第110話『記録の裏側と鏡の向こう』【魔眼の徘徊者編⑩】
夜の学園寮は静かだった。
生徒たちは消灯時間を迎え、それぞれの部屋で灯を落とし、明日に備えて眠りに就いている。
だが、リリシアの部屋だけはまだ、薄い光が消えずにいた。
窓辺に置かれたランプの明かりは弱々しく、それでも机の上に広げた魔法式の頁をかろうじて照らしていた。
少女の瞳はその頁ではなく、真正面の鏡をじっと見つめていた。
静まり返った部屋に、わずかな息遣いだけが響く。
(……あれは、何?)
鏡の中の“自分”が、ほんの一瞬、笑った気がした。
唇が微かに吊り上がって──でも、自分はそんな顔はしていない。
間違いなく、自分ではない“誰か”が、自分の顔の皮をかぶって笑った。
だが、それは確かに“自分”の姿だった。
まばたき一つする間にその“違和感”は消え、今はただ、普段通りの紫紺の瞳が映っているだけ。
(見間違い……じゃない)
心臓が、さっきから微かに早鐘を打っている。
冷たい汗が背筋を滑り落ちていくのを感じる。
リリシアは、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
魔王の使者がかつて持ってきた、特殊な“遮眼結界”の術式式紙。
簡易なものだが、鏡や水面など、“観測される可能性のある媒体”に貼れば、向こうからの視線を遮断できる。
「念のため──」
呟くと同時に、その術式を鏡の右上に貼りつけた。
じゅっ、と微かに紙が熱を帯び、術式が定着する。
鏡の表面に、うっすらと魔素の膜が張られ、波紋のように揺れた。
それを確認してから、リリシアは息をついた。
けれど──安心したのも束の間。
貼ったはずの術式が、次の瞬間には“消えて”いた。
紙ごと、鏡から蒸発したかのように、跡形もなく。
「……え?」
まばたき一つ。
さっきまであった“防御”が、なかったことになっている。
そして──鏡の中の“自分”が、また笑った。
◆◇◆
一方、深夜の研究塔。
カイは理手の調整を終えたばかりで、机の上に置いた工具を片づけていた。
今日も、妙に疲れが取れない。
目の奥がじんわりと重い。
(まさかワイまで、視線の侵蝕にやられとるんやろか)
頭を振り、ひとつ深呼吸をしたところで、誰かの気配に気づいた。
振り返ると、そこには──ルーティア。
寝間着のまま、上に薄い外套を羽織った姿で、そっと扉の陰に立っていた。
「ルーティア? どうしたんや、こんな時間に」
「……ちょっと、眠れなくて」
声は普段より少しだけかすれていた。
「部屋にある鏡、ひとつ割りました」
「は?」
カイは思わず素で返した。
「見たんです。“自分”じゃない自分が、私の顔で笑ったのを」
その言葉に、カイの背中に冷たいものが走った。
──同じ。
リリシアの部屋でも、同じことが起きている。
ルーティアはゆっくり近づいてきて、カイの理手に視線を落とした。
「旦那様、今日は疲れてますわ」
「……まぁな」
「なのに、誰かが何かを仕掛けてきてる気がして、胸がざわつくんです」
カイは机の上から、細い魔力計測式紙を取り出して、彼女の腕に軽く巻いた。
「……やっぱりや」
「なにが?」
「“魔力干渉値”が微弱に増加しとる。誰かが、君を“観測”しとる」
ルーティアは一瞬、目を細めたが、すぐに顔を引き締めた。
「旦那様。次は、こちらの番ですわね」
「せやな。見とるもんを、逆に見返したらええ」
◆◇◆
深夜十二時。
カイとルーティアは、学院内に封印されていた“記憶観測魔眼”の研究書庫へと足を運んだ。
そこにあるのは、百年前──「視る者の災禍」と呼ばれた事象に関する最古の記録。
封印呪式を解き、書庫の一冊を開いた瞬間──
「……なんや、これ」
そこに描かれていたのは、鏡に映る“偽りの自分”が、“本物”の自我を追い出してゆく図だった。
ページの最後には、震える筆跡でこう書かれていた。
『我を視たものよ。
次に笑うのは、おまえの番だ』
◆◇◆
その頃。
寮の廊下で、リリシアは薄闇の中、そっと扉を開けた。
向かったのは──カイの部屋。
眠れない。
不安。
そして、あの鏡の中の“誰か”が、今も見ている気がしてならない。
半時ほどして教師寮のカイに部屋の前。
扉をノックすると、間もなくカイが顔を出した。
「先生……ちょっとだけ、いいですか?」
リリシアの声は震えていた。
その瞳は、強がりを失くした少女そのものだった。
カイは、頷いて扉を開けた。
「入ってええよ」
「ありがとう……」
中に入った瞬間、リリシアは唐突に口をついて出た。
「……先生が、そばにいてくれるなら、安心できるって……変ですよね」
彼女自身が、自分の言葉に戸惑っていた。
こんなこと、言うつもりじゃなかった。
(どうして……こんな、甘えたこと)
けれど、次の瞬間、背後の窓──
そこに、鏡のような光沢の“目”が浮かんだ。
「先生、危ないっ──!」




