番外編 サメ殺人事件
「月乃!」
大学の門を出てすぐ、名前を呼ぶ声が聞こえて月乃は顔を上げた。
キョロキョロと辺りを見渡して声の主を探していると、小さなクラクションが鳴る。
門から少し離れた薄っすら雪の積もった並木道に、見慣れた車が停まっているのを見つけた。窓から顔を出して手を振っているのは薫だった。
「薫さん!」
驚いて、一緒に歩いていた友達を置いて駆け寄る。
「どうしたんですか?」
「携帯見てないのか?」
「あ……多分持ってきてるとは、思うんですけど。多分」
薫は呆れた顔で月乃を見る。
「どうりで返事がないと思った」
「ごめんなさい。何か急ぎの用事ですか?」
わざわざこんなところまで来たのだ。何かあったのかと心配げに尋ねたが、薫はケロリと言った。
「別に。今日は午前中で授業が終わるって言ってたから、付いてこないかと思って」
そう言って彼は後部座席に視線をやる。そこには大きなカメラの入った鞄が置いてあって、月乃はああと納得した。
「何か用事があるのならいいよ」
「いえ、ないです。付いていきます」
「そう」と笑った薫から、背後にいる友人に視線をやる。友人は口をぽかんと開けて薫を見ていた。
「市瀬先輩だ!」
「あっ」
薫も友人を指差した。
「東野だっけ?」
「おしいな!」
「北野?」
「遠ざかった!」
「西野」
「先輩、わざとしてるでしょ」
「南野か」
笑い合うふたりを交互に見る。どうやら知り合いらしかった。そんな月乃の肩を、友人がバシバシと叩いた。
「高校の先輩! 同じ部活だったの! そっか、イケメンの薫さんなんてこの人しかいないわ! 月乃が優しい人だなんて言うから、先輩の事だなんて露ほども思いませんでしたよ!」
「お前相変わらず騒音レベルでうるさいな」
「先輩こそ相変わらず意地悪ですね! 月乃に悪口吹き込みますよ!」
「やめろ」
薫が月乃の腕を掴んで友人から引き離す。
「月乃、乗れ」
「あ、はい。ごめんね、一緒に帰れない」
「いいのよ! 気にしないで」
にっこり笑った友人にホッと笑顔を向けて、車の反対側へ回り込んで助手席に乗った。薫と友人はまだ何やら言い合っている。
「それにしても、ようやく見つかったんですねぇ」
「何が」
「運命の人」
目に見えて薫の体がピクリと反応した。
「運命の人……?」
月乃の言葉に、友人が車の窓枠に肘を付く。
「この人こんな顔だから毎日毎日取っ替え引っ替え女から告白されてて、それをぜーんぶ断ってたんだけど。その断り文句が『運命の人を探してる』だったんですよねぇ、先輩!」
「南野」
「わっ! 先輩が怒った!」
友人が笑いながら薫から遠ざかる。
「それじゃあそろそろ邪魔者は消えますよ! 行ってらっしゃい!」
薫が無言で窓を閉めるので、月乃は慌てて運転席の方へ身を乗り出して手を振った。
「また明日ね!」
「またね!」
薫が前を向く。車が発進して、あっという間に友人は見えなくなった。
彼の横顔を見る。機嫌が悪いような気がする。でも、気になる。運命の人が。
「運命の人って何ですか?」
薫は月乃を見ずに、その顔をしかめた。初めて見る顔にやっぱり聞くんじゃなかったと後悔する。
「あいつ、余計なこと言いやがって」
「ごめんなさい」
「……別にお前に怒ってない」
じっとその横顔を見つめる。目だけでちらりと月乃を見て、薫はすぐに視線をフロントガラスに戻した。
「運命の人だなんて、薫さん意外とロマンチストですね」
「……違う」
あまりこの話はしたくなさそうだった。
気にはなるが、言いたくないのに無理やり聞き出すことなんてできない。話を逸らすために別の話題を振る。
「何の部活だったんですか?」
「……陸上部」
「短距離っぽい」
「当たり」
薫も話をぶり返すことはなかった。
薫と出会って三ヶ月と少し。こうやってふたりで会って、出かけることが増えた。
周りが言うにはそれはもう付き合っている以外何でもない、らしいが、特に何か言われたわけでもない。手を繋いだことすらない。ただ少し胸をガン見されるくらいだ。
ペット可のマンションに引っ越した薫の部屋にタマを見に行ったこともあったが、その時すら何もなかった。クリスマスにご飯を作りに行った時も、薫の誕生日にケーキを作りに行った時も何もなかった。念のため可愛い下着をつけて行ったにも関わらずだ。
ただ、彼のそばにいるのはとても居心地がいい。趣味が合う。話が合う。いつまでも話していられそうで、帰るときは今生の別れかと思うほど辛い。
恐らく、彼のことが好き、なんだろう。
心地のいい曖昧な関係を続けるべきか、それとも当たって砕けるべきか。いや、砕けないかもしれない。砕けるかもしれない。いやでも。
「月乃」
その声にハッと顔を上げた。薫は月乃を見ていて、すぐに視線を前方へ戻す。
「もうすぐ着くぞ」
車の窓の外を見る。そこにはいつの間にか大きな海が広がっていた。
「寝てた?」
「いえ。お昼ごはんのことを考えてました」
「そうか」
運転してもらっているのに、つい物思いにふけってしまった。悪いことをした。
ちょうど駐車場が見えて、月乃は声を上げる。
「駐車場、そこですよ」
「……一台も停まってないな」
さすがにこんなに寒い時期に、わざわざ観光地でもない海に来る人はいないようだ。
車を停めて、寒い寒いと言いながら海を目指す。
もう帰りたいくらいの勢いだったが、砂浜が見えて潮の香りがし始めると、途端にテンションが上がった。
歓声を上げながら走り出す。後ろから薫の「こら、転ぶなよ!」という呆れた声が聞こえた。
波打ち際まで走って立ち止まる。波はとても冷たそうだ。
「そのまま海に飛び込むかと思った」
「そこまで馬鹿じゃないです。私のことを何だと思ってるんですか」
「食い意地の張ってる女」
「今、食い意地は関係ないですよね」
後ろを振り向いて、ようやく追いついた薫をじっとりと睨み付けた。
薫が首からぶら下げていたカメラを構える。思わず笑顔になってピースをする月乃にシャッターを切って、薫は笑った。上手く誤魔化されてしまった。
砂を蹴りながら、波打ち際を並んで歩く。
「あれしましょうか。私を捕まえてご覧なさーいってやつ」
「短距離走で県大会優勝した俺にそんな勝負を仕掛けてくるなんて、お前も命知らずだな」
「すみませんでした」
きれいな形の貝殻を拾って砂を払って、薫に駆け寄る。
「ここでまた人を殺すんですか?」
「おい、誰かが聞いてたらどうするんだ」
わざとらしく辺りを見渡してみせる。そして小声で言った。
「誰も聞いてませんよ」
薫の職業は作家だ。ミステリーを書くことが多いらしい。
今回も、取材という名目でこの真冬の寒い海に来ていた。
薫は何枚も風景の写真を撮ったり、時折メモを取ったりする。もうこの海岸でどんな事件が起きるのか、彼の頭の中には思い浮かんでいるんだろうか。
「何人殺すんですか?」
「そうだな、何人がいい?」
「三十人くらい?」
「どんな凶悪事件だよ」
ピンク色のきれいな貝殻を見つけて拾い上げる。
「こう、サメがガーッときて」
「それはミステリーじゃない」
「サメに食べられたと見せかけた殺人事件」
「ありきたり過ぎ。速攻で没だな」
「サメが……うーん、サメが……」
「サメから離れろよ」
薫の作品を読んだ影響でどっぷりとミステリーにハマってしまっているが、月乃には才能はないらしい。
「サメって新鮮だとすごく美味しいんですよ」
「そうか」
薫がカメラを下ろした。月乃もいくつかきれいな貝殻を拾って満足した。
耳と鼻が痛い。きっと真っ赤になっているだろう。
「そろそろ帰りましょうか。お腹が空いてきました」
こんな寒空の下でも顔色ひとつ変えない完璧な男にそう言う。
昼は近くの店で海鮮丼を食べる約束をしていた。有名なパン屋にも連れて行ってくれるらしい。
「そうだな」
ふたりで回れ右をして車を目指す。いつの間にか遠くへ来てしまったようだ。
波打ち際ギリギリを歩いていると、月乃はふいに来た大きな波に思わずよろめいた。薫の腕が素早く伸びて支えてくれたお陰で、冷たい冬の海に尻餅をつかずに済む。
「馬鹿、気を付けろ。濡れたら車に乗せないぞ」
そんなことを言って、実際に濡れたらものすごく心配してくれるくせにと、月乃は笑う。
「すみません、気を付けます」
薫は初めて会った時にかぶっていた猫を、あっという間に取り去った。いつのまにか「君」は「お前」に、「月乃ちゃん」は「月乃」に。
しかし優しさは変わらない。少し不器用だけれど。
これが彼の素なんだろう。それを見せてくれるのが、たまらなく嬉しい。
薫から離れようとすると手を取られる。ぎゅっと握り締めて、彼は前を向いたままぶっきらぼうに言った。
「危なっかしいから」
その耳が、ほんのり赤い。
イケメンのくせに、手を繋ぐくらいで照れるだなんて。
「……ありがとうございます」
彼がこちらを振り向かないのが救いだった。月乃の顔はそれ以上に赤くなっているはずだ。
どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。手を繋いで海辺を歩くなんて、まるで恋人同士みたいだ。運命の人は一体どうしたんだ。
「……さっきの話の続きをしてもいいか?」
彼の顔を見上げる。何の話か検討はついたが、念のため聞いてみる。
「さっきの話?」
「俺の運命の人の話」
そう言って振り返るので、月乃は小さく頷いてじっとその目を見た。
その話は月乃にとって、良い話なのか悪い話なのか。
「引くなよ」
「引きません」
「……重い男だと思うかも」
「思いません」
珍しく歯切れの悪い薫に、茶化す気はないことを伝えるために真面目に返事をする。
彼はまた前を向いてゆっくりと歩きながら、ぽつりぽつりと語りだした。
「物心ついた頃から、繰り返し見る夢があったんだ」
風が耳元でびゅうびゅううるさいが、薫の声はよく通る。
「いつも同じ女の子が出てきた。ただ、すぐ近くにいるのに、どうしても顔ははっきり見えないんだ。黒髪だってことしか分からない。俺はなぜかその子の名前を知っていて、夢の中で呼びかけるんだ。その子は笑って返事をして、夢はいつもそこで途切れる」
その子の名前を彼は言わない。月乃は耳を傾け続ける。
「もしかしたら小さい頃に会ったことがあるのかもしれない。もしかしたら何か不思議な縁があるのかもしれない。例えば、前世か何かで、家族だったとか恋人だったとか。俺はその子に会いたくて仕方がなかった」
薫の足が止まった。
「実在するかも分からない、顔も知らない女の子を、いつの間にか好きになってた」
ぎゅっと心臓の辺りが痛んだ。その子が、薫の運命の人なのだろう。耐えられずに聞いた。
「その子の名前は何ていうんですか?」
聞いた後、祈るように彼を見つめる。
こうやって優しくしてくれて、ふたりで何度も会って、手を繋いで、それなのにその口から知らない女の子の名前が出てきたら、立ち直ることはできるのだろうか。
薫は振り返って真っ直ぐに月乃を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「つきの」
囁くような小さな声が、潮風に乗って確かに月乃の耳に届いた。月乃の手を握り締める力が強くなる。まるで逃がすものかと言っているようだ。
「お前と初めて会った時、見たことがあると感じた。名前を聞いて、夢の中の女の子だと確信した」
腕を引かれて、一歩彼に近付く。視線が絡んだまま外せない。
「お前が俺に会ったことがあるような気がすると言った時に、ああ、お前も俺を知っているんだと……嬉しくてたまらなかった」
薫はあの時と同じように、笑ったような泣きそうな顔で微笑んだ。
前世なんてそんな非現実的なものあるわけがない。そう思っていた。
それなのに、薫は月乃の名前を知っていた。彼が嘘を付いている? そんなはずはない。三ヶ月と少し一緒にいて、こんな嘘を付くような男じゃないと知っている。
そして月乃も、初めて薫の名前を聞いた時確かに胸に懐かしいものを感じた。彼のことを知っている。そう、知っていたんだ。
薫は月乃から手を離して顔を逸らした。
「ごめん。自分で言ってても気味が悪いな。お前に言うつもりはなかったんだ。それなのに、南野が。でも、信じてくれ。嘘なんかじゃ」
早口に言う彼の胸にしがみついた。
「気味悪いだなんて思ってません。嘘だとも思ってません」
ポロポロと涙が落ちる。それがどうしてなのかは分からない。
顔を上げられない月乃の前髪に触れて、頬に触れて、顎に触れて顔を持ち上げて、薫は不安を顔に浮かべながら、それでも真っ直ぐに言った。
「月乃、お前が好きだ」
ああ。
ああ、ずっと待っていた言葉だ。自分だって言い出せなかったくせに、これを長い間待っていた。
「やっと、言ってくれましたね」
薫は不安の表情を困ったような笑いに変えて、月乃の頭を猫にするようにひと撫でした。
「待たせてごめん」
首を横に振る。
彼は勇気を出して全て言ってくれた。次は月乃の番だった。
「私も、薫さんが好きです」
「うん」
薫は頷いて、指で月乃の涙を拭う。
「好きだよ」
「はい」
「今度こそ、ずっと一緒にいよう」
「はい、今度こそ」
「あと百年くらい」
月乃は思わず笑う。
「頑張って生きます」
「俺も」
笑う月乃の風に乱れる髪を、薫は手で撫で付ける。ふいに彼が真面目な顔をして月乃の頬に触れた。
何をしようとしているのかすぐに悟る。
近付いてきた薫の顔を、月乃はすんでのところで手のひらで止めた。
手首を掴んで手のひらを剥がして、薫は唇を尖らせる。
「何で?」
「そ、外では嫌です」
必死に彼の手を振りほどこうとするが、力では敵わない。薫はわざとらしい動作で辺りを見渡して、月乃の腕を引き寄せた。
「誰も見てない」
さっきの仕返しか。確かに周りには人っ子ひとりいない。しかしそういう問題でもない。
首をすくめている月乃にため息をついてから、薫は腕を離した。
「車の中ならいい?」
どうやってもしたいらしい。悩みに悩んで、月乃は頷いた。
「外が暗かったら……」
「よし、だったら今日は遅くまで連れ回してやる」
月乃の手を握って、薫は車に向かって歩き出す。
「……薫さん、結構エロいですよね」
「エロくない」
「だってよく私の胸見てるし」
「…………」
「バレバレですよ」
「……見てない」
「揉みます?」
繋いでいる手がびくっと強張る。約十秒、たっぷり時間をかけてから、薫は首を横に振った。
「……それは、後日」
「薫さん、結構ヘタレですよね」
「うるさいな! 順番があるだろ! 順番が!」
「大切にしてくれるんですね」
チラリと振り返った薫に「嬉しい」と笑いかけた。
「当たり前だろ」
彼はそうぶっきらぼうに言って、また前を向いた。その背中に抱きつきたかったが、それも暗くなった車内ですることにしよう。
「……近くに水族館があったはずだから、飯を食ったらサメでも見に行くか」
「はい、行きたいです」
ふたり手を繋いで、黙々と砂浜を歩く。
こんなにも寒いのに体はポカポカと熱くて、このまま砂浜に溶けてしまいそうだ。夏じゃなくてよかった。夏なら確実に溶けている。
「あー、溶けそう」
薫の言葉に思わずぶふっと吹き出す。
お互い汗ばんだ手を、溶けないよう離れないよう、ぎゅっと握り合った。