3章 9話 バカ
リズは帰りの電車からうとうとしていたが、風呂から上がると、ぜんまいの切れた人形のようにぱたりと眠ってしまった。
よほど疲れていたのだろう。
今日一日を振り返れば、無理もない話だ。
俺も食事と風呂を済ませると、強い倦怠感と睡魔がどっと押し寄せてきた。
少し横になるだけのつもりだったベッドから、体がくっついてしまったように動けなくなる。
目蓋が重たくなり、そのまま睡眠の快楽に身を委ねようとしたとき、
「ちょっといいか」
部屋の外からオリヴィアの声がし、眠りの世界から引き戻された。
ドアを開けると、長い銀髪を下ろした、パジャマ姿のオリヴィアが立っている。
「話があるんだが、中に入っていいか」
オリヴィアが俺の部屋を訪れるのは珍しいことだ。
中に入れるが、居心地が悪い。
「そうだ、オリヴィア。ベランダに行かないか」
「構わないが」
ベランダに出ると、心地よい夜風が頬を撫でていった。
思った通り密閉されていない分、室内よりは落ち着く。
オリヴィアがおもむろに話し始める。
「今日はご苦労だったな」
「お前もな」
「そう言えば、あの恋愛成就のお守りには、微量だが神妙な力が宿っているようだ」
「神妙な力ってなんだよ」
「あの神社で祀られている神の力だと思う。それによりお守りの所有者は、一種の魔術のような力を手にしているのだろう」
この世には俺の知らないことがたくさんあるんだな。
オリヴィアは続けて口を開く。
「山小屋でも少し話したが、今日はいろいろ助かった」
「いいよ、そんなのは」
いつも強気のオリヴィアが妙にしおらしく、もじもじと視線を逸した。
まるで別人だ。
雨をシャワーのように浴びたし、さすがのこいつでも風邪を引いてしまったのかも知れない。
何だか顔も赤いような気がする。
「熱でもあるのか?」
「熱などない。ただ、その……」
オリヴィアは一瞬言い淀んだ後、
「今朝のことなんだが」
「今朝? 俺がお前に叩き起こされたことか?」
「違う! 私がお前のことを……信用していないと言ったことだ」
言われてみれば、確かにそんなようなことを言われた覚え気がある。
オリヴィアはばつが悪そうに頭を下げ、
「すまなかった」
「そんなこと気にしてたのか? 案外繊細なんだな」
「うるさい! こういうのはちゃんとしたい性分なんだ」
早口で言い、それから黙ってしまうオリヴィア。
「気にしてないよ。昼間言った通りだ。オリヴィアはリズのために、護衛として然るべき態度を取っているだけだって分かってるから」
ずっと口を閉ざしていたオリヴィアが、やがて、
「お前ならリズ様のこと、何とかしてくれるかも知れないな」
「今日一番の功労者にそう言われると、恐縮するよ」
「私への嫌味のつもりか?」
口を尖らせるオリヴィアに、
「違うよ、そのままの意味だ。強い強いとは思っていたけど、あんなでかい熊と渡り合うなんてびっくりしたぜ」
「あれくらいは当然だ」
「特に崖から転がってきた大岩を、真二つにしたのは凄かったな」
オリヴィアの顔の赤みがさらに増した。
「からかってるんだろう!」
「は? なんで?」
単純に褒めてるのに、オリヴィアは何故か怒り心頭だ。
「本当に分からないのか?」
俺が頷くと、言いづらそうにしてから、唇を動かし始める。
「あれはだな……、私の体内でエストロゲンが放出されたことにより、一時的に魔力が増幅したのだ」
エストロゲン……聞き覚えがあるな。
どこで聞いたんだっけ。
――女性ホルモンや発情ホルモンと言われ、私たちの力は、このエストロゲンに大きく依存します。
エストロゲンが多く分泌されれば、魔力は級数的に上昇します。
――ドキドキすると強くなるということです。
そうだ、この間のリズと同じ現象か。
ん? ということは、つまりオリヴィアは――。
オリヴィアに視線を向けると、バチっと目が合った。
サキュバスにはエストロゲンが分泌されると、魔力が上昇する特性がある。
つまりオリヴィアは、俺にドキドキしたってことだ。
「えっと、男冥利に尽きるよ」
俺の一言で、オリヴィアの顔がとうとう林檎と同じくらい真っ赤になり、
「バカッ!」
と大声で叫んで、逃げていってしまった。
しかも、俺が追えないように、室内からベランダの鍵をかけやがった。
「おい、中から鍵閉めるな! 開けてくれ!」
俺の声がオリヴィアに届かないまま、見事に締め出されてしまった。
俺はオリヴィアの後姿を見送り、深い溜め息を吐いた。
少し前から、鼓動が速くなっているのを感じる。
いつの間にか、眠気は綺麗に消え去っていた。
この章のラブコメとしてのオチ。
ツンデレには様式美すら感じる。




