第67話『魔族の気紛れ』【魔族姫編⑦】
朝の鐘が三回、澄んだ音を落とした。
尖塔の影は短く、空気は乾いている。運動にちょうどいい日だ。
「ほな、朝の体術いくで。安全第一。無茶したら減点や。」
カイが笛を持ち、校庭の中央に立つ。
一年の面々は「はい、先生。」と声を揃えたが、その目は輝きすぎていた。
「準備運動。肩、腰、足首。ほら、反動つけすぎんように――」
言い終わる前に、一年のひとりが軽く跳んだ。
ぽん、と小石を踏むみたいな音で助走もなく、木の枝より高く。
「わ、わぁぁ!」
「見てください先生、鳥の気持ち!」
「鳥はそんな軌道で飛ばへん!」
別のひとりは鉄棒を握り、逆手から前宙を連続で。
回転の度に光が走り、観客のどよめきが波のように広がる。
「待て待て待て。見世物小屋ちゃうで。競うんやない、整えるんや。」
「はい、先生!」
返事だけはいい。
そのあとも「軽く」を「全力」に訳し間違える勢いで、片手倒立の列が出来上がり、梯子の上を縄抜けみたいに駆け抜ける者まで出てきた。
(体の使い方が、最初から完成しとる。……けど、本人らは“特別”扱いしとらん顔やな。)
カイはこめかみを押さえ、笛を鳴らした。
「集合。最後に一言。自分の力で周りのリズム壊したら、それは強さやなくて“暴れ”。強さは隣と歩幅を合わせられることや。ええな。」
「はい、先生。」
さっきより少し静かな響きで、返事が校庭に落ちた。
授業後。
砂を払って教室に戻ろうとすると、一年の二人が駆け寄ってくる。
「先生、今日の跳躍、どこがいけませんでしたか。」
「最初の一歩。床を“蹴る”んやなく“撫でる”。打点が強すぎると、周りに“衝撃”が漏れる。」
「撫でる……。」
「そ。次の回でやってみ。うまくいったらアメちゃん増量や。」
ぱっと花が咲くみたいな笑顔が広がる。
甘味の約束は、魔法より効く。
◆◇◆
午前の講義は、微分の基礎と「境界を丸くする」演習の復習。
板書が進む間、一年の手はよく動いた。
余白に小さな線を足し、式を撫でるように修正しながら、目だけは前を捉える。
(飲み込みが早すぎる。いや、ええこっちゃ。早いなら浅いかと言えば、そうでもない。底が見えへんのや。)
昼休み、廊下の向こうからいい匂いが来た。
「先生ー! 差し入れ!」
角を曲がって現れたのは、手押し車に小さな鍋とパン籠を載せた一年たち。
鍋の中は、澄んだスープに細かいハーブが泳いでいる。
「今日は成功しました!」
「味見しますか!」
「飲む前に、火加減の話をしよか。昨日は“湯気が虹色”やったからな。」
「反省しました!」
鼻をくすぐる香り。匙でひと口。舌にやさしく広がって、最後にふっと甘みが残る。
「……うまい。誰がレシピまとめたんや。」
「皆で試して、先生の“境界を丸める”式みたいに調整しました。」
「式でスープ作るのやめぇ。いや、ええわ。うまいから。」
笑いが弾む。二年の誰かが「さっきの“鳥”の人がスープも鳥みたいに軽い」と意味の分からない賛辞を送っている。
◆◇◆
午後は雑巾がけの時間だった。
廊下の端から端まで、布が一斉に走る。
一年はいやに楽しそうだ。
「先生、見てください。鏡みたい。」
「滑って転ばんようにな。」
言い終える前に、二年の男子がつるっと行きそうになり、両脇から一年が支えた。
支え方が自然で、衝撃を逃がす角度が完璧だ。
「……磨きすぎや。ほどほどにしぃ。床は舞台やけど、氷じゃない。」
「はい、先生。」
返事をしながら、彼らはさっと雑巾に新しい水を含ませ、力を撫でる程度に変える。
“加減”という言葉を、身体で急速に覚えていく。
◆◇◆
放課後。
門番から「商店街のおばちゃんが呼んどる」と伝令が入った。
用件を聞けば、「この子ら、値切りが上手すぎる」と笑い顔である。
屋台では一年が慣れた手つきで串をひっくり返しており、煙の向こうから手を振ってくる。
「先生! 少しだけ焼かせてもらいました!」
「スパイスは“全部”じゃなく“適量”やぞ。」
「学びました!」
一本受け取ってかじる。
表面は香ばしく、中心はしっとり。辛味の後ろから甘みが追いかけてくる。
「うま。……値切りはほどほどに。ほら、これは“学費”ちゃうで“お礼”な。」
小銭を預けると、屋台のおばちゃんが目尻を下げた。
「カイ先生はほんにええ男やねぇ。」
「値切りが本業やないと広めといてな。」
笑い合う横で、一年の数人が串をもったまま舞台のポスターを眺めている。
「今度はこれ観たいです!」
「悲恋や。泣きすぎて喉乾くで。」
「喉乾いたら先生のあめちゃんです!」
「在庫に限りがあるんや。」
それでも、懐の飴壺はまた少し軽くなる。
◆◇◆
夕暮れ前。
中庭で、二年と一年の混成で“軽い型合わせ”が始まった。
金物の音はしない。
互いの“面”を当て、角度で受け、流して返す。
ルーティアが気付いて歩み寄る。
「危ないことはしてないでしょうね。」
「してません、先輩。」
リリシアも来て、二人で並んで腕を組む。
「“面”の合わせ方、よくなりました。」
リリシアが静かに褒め、
「その調子なら、私とやっても“穴”を開けずに済むかも。」
ルーティアが笑いながら微妙に脅す。
「褒めとるんか嚇しとるんか、どっちかにせぇ。」
カイのツッコミに、周りが一斉に肩を揺らした。
型合わせを見守っていると、二年の一人が足をもつれさせた。
刹那、一年の三人がそれぞれ違う角度から肩・肘・腰を支え、力を“撫でて”地面に逃がす。
転ばない。土も跳ねない。
支えられた二年は目を丸くして、そして照れくさそうに礼を言った。
「助かった。上手いな……。」
「学びました。先生の“丸める”を。」
「丸める万能説やめぇ。」
笑いはもう、クラスの共通言語だった。
◆◇◆
日が傾いた頃、職員室に寄り道すると、学園長が窓辺に立っていた。
柘榴色の空が、眼鏡に小さく映る。
「カイ先生。賑やかやね。」
「ええ。賑やか以上ですね。……濃い。」
「濃いのは、退屈を遠ざける。」
「胃には負担です。」
「君の飴が守るよ。」
学園長は、いつものとぼけた笑いでごまかす。
目尻の皺は、今日も細く深い。
教員寮へ向かう途中。
背中に視線を感じて振り返ると、一年が数人、少し離れてついてきていた。
「なんや。尾行の練習か。」
「いえ、その……先生、帰り道で誰かに絡まれたりしないかと。」
「誰が絡むねん。」
「この前、路地で“すごい結界”を見たって噂が……。もし、また何かあったら。」
「心配性やな。ええ心がけやけど、寮までは大丈夫や。」
「でも、門まで。」
彼らは頑として引かず、結局、寮の前までついてきた。
門灯の下でぴたりと止まり、深く頭を下げる。
礼が、自然だった。誰に教わったわけでもない、胸の底から出る角度。
(素直や。強さに対しての素直さ。……やっぱり、あの“本能”の匂いがする。)
寮の扉に手をかける前に振り向き、カイはひとつだけ言葉を置いた。
「従うんは簡単や。でも、従うだけでは“学び”にならん。明日は、お前らの考えで式を一本、持ってこい。」
「はい、先生。」
返事の響きは、朝よりも落ち着いていた。
◆◇◆
夜。
食堂は今日も小さな宴会みたいだった。
劇場に行った組が涙目で名台詞を復唱し、料理班が新作のスパイス配分について熱弁し、体術組は床の磨き具合に“適度”を提案している。
リリシアは隅の卓で静かにノートを開き、ルーティアはその隣で「ここはこう」とペン先で示す。
ふたりの肩が、ときどき触れた。嫌がらない。
それを横目に見ながら、カイは斜め向かいの一年に紅茶を淹れてやる。
「砂糖は自分でな。」
「先生は?」
「常に三つ。」
「多い。」
「頭脳労働や。」
笑いがふわり、とテーブルの上で広がった。
自室に戻ると、机には朝の提出物が山になっていた。
一年の“自主課題”。
ペラ紙の端から端まで、補助線、補助線、補助線。
誰かが描いた式の余白に、別の誰かの注が書かれ、さらに別の誰かの丸がついている。
「勝手に採点してもうてるやん。……でも、ええ。」
赤を入れながら、カイは口の端を上げる。
飴をひとつ舐め、窓を開ける。
涼しい風が入って、粉の匂いと混じった。
(――気紛れに見えて、目がある。自由に見えて、筋がある。
その筋が“強い者に従う”で止まらんように、黒板で“自分の足”をつけさせな。)
下の中庭に目をやると、遅くまで残っていた一年が三つ、四つ、光の下で影を伸ばしていた。
走らず、跳ばず、ただ歩幅を合わせて歩く練習をしている。
歩く。
それだけの動作が、やけに美しい。
遠くで笑い声。
近くで虫の音。
尖塔の影が夜に溶け、星がにじむ。
明日の朝は、また笛から始めよう。
そして、黒板だ。
黒板は嘘をつかない。
嘘をつかない場に、子どもらの自由を座らせる。
それが、カイ・クロスの仕事だった。




