第109話『眼の記録と記憶の侵食』【魔眼の徘徊者編⑨】
霧が晴れたはずの朝、再び学園の空は曇っていた。
晴天の予報とは裏腹に、上空に漂う雲はどこか重く、湿った気配を残している。
教室に入るカイは、扉を開けた瞬間に違和感を覚えた。
空気が──薄い。
(……ちゃう。重たいんや。脳の奥をじんわり掴まれるような、妙な圧)
クロス組の生徒たちは、いつもの席に着いていたが、その表情が揃いも揃って曇っている。
うつむく者。ぼんやりと前を見つめる者。ペンを持つ手が震える者。
「……おーい、どしたんや? ワイの顔にマヨネーズでも付いとるんか?」
と軽く冗談を言ったが、反応は鈍い。
いつもなら「マヨはしょうゆ派です」とか「タコ焼きにはソース一択」と即ツッコミが返るはずの双子ですら、微かに眉を寄せているだけだった。
教卓の上にノートを置いた瞬間、カサが立ち上がった。
「先生。全員分の式ノートを確認しました」
「うん。で、何があった?」
カサは静かに言った。
「“同じ誤記”が、複数人に見られます。しかも……その形が、“眼”です」
カイの手が止まる。
ルーティアとリリシアも同時に視線を交わした。
「誤記っちゅうのは?」
「“流束の式”の中央に、本来存在しない環状の縁取りと点の並び……。まるで、誰かに“見られている”視点が式の中に差し込まれているような歪み」
カイはノートを受け取り、ぱらぱらとめくった。
確かに、式の中心に、本来ありえない同心円の軌跡が刻まれていた。
しかも──それは、カイ自身が使った“ロケットパンチ術式”の軌道と、酷似していた。
(……ワイの飛ばした手が、なんか置いてきてもうたんか?)
だが、これだけではない。
式の誤記が見つかった生徒たちにヒアリングを行ったところ、「黒い霧の中に眼を見た気がする」と語る者が数人。
中には「自分が昨日何を食べたか、思い出せない」と言う者もいた。
「……記憶への侵食、か」
カイは静かに息を吐いた。
「みんな、席に着いてな」
生徒たちが戸惑いながらも座る。
カイは黒板の前に立ち、理手を掲げて式を書き始めた。
◆◇◆
「今日は“記憶の保全式”を教える。これは“情報の位相”を保つためのベースになるもんや」
チョークが走るたび、黒板には整然とした記号が並ぶ。
「記憶っちゅうのは“感覚の焼き付け”や。そこに“第三者の視線”が入ると、焼き付けの温度がズレる。これが今回の原因や」
リリシアが頷く。
「……外から“見られてる”ことで、内側の記録が“編集されてる”ってこと?」
「せや。人は見られると、無意識に“見られる自分”を演出してまう」
ルーティアが眉を寄せた。
「つまり……私たち、魔眼の“何か”に、記憶を書き換えられかけてると?」
「正確には、“見られた状態”が後から割り込んで、記憶のレイヤーを一枚ずらしとるんや。ほんで、それがノートの誤記や記憶の曖昧さになって現れとる」
カイは理手の指で“式の保護結界”を描き、生徒ひとりひとりの机に小型の符を渡していく。
「これがその保全符や。“見られた”ことを“外付け記録”に流す。これで内側の記憶がブレることはなくなる」
「……でも、先生」
リリシアが小さく呟いた。
「これ、“魔眼の視線”がまだ残ってるってこと、ですよね?」
その言葉に、教室の空気が一瞬だけ、凍った。
カイも、微かに頷く。
「残ってる。……いや、“戻ってきた”と言うた方が正しいかもしれへん」
◆◇◆
その日の夕刻、カイは学園長の執務室へと足を運んだ。
学園長はいつもの通り、山のような書類を片付けながら、カイの報告を無言で聞いていた。
やがて、手を止めて、古い書物を一冊取り出す。
「……クロス先生。“眼の侵蝕”に関して、過去に似た症例がある」
「ほう?」
「これは、百年前の記録だが──“徘徊する視線”が一帯の町に現れ、住人が次々に自分の名前を忘れていった」
「名前を……?」
「記憶の最も外側にある“自我”が、塗り替えられた」
その記録の末尾に、たった一行だけ、こう書かれていた。
『やがて“視るもの”は人の形を取る』
◆◇◆
その夜。
リリシアは自室の鏡の前で、ふと、鏡越しに自分を見つめた。
違和感。
その“目”。
紫紺の瞳のはずなのに、一瞬──そこに黒い円が重なったような錯覚。
(……今、誰かに、見られて──)
彼女が振り返るより早く、鏡の奥で“何か”が瞬いた。
鏡の中の自分が、微かに“笑った”。




