羽のことを見ている。
「ね、音羽」
少し低めの理亜の声が頭に響く。
「言ってくれたよね。わたしが誰であっても、音羽にとってはわたしが宮守理亜だって」
「――うん」
たしかに言った。だって彼女が理亜だと信じていたから。
「だからわたしは決心できたんだよ。理亜として生きようって」
穏やかな彼女の声に音羽は答えることができなかった。鼓動が激しく脈打っている。写真を見つめながら脳裏に蘇ったのは、あのとき海辺の公園で言った彼女の言葉。
――わたしは殺して、殺されたんだよ。
あのときの彼女は苦しそうに見えた。
彼女はあのとき、本当は何か別のことを言おうとしていたのではないだろうか。彼女の言う『わたし』とは誰のことなのだろう。美琴なのか、それとも――。
「崎山さん、大丈夫? なんか本当に顔色悪いけど」
心配そうな涼の声。しかし、音羽は写真から視線を逸らすことができなかった。理亜の右腕に残る傷跡から。
「音羽」
柔らかく、優しい声が音羽の名を呼ぶ。それは音羽が知っている理亜の声。この部屋で、毎日聞いていた彼女の声。そのはずだ。
「音羽に何かあったら、わたしが助けるからね」
それを聞いたとき、ふいに涼の言葉が蘇った。
――それって幸せな人生?
平凡な家庭で優しい両親と妹に愛されて生きてきた理亜。
裕福な家庭で、しかし将来の夢を絶たれて両親から距離を置かれていた美琴。
比べてみたらすぐにわかることだ。美琴が欲していた人生がどちらだったのか。
「絶対に、助けるからね」
「――うん」
音羽には、そう頷くしかなかった。
「音羽だったら俺も助けてやるよ」
「ちょっと、わたしは?」
「えー、お前は自分でなんとかできるだろ」
みんなの笑い声が響く。
この違和感に気づいているのは音羽だけ。
そしてその違和感の正体を知っているのは彼女だけだ。
「じゃ、また連絡するから」
彼女の明るい声を残して、通話はあっけなく切れてしまった。暗くなったスマホの画面を音羽はぼんやりと見つめる。
「……ねえ、大丈夫? ほんどにどうしたの、崎山さん」
涼の声に音羽は顔を上げて微笑んだ。
「なんでもないよ」
そのとき、膝に置いていた手に冷たい雫が落ちてきた。それは知らないうちにこぼれ落ちた音羽の涙。
「え、ちょ、崎山さん?」
涼は動揺した様子で目を丸くしながら音羽に両手を伸ばす。
「なんで泣いてるの?」
「……さあ。なんでだろ」
しかし、涙は止まらない。
「えっと、こういうときはどうしたら――」
呟きながら涼が遠慮がちに音羽の背中に腕を回し、そっと抱きしめてくる。
「落ち着いて。大丈夫だよ」
きっと涼には訳が分からないだろう。それでも懸命に音羽を落ち着かせようと背中をポンポンと叩いてくれる。
死んだはずの理亜とまた会うことができた。そう思って泣いてしまったあのとき、理亜と信じた彼女がそうしてくれたように。
「……ごめんね。ごめん」
声にもならない声でそう言うと音羽は涼にしがみつくようにして泣いた。
綺麗な桐の棺の中で眠っていた愛しい少女の最期の姿を思い出しながら、ただ泣き続けることしかできなかった。




