第66話『友情の種』【魔族姫編⑥】
昼の鐘が鳴り、教室の天井から吊るされた小さなランプの影が机の端にやわらかく落ちた。
窓の外では梢がさらさらと鳴り、秋の高い空から透ける光が斜めに差し込む。
黒板には午前の講義の名残がまだ白く残り、チョークの粉が陽に舞って細い粒の川を作っていた。
カイは教卓の横で腰をおろし、ジャケットの内ポケットを探ってあめちゃんをひとつ取り出した。
包み紙が小さく音を立ててほどけ、舌の上に丸い甘さがのる。
(この時間の糖分は至福やな。午後の眠気の予防接種みたいなもんや。)
教室の奥では二年の男子が弁当箱を並べ、窓際では女子たちがパン袋を開けてキャッキャと笑っている。
新入りの一年生たちも混じって、机をくっつけたり離したり、まるでパズルみたいに配置を試していた。
その賑やかさの中、ひとつだけすっと静かな気配が近づいてくる。
◆◇◆
「先生。」
紫紺の光が、ふいに間近で揺れた。
リリシアがノートを抱え、教卓の端にそっと立つ。
髪は昼光で銀に透き、肩に落ちる影の線がとても整っている。
「午前の講義の、ここをもう一度教えていただけますか。」
ノートを開く手の動きまで、無駄がない。
余白は数式と小さな図で埋め尽くされ、文字の線は一定のリズムで並んでいた。
「ええよ。」
カイは椅子を少し引き、リリシアのノート側に身を寄せた。
紙の匂いと、淡い香草の匂いが鼻腔の奥に触れる。
「ここは“揺らぎ”を見積もるとこや。傾きの取り方を一定にせんと、式が転びやすなる。」
指先でノートの端をトントンと叩き、黒板の方を顎で示す。
リリシアがカイの方へさらに身を寄せる。
距離が、近い。
まぶたの縁の細い影まで、はっきり見えるほどに。
(近いで。めっちゃ近いで。……せやけど目の色が綺麗やな。紫の底が深い。いや、感想は後や。授業や。)
「つまり、ここにこう補助線を入れると。」
カイはチョークをつまみ、黒板に短い一本を引いた。
白い線の上に午後の光がふっと浮かび、式の重心が一段低く落ちる。
「揺らぎが飲み込まれず、表面で散る。結果、安定する。」
「わかります。」
リリシアが息を小さく吸い、頬に灯りの反射が弾んだ。
「この“納まり”が、好きです。式が安心している気がします。」
そこで。
◆◇◆
「ちょっと。」
椅子の脚が床を擦る音とともに、蒼い影がすっと差し込んだ。
ルーティアが、教卓とリリシアの間に当たり前みたいな顔で入ってくる。
紅いリボンが小さく跳ね、腰のラインがきゅっと引き締まる。
「そこ、私の席よ。」
「席……ですか。」
リリシアが目を丸くする。
「ええ、席。」
ルーティアは微塵も迷わず頷いた。
「カイの隣は、私の席。」
「教卓に指定席という概念があると、今知りました。」
「概念は作るものよ。」
「理論武装やめぇ。」
カイが反射的にツッコミ、教室のあちこちから笑いがこぼれる。
「先生の隣で学びたいだけです。」
リリシアは落ち着いた声で続けた。
「近くで式の呼吸を感じるのは、とても勉強になりますから。」
「それはわかるけど。」
ルーティアは一歩も引かない。
「でも“近い”にも限度があるの。」
「限度はどれくらいでしょう。」
「私の心がざわつかない距離。」
「それは、かなり難しいですね。」
「難題ほど燃えるのよ。」
二人の視線がぴたりと絡む。
蒼と紫紺が糸を張り、空気の表面張力が上がる。
(あー、これは、ほんまに水面が張るやつや。やばい、コップ縁まで注いどる状態や。)
「……ふふ。」
先に笑ったのはリリシアだった。
最初は喉の奥で小さく。次に肩で。最後は唇の端まで。
息がほどけるように笑う。
「な、なにがおかしいの。」
ルーティアの眉がきゅっと寄る。
「あなたが、本気だから。」
リリシアは目を細めた。
「そこが面白くて、好きです。」
「好きって、軽々しく。……私は本気よ。」
「知っています。」
短い言葉に、ひとかけらの敬意が混ざる。
ルーティアは口をぎゅっと結び、ふっと視線を逸らした。
頬にほんのり朱が差して、耳の先も温度を帯びる。
「……嫌いになれないのが、癪に障るわ。」
「私もです。敵に回すには惜しい。」
「勝手に味方にするのも困る。」
「では、隣でどうでしょう。」
「並走なら許す。」
ふたりは、同時に息を吐き、小さく笑った。
張りつめていた水面が、音もなく落ち着きを取り戻す。
「おーい、授業ちゃうけど“和解までの手順”はきれいに踏めたな。」
カイが手を叩く。
「ほな、飯や。昼は糖分と塩分の両方が大事や。」
◆◇◆
そこへ、どこから湧いたのか一年の数人が手押し車を押して現れた。
上には小さなパン籠とスープの鍋。
「先生。昼の差し入れです。」
「調理実習の余りを活用しました。」
「お前ら、いつの間にそんなケータリング部門を。」
「先生がよく食べると午後のご機嫌がいいので。」
「分析やめぇ。合ってるけど。」
パンをちぎり、スープを紙杯に注ぐ。
湯気が細い糸になって立ち上り、鼻の奥をくすぐる香草の匂いが秋の乾いた空気に混ざる。
「先生、あめちゃんは食後に。」
「よく心得とる。」
カイは笑って、机の引き出しに飴の包みを滑らせた。
ふと、視線を感じる。
見ると、一年の一人がこちらをまっすぐ見ていた。
さっきまで自由そのものの表情だった顔に、ほんの少しだけ“従う”色がさす。
リリシアの護衛とされる彼らは、護衛の自覚が薄い。
それでも、強さを見たあとの目は自然と落ち着く。
(強いもんには、よう従う。理屈やなく、呼吸みたいにな。)
(せやけど、それに甘えたらあかん。ワイは教師や。従わせるより、並んで前を向かせるのが仕事や。)
「先生。」
リリシアがカップを両手で包み、声を落とす。
「午前の式、もう一問だけ。よろしいですか。」
「ええよ。」
ルーティアがすかさず割って入る。
「私も聞く。」
「はいはい。じゃあ二人とも前。」
黒板の前に並ぶ二つの影。
蒼と紫紺が、白い粉の舞う前で肩を並べる。
「問い。ばらつきが大きいとき、境界をどうやって“丸く”する。」
「補助線を増やす。」
ルーティアが即答する。
「線の意味は。」
「逃がす道。」
「逃げ道を作るの、好きですね。」
リリシアが口の端を上げる。
「攻めるほど、逃がす道を準備する。古い剣の教えよ。」
「式も同じか。」
「同じ。」
ルーティアの答えに、リリシアが目を細めて頷く。
カイはチョークをくるりと回し、黒板に小さな円を描いた。
「正解。――境界を丸めると、衝突が減る。ぶつかるんやなく、撫でていく。」
「だから、歌う。」
リリシアがぽつりと言う。
「お、覚えとるな。」
「好きなので。」
その“好き”は、数式に向いていた。
けれど、どこかで“先生”にも向いていた。
ルーティアが横目でちらりと見て、唇だけで笑う。
「横取りは許さない。」
「横取りはしません。」
返す声の温度は落ち着いている。
でも、その落ち着きの芯に、揺らがない熱がある。
◆◇◆
教室の後ろで拍手が起こった。
二年の誰かが「はい今日も漫才ありがとうございました」とふざけ、
一年の誰かが「漫才って何点から単位が出ますか」と真顔で尋ねる。
「単位出ぇへんわ。」
「えー。」
「えー、ちゃう。」
笑いが広がり、昼の空気がやわらかく揺れる。
昼食がひと段落すると、教室はそれぞれの静けさを取り戻した。
前の方でリリシアがノートの余白にまた補助線を描き、
斜め後ろではルーティアが剣の手入れをするみたいな手つきでペン先を整える。
窓の外で雲がひとつ流れ、黒板の影が机の上で形を変えた。
カイは背もたれに身体を預け、天井の梁を見上げて小さく息を吐いた。
(よし。火と風、どっちも機嫌よう回っとる。今はそれで十分や。
正体とか大仰な言葉は、今は要らん。黒板の前で学ぶ顔があれば、それでええ。)
引き出しからあめちゃんを二つ取り出す。
一つをルーティアに、一つをリリシアに。
「糖分な。午後も走るで。」
「ありがとう、カイ。」
「ありがとうございます、先生。」
二つの声が重なり、音の質は違うのに、なぜか響きはよく合った。
◆◇◆
午後の鐘が鳴る。
窓辺の光が少しだけ角度を変え、黒板の粉塵が新しい川筋を描く。
カイは椅子から立ち上がり、白い粉で汚れた手のひらを軽く叩いた。
「ほな、続きや。――“境界を丸くする”練習問題、十本勝負。」
「十……!」
「文句言わん。終わったらアメちゃん増量や。」
「やる!」
「やります。」
机の上でペンが一斉に走り、紙の上で数式が芽吹いていく。
その真ん中で、蒼と紫紺が交わる場所に、たしかな“友情の種”が埋まった気がした。
それは土をかぶり、今はまだ芽も出さない。
けれど、程よい水と光がある場所に置かれた種は、いつか必ず芽吹く。
教室という小さな畑には、そんな種がいくつも眠っている。
カイはそれを知っている。
だからこそ、今日も黒板に線を引く。
種にそっと、光の向きを示すために。




