第32話『目覚めれば膝枕』【カイとルーティアの夏休み編①】
――ふわりと漂う甘い香りに、ぼんやりと意識が浮かび上がった。
重い瞼を開けると、そこには真紅のリボン。
視界いっぱいに広がる、絹のような金髪。
そして――頬を優しく撫でる白く柔らかな感触。
「……なんやこれ……」
声を漏らした瞬間、頭の下で微かに揺れる温もり。
目を動かせば、真っ白な太腿。
――つまり膝枕。
「なっ……!!」
思わず飛び起きようとするが、後頭部をそっと押さえられた。
「ふふ……おはようございます、旦那様」
甘ったるい声音に、心臓が跳ねる。
目の前でご満悦な笑みを浮かべているのは、もちろんルーティアだった。
「お、お嬢!? なんでワイ、こんなとこで……!?」
「“お嬢”じゃありません。“奥様”です」
「勝手に昇格さすな!」
◆◇◆
慌てて周囲を見回せば、そこは豪奢な馬車の中。
内装は赤いビロード張り、窓からは見慣れぬ田園風景が流れていく。
馬車の揺れが心地よく頭を揺らすたび、太腿の柔らかさも一緒に弾んでくる。
「……なぁルーティア。ワイ、学園の寮で寝とったはずやねんけど」
「ええ、ぐっすり眠ってらっしゃいましたわ」
「いや寝た覚えはあるけどな……なんで気ぃついたら馬車の中で膝枕されとんねん!」
「それは――旦那様が、うちの屋敷で夏休みを過ごすため、ですわ」
「誰がそんなこと決めた!?」
「私が」
「独裁者か!」
怒鳴るカイに、ルーティアはさらに上機嫌で髪を撫でてきた。
なめらかな指先が後頭部を這い、耳の後ろをくすぐる。
「ちょ、ちょっとやめぇ! くすぐった……」
「だって、こうしてると本当に“私のもの”って感じがして幸せなんですもの」
頬を染めながら見下ろしてくるその表情に、心臓がまた跳ねた。
(あかん……この角度、破壊力高すぎや……!)
「……さては、お嬢。昨夜のワインに何か盛ったやろ!」
カイが指差すと、ルーティアは小首をかしげ、にっこり。
「ええ、少々。いくらあなたでも、眠り薬は効くようね」
「堂々と認めんなや!」
「結果的にこうして膝枕して差し上げられるんですから、感謝していただかないと」
「感謝できるかーー!」
車輪の音に混じって、馬車の外から御者のくぐもった笑い声が聞こえた気がした。
「あと数時間もすれば、公爵家の屋敷に到着しますわ。旦那様」
「せめて“先生”でええやろ!」
「いいえ。ここから夏休みの間は、あなたは“私の旦那様”。逃げられませんわよ」
にっこりと笑いながら宣告され、カイは絶望的に天を仰ぐ。
「……地獄の夏休みが始まる予感しかしない」
「いいえ、天国ですわ」
「人によっては天獄やろな」
ふと、ルーティアがじっと見下ろしてきた。
蒼い瞳が、真剣に揺れる。
「……こうしていると、なんだか夢みたいです」
「夢?」
「ええ。いつもはカイの隣に座っているだけで精一杯。でも今は、こうして膝の上に……」
言いながら顔を近づけ、吐息が頬を撫でる。
柔らかな唇がほんの少し触れる距離まで迫ってきた。
「ちょ、ちょっと待てお嬢……! この体勢は反則や!」
「反則も勝利のうちですわ」
――ぐらり、と馬車が揺れた。
不意の衝撃で、カイの額とルーティアの額がぶつかる。
「いったぁ!」
「きゃっ……!」
二人は同時に頭を押さえて呻いた。
数秒後。
気まずい沈黙の後、ルーティアはクスクスと笑い出した。
「……ふふ。カイ、顔が真っ赤ですわ」
「お嬢もやろ!」
「いいえ。私は旦那様に触れられて幸せなだけです」
「幸せそうな顔で頭押さえるんやめぇ!」
それでも、馬車の中の空気はどこか柔らかく、甘い香りで満ちていた。
揺れるたびに頬を掠めるルーティアの髪。
すっかり諦めたカイは、深いため息を吐いた。
「……しゃあない。夏休みの間、世話になるわ」
「ええ、心ゆくまで存分に甘えてくださいませ、旦那様」
ご満悦の笑みと共に、ルーティアは再び頭を撫でてきた。
(……なんや、悪くないかもしれんなぁ)
揺れる馬車の中、カイは抗いながらも、次第に心地よい眠気に沈んでいった。




