第122話『壊れた羽の記憶』【魔王城での決戦編⑥】
風が止まった。
リリシアの大きな翼は消え、小さな肩がカイの腕の中にあった。
黒く爪を立てていた手は、今や華奢で、指先には魔力の棘ひとつない。
彼女はただ、カイに抱きしめられながら、小さく震えていた。
(……ここ、は……?)
意識の深層に落ちる。
そこは暗い海の底のような場所で、何もない空間に彼女はただ一人立っていた。
誰の気配もない。けれど、どこかで、あの“声”が蠢いている。
何かを囁き、溶かし、取り込もうとする。
ずっと彼女の奥底で、叫びも言葉も“形”も、奪っていこうとする存在。
(私は……誰?)
問いが浮かびかけたとき――
ふと、柔らかな風が、彼女の頬を撫でた。
懐かしい風だった。
学園の中庭、教室の窓辺、湖畔の草の匂い。
そして――
「――リリシア」
カイの声が、心の中に届いた。
(……ああ、そっか)
(わたし……リリシア。
“カイ先生”の生徒で……)
(……いつの間にか、守られてばかりになってた)
記憶の破片が集まってくる。
学園での朝の挨拶。
紅茶を一緒に飲んだ午後。
数式の書かれた黒板の前で、あの人が笑っていた時間。
(……そして、私が)
(“この姿”で、生きたいと願ったのは――)
その瞬間、胸の奥から光があふれた。
リリシアの“自我”が、自分自身を思い出し、形作っていく。
風が巻き上がる。
闇の海が砕けて、光が空間を裂いた。
「おのれ……おのれええぇぇ……!」
“声”が叫んだ。
「ここは……私の器……!
私のための……力の源……!」
「違う……!」
リリシアの声が空間に響いた。
「これは、わたしの“身体”!
わたしの“風”!
わたしの……“名前”!」
光が眩く爆ぜる。
黒い闇が焦げるように縮み、裂けていく。
「おまえに、奪わせない……!」
◆◇◆
現実世界。
リリシアの身体が、まばゆい光に包まれていく。
「っ、これは……!」
ルーティアが思わず目を細めるほどの、純粋な風魔力の輝き。
カイはその中でリリシアをしっかりと支えていた。
理手の指がきゅっと力を込める。
「せや……
戻ってこい、リリシア……!」
その言葉が、最後の鍵になった。
◆◇◆
そして――
「やめろ……!
まだだ……まだ終わらない……ッ!」
“声”が断末魔のように叫んだ、その瞬間――
ズバッ!という音とともに、紫黒の霧の塊がリリシアの身体から飛び出した。
霧は空中で呻き、形を成さないまま風に巻かれ、よろめくように離れていく。
「ぐ……ああああああああああ……!」
断絶のような叫びを残して、
“声”は光の中から――リリシアの身体から追い出された。
空気が震え、風が再び吹いた。
今度は優しく、あたたかい風だった。
◆◇◆
リリシアはカイの胸元で、力なく身体を預けていた。
その顔は安らかで、微かに頬が紅潮している。
ルーティアがそっと近づき、彼女の髪をかき上げる。
「……やれやれ、また無茶を」
「まあ、ワイもやしなぁ」
カイは苦笑しながら、なおもリリシアを抱き続けていた。
(ほんまに……戻ってきたんやな)
指先が、小さく震えている。
それはきっと、彼女が――
“リリシア”として、帰ってきた証だった。




