第120話『黒き羽、声の器』【魔王城での決戦編④】
“それ”は、リリシアの耳元で囁いた。
誰にも聞こえない、けれど確実に入り込む――悪意そのものの“声”。
「お前の中に、風の流れがある……。
その力、貸してもらおうか。娘よ」
「……やめ……」
拒絶しようとする意志。
だが、身体の中へ“声”が入り込む感覚はそれを凌駕するほど強烈だった。
(ダメ……先生……見ないで……)
最後にカイの顔が脳裏に浮かんだ瞬間――
目の色が、変わった。
◆◇◆
“リリシア”が顔を上げる。
その瞳は、あの紫紺ではなかった。
漆黒の瞳孔に、深緋の光が蠢いている。
「……借りるだけだ。
少しの間だけな……“異邦人”」
“声”が、リリシアの口を通して喋っていた。
次の瞬間。
その身体が脈動するように変貌しはじめる。
肌は灰に近く、血管が薄い紫に染まり、背中からは――
魔族の象徴、“黒い羽”が音を立てて開いた。
その大きさは、リリシアの人間の姿には不釣り合いなほど巨大で。
風の気流が城内に生まれ、魔法障壁を軋ませるほどの“魔圧”が溢れ出す。
「リリシア……!? やめなさい!」
ルーティアが叫ぶが、応えはない。
“声”が口元を笑みに歪めながら囁く。
「この器……いい感触だ。
優秀すぎる父の血に、幼い未熟な自我。
こんなにも使いやすいものか……」
魔王の瞳が鋭く細まった。
「……貴様」
その瞬間、“リリシア”が羽ばたいた。
轟音が、城の壁ごと空気を吹き飛ばす。
◆◇◆
「くっ……ぐ、うっ!」
カサが幻膜を展開し、ゴルムが盾を振るう。
双子のキルとカルが斬撃の風を分割しようと試みるが――
「風の質が違う……斬れん……!」
メリルが飛ばされながらも薬瓶で仲間を包む。
それでも、全員が吹き飛ばされた。
魔王が立ちはだかる。
その結界は数千年の魔力の積み重ねだ。
だが――
“娘”の力は、それを削っていった。
「風が……暴走している……いや、“声”が……増幅させているのか」
魔王の声に、微かな焦りが滲む。
「戻れ……リリシア。
お前は、“声”に飲まれるな」
「フッ……フハハッ!
それが“父”の言葉か。
おかしいな……私は今、最高に自由だぞ?」
“声”が愉悦に満ちた声で叫ぶ。
◆◇◆
そして――再びの羽ばたき。
結界の裏にいた護衛団の数名が、ついに意識を落とした。
そのまま地に伏し、動かない。
カイも、理手で壁に縋りながら耐えていた。
身体はすでにあちこちを打ち、傷だらけだった。
(……これが、“リリシア”の本来の力なんか……)
いや、違う。
これは“声”が引き出した、リリシアの力の暴走体。
そして、リリシア本人の意識は奥底に押し込められている――。
「お前らは、全員、砕けてしまえ……」
リリシアの声を使って、“声”が告げた。
黒い風が、波のように城を包み始める。
◆◇◆
しかし、その中で――
一人だけ吹き飛ばされていない者がいた。
ルーティア。
細剣を地に突き立て、踏ん張っていた。
魔法障壁など一切なし。
ただ、鍛え上げた“脚”と“意志”だけで耐えていた。
「なぜ……立っている?」
“声”が戸惑いの声を上げる。
「そんなもの……決まってますでしょう!」
ルーティアの叫びが、風の音を裂く。
「旦那様の生徒であり、友であり、もう一人の私だからですわ!」
その瞬間。
黒い羽が、ルーティアめがけて突進する。
突風と共に、風が一点へと収束する。
その中心で、黒きリリシアが――
鋭く伸びた、魔族の爪を構える。
軌道は、心臓を貫く一直線。
防御の余裕などない。
ルーティアも剣を振るえない。
(ああ、来る――!)
だが、間に合わない。
黒い爪が、彼女の胸元に迫る。
その時――
「――ストップや!」
声がした。
◆◇◆
カイだった。
ズタボロの体を引きずって――
左腕を前に突き出していた。
義手、“理手”の指先が開き、円環の術式を描く。
空中で、“ある一点”に向かって術式が走る。
爪と、彼女の胸の間。
わずか指一本ぶんの距離に――
重力が、発生した。
「っ……!? 止まった……!?」
黒きリリシアの動きが、一瞬だけ硬直する。
そのわずかな隙に、ルーティアが斜めに身を捩り、剣を抜く。
「――戻ってきなさい、リリシアッ!」
閃光の一閃。
斬られたのは、黒き羽の一枚。
――リリシアの声が、震えた。
「や……めて……ください……っ」
それは、確かに、彼女自身の声だった。




