第96話『魔王の返書と境の門』
昼下がりの教室に、窓の光が四角く落ちていた。
板書の白は昨日より少しだけ滑らかで、カイの新しい「理手」は黒板消しを二度も落とさずに掴みきった。
掌の円面が淡く明滅し、指はぎこちないながらも確かに命令に応じている。
「握力は……梅干し一個ぶんくらいやな」
カイが笑う。
「将来的にタコ焼き鉄板は持てるようにしよ」
「基準が食べ物」
ルーティアが呆れ、しかし目は優しかった。
リリシアは安定化の風を薄く回しながら、その指先にそっと視線を落とす。
(戻れ。
もっと、戻れ)
◆◇◆
その時だった。
窓枠に、光の羽音がふっと降りた。
魔伝書鳩。
リリシアの胸が跳ねる。
昨日送った相談への返事――。
彼女は震える指で羊皮紙を受け取り、封蝋を割った。
墨の黒は、厳しくも温かい筆致で並んでいる。
『娘よ。まず、お前が無事であることに感謝する。教師という者の左手を守れなかったとお前は書くが、私は“守った”と読む。命は帰ってきた。それは事実だ』
最初の一行で、喉の奥が熱くなった。
読み進める。
『お前が用いた“リバイア―”は、こちらの理で編まれた術だ。
人の国では底流が違う。
戻りたがる力に、地の歌が響かぬ。
ゆえに限界が来るのは当然。
恥じるな』
視界がふわりと滲む。
ルーティアがそっと肩に手を置いた。
『お前は教師を魔界へ連れ、治すことを望んでいる。
それは可能だ。
ただし、門を大きく開くことはできぬ。
反逆者どもは今、我らが扉の音を待ち構えている。
大門は彼らの合図になる』
リリシアはごくりと唾を飲んだ。
(やはり……)
『代わりに“境の門”を使え。
人と魔の理が薄く交わる、古い小聖堂が幾つかある。
新月の夜にだけ、ひと筋の細い路が開く。
そこならば私の手が届く。
だが、時間が経ちすぎてる故、数回儀式が必要であろう。
次の新月より、同じ時刻に行うとしよう。
ただし、条件がある』
彼女は身を乗り出す。
カイも読む速度に合わせるように、ゆっくりと近づく。
『一つ。
同行者は最小。
教師と、お前と、剣の娘、そして護衛ひとりまで。
二つ。
お前は二度と禁呪を無闇に使うな。
“戻し”は代償を喰う。
お前の歌が削れる』
文字の上に、父の声音が落ちる気がした。
『三つ。
人の国を荒らすな。
教師の望むやり方で動け。
彼は理で戦う者だ。
私はそれを尊ぶ』
最後に墨はひときわ濃く結ばれていた。
『娘よ。
帰る時は、堂々と顔を上げて来い。
それまで、よく学べ』
手紙を読み終えると同時に、胸の中央に張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。
リリシアは目元を拭い、静かに微笑む。
「……行ける。
境の門でなら」
「条件つき、か」
カイは苦笑し、理手の手首を軽く回した。
「最小人数やと。
ルーティアは外せんし、護衛は……」
ルーティアが即答する。
「護衛はゴルムが適任ですわ。通行止め要員として」
扉の向こうで「……通行許可」と親指が立った気がした。
◆◇◆
午後の実習は「理手の誤差丸め」へ移行した。
掌の円面に流束の式を追加し、指の遅延を減らす。
双子がバネを詰め、ツェイルが影糸で配索を調え、カサが等角投影で負荷を見える化し、メリルが紅茶ユニットをしつこく推し、ルーティアが「紅茶は最後」と一刀両断した。
リリシアは風の輪を一層細くし、カイの呼気に合わせて回転数を調整する。
過剰に触れないように。
でも、必要な時は迷わず支えるように。
(距離は、私が決めるんじゃない。
“必要”が決める)
休み時間。
廊下の柱の陰で、ルーティアとリリシアが短く言葉を交わした。
「境の門、行きますのね」
「ええ。
新月の夜に」
「危険は承知ですわ」
「私も」
互いの目は真っ直ぐだった。
嫉妬の棘は、完全には消えない。
それでも、その棘で相手を刺すより、外から伸びる刃を折る方が先だ。
二人とも、もう知っている。
◆◇◆
夕刻。
塔の影が長く伸び、校庭に薄い藍が落ち始めた。
カイは黒板に「境の門」と書き、下に小さく三つの条件を並べた。
「新月は三日後や。
準備はそれまでに。
行き先の小聖堂は――」
「場所の候補、三つ」
リリシアが指で空に光の図を描く。
山の祠。
湖のほとり。
古い街道の脇。
「父の言い回しからすると、湖が第一候補」
「水のレイラインか。
ほな、浮力の式も持ってくか」
「浮輪じゃありませんわよ、旦那様」
「いや、浮き輪は大事や」
「大事……?」
真顔で返され、リリシアが耐えきれず吹き出した。
空気が少し柔らかくなったその時。
遠くから、鐘の音が連続して鳴った。
警鐘。
教室の笑いが凍る。
窓の向こう、街の西の方角に薄い煙が昇っていた。
一本、二本、やがて三本。
黒が空を汚す。
「……火」
ルーティアの声が低くなる。
カイは理手の拳をぎゅっと握った。
「向こうやな」
教室に緊張が走る。
ツェイルはもう影に溶け、カサは幻膜の準備を始め、双子は剣を抜き、メリルは“むずむず粉”と“消火瓶”を抱え、ゴルムは扉の前で体を回した。
「通行開放」
リリシアは父の手紙を胸に押し当てた。
境の門は三日後。
だが、敵は待ってはくれない。
彼らは街を揺らし、民を泣かせ、守りを薄くしようとしている。
(来た)
カイが振り返り、いつもの調子で言った。
「クロス組。
今日の臨時課題は“火の角を撫でて面に流せ”や」
「はい、先生!」
声が重なり、一斉に駆け出す。
理手の指が、走りながら黒板消しの代わりに小さな板を掴んだ。
そこにカイは、走り書きでひとつ、式を載せた。
火の流れを割く、風の輪に繋ぐ、そして水の面で受ける。
角を丸め、面を立てる。
何度でも同じだ。
鐘の音はやまず、煙は濃くなる。
反逆者たちの「次の一手」が、ついに街を舐め始めていた。




