第114話『境の門:開門前夜』【魔眼の徘徊者編⑭】
湖畔の小聖堂は、風もなく、静まり返っていた。
翌夜――新月。
“境の門”が開く唯一の夜。
その前夜、カイたち四人は最後の準備のため、再び聖堂に集っていた。
カイ、ルーティア、リリシア、そして護衛として選ばれたゴルム。
最小編成。
それが魔王からの条件だった。
「……静かやな」
聖堂の石床に理手をついて、カイはぼんやりと天井を見上げた。
灯りは落とされ、あるのは焚き火の柔らかな明かりだけ。
パチ、という音と、外からの虫の声が交互に響く。
「静かなのは、落ち着く前兆じゃないですわ。
……嵐の前、ですの」
ルーティアは剣を膝の上に置き、研ぎながら呟いた。
「どのくらいの時間、門は開いていられるのでしょうか」
リリシアが問いかける。
その声は落ち着いているようでいて、わずかに震えを含んでいた。
「魔伝書には“短き時にして、濃き路”ってあったな」
カイが手帳をめくる。
「理で換算すれば、開門から約十五分。向こう側に完全転移するまでを含めると、実質、行動可能時間は一〇分もないかも知れへん」
「短い……」
リリシアが息をのむ。
「せやけど、それだけ“理の交差”が鋭くなるってことや。
その瞬間だけ、ワイの数式も、魔界の“底流”と繋がる。
せやからこそ、治癒の補助は出来るはずや」
「先生が、逆に巻き込まれたりは……?」
「……可能性はある」
カイは素直に頷いた。
「でも、それを言うなら、これまでもずっと同じや。
明日も、式を通して理を繋ぐだけや。
そこに意味を載せるのは、ワイの役目やからな」
その声に、誰も反論はしなかった。
◆◇◆
夜も更け、火の粉が小さく舞う中。
ルーティアは、焚き火の隣に座るカイに背中を預けた。
「旦那様……」
「なんや」
「明日は……わたくし、何があっても先生を守ります。
たとえ、相手がリリシアの父君でも、ですわ」
「……心強いな」
カイが小さく笑い、背中越しに彼女の髪を撫でた。
その様子を、リリシアは少し離れた石柱の影から見ていた。
焚き火の明かりが、二人を柔らかく照らしている。
(あの人の隣には、彼女が自然にいる……)
胸が締めつけられるように苦しかった。
けれど、なぜ苦しいのかは、まだ自分でも分からなかった。
(おかしい……。
私はただ、償いたいだけなのに……)
ふと、ゴルムがそばに近づいてきた。
「姫さん」
リリシアは振り返る。
「通行止め、する準備は整ってるで。
でも、それだけやない。
あんたが震えてたら、先生が余計に力を出すやろ。
そっちの方が危ない」
「……震えてなんかいません」
「そか。なら、心の震えも止めな」
言い残して、ゴルムは焚き火の前に戻っていった。
(……震えてるのは、きっと……私の、気持ち)
◆◇◆
夜が更けきった頃。
カイは聖堂の外に出て、湖のほとりで夜風に当たっていた。
理手をそっと水面にかざし、術式の反応を見る。
水面には、わずかに銀色の光が螺旋を描いた。
その後ろから、リリシアがそっと歩いてくる。
「……先生」
「なんや、眠れへんのか」
「はい。色々と、考えてしまって」
カイは肩をすくめ、石に腰を下ろした。
リリシアも、その隣に座る。
夜の空気は、冷たく澄んでいた。
「先生……」
彼女はぽつりと口を開いた。
「さっき、背中を預けられていましたよね、ルーティアさんに」
「まあな」
「……いいですね、ああいうの」
「ほう?」
カイが片眉を上げた。
「わ、私も、ああいうふうに……してみたいです」
――言った瞬間、リリシア自身がびくりと震えた。
(……な、なにを言ってるの、私!?)
自分の言葉に驚いて、顔が熱くなる。
隣のカイは、少しだけ視線を外し、風に吹かれていた。
そして。
「ほな、背中、空けとくわ。好きなだけ預けたらええ」
彼は何でもないように、背を向けてみせた。
リリシアは、しばらく黙っていた。
けれど、やがて小さく息を吸い、そっと背をあずけた。
あたたかい。
広くて、安心する背中。
けれど、ルーティアが寄りかかっていたそれと同じ場所だと思うと、胸の奥がもやもやと騒ぐ。
(私……どうして、こんなに――)
問いの答えはまだ出ない。
ただ、心臓の鼓動が少しだけ早くなる。
それだけが、確かな事実だった。
◆◇◆
そして明け方。
聖堂の祭壇にわずかな光が差し込む。
小聖堂の石壁が淡く光を返し、術式の一部が反応を始めた。
「来たな」
カイが目を開ける。
「“境の門”が……開く準備を始めた」
リリシアは静かに立ち上がる。
その表情には決意が宿っていた。
もう、震えはない。
ルーティアも紅剣の鞘を締め直し、軽く頷く。
ゴルムが最後に立ち上がり、通路を指差した。
「ほな、通行許可。時間、限られてるで」




