第40話 鞘の一撃
砂煙が、分厚いカーテンのように視界を塞いでいた。 鼻を突くのは、焦げた砂糖と腐った卵を混ぜたような、濃厚な魔素の刺激臭。
その向こう側で、山のような巨体が、ギチギチと不快な音を立てて身じろぎしているのがわかる。
世界樹の根が狂い、暴走した成れの果て。 膨れ上がり、ねじ切れ、周囲の命を食らい尽くそうとする、哀れな「病巣」。
まったく、ひどい有様だ。 俺はフードを目深にかぶり直しながら、小さく息を吐いた。
足元では、黄金色の光を纏ったフェデが「わふっ(やったぜ)」と得意げに尻尾を振っている。
その背後、遥か後方の安全地帯には、今しがた水の精霊ラグが運んでいった勇者エリシアの姿が見えた。泥だらけでへたり込んでいるけれど、どうやら五体満足のようだ。
よかった。本当に。あんな女の子が、ボロボロになって死ぬところなんて見たくない。
「……さてと」
俺は視線を戻す。 目の前には、まだ暴れ足りないと言わんばかりに脈打つ、巨大な根の塊。
コイツをどうにかしないと、俺の平穏な日常には戻れない。 それに、放置しておけば、この腐敗は本体である世界樹まで届くだろう。
『ルーク、燃やすか? 灰にすれば早いぜ!』
肩の上に乗った(姿は見えないけど)炎のヴァルが、ウズウズと物騒な提案をしてくる。
『却下だ。これ以上、世界樹を傷つけるな』
俺は念話で即答する。
『じゃあ、みじん切りにします?』
風のフィオが涼しい声で聞いてくる。
『それも駄目だ。バラバラにしたら、飛び散った破片からまた再生するかもしれない』
そう。コイツは魔物じゃない。世界樹の一部だ。
自分の指先が化膿して腫れ上がってるとして、それを切り落としたり焼いたりするのは、最終手段だろう。
できることなら、治したい。 炎症を抑えて、正しい血流に戻してやりたい。
……なんて言ってるけど、要するに今の俺は「庭師」みたいなもんか。 伸び放題になった枝を剪定し、暴れる根っこを宥めて、あるべき姿に戻す。
面倒くさい仕事だ。
「行くぞ、フェデ」
「わふ!」
俺は一歩、踏み出した。 手には、錆びついたように見える古びた剣。星霊剣アストラ。
もちろん、抜かない。 抜けないけど。
今回は「掃除」だ。使うのは、この頑丈な『鞘』だけで十分。
ドォォォォォンッ!
俺が姿を現したことに気づいたのか、暴走根が再び動き出した。 巨大な紫色の触手が、鞭のようにしなり、空気を裂いて襲いかかってくる。 速い。
普通の人間なら、反応すらできずに肉塊に変えられているだろう速度。
でも、俺には止まって見える。
霊素の流れ(ライン)が見えているからだ。 触手が動く一瞬前、そこを通るエネルギーの奔流が、俺の目には鮮やかな光の道筋として映る。 右から来る。
ヒュン。
俺は半歩、右足を引いただけ。 凄まじい風圧がフードを揺らし、数センチ横を巨大な質量が通り過ぎていく。
次は、上から三本。
タン、タン、タン。
軽いステップ。ダンスでも踊るみたいに。 迫りくる触手の隙間を縫うように、ただ前へと歩く。走る必要さえない。
フェデも俺の影にぴったりと張り付き、あくびが出そうなほど余裕な顔でついてくる。
背後で、誰かが息を呑む気配がした。 エリシアか、それとも他の騎士たちか。
彼らの目には、俺がどう映っているんだろう。 死に急ぐ馬鹿か。それとも、攻撃がすり抜けていく幽霊か。
まあ、どっちでもいい。 今はただ、あの中心にある「核」まで辿り着けばいいんだ。
「グルァァァァァァァッ!!」
獲物が捕まらないことに苛立ったのか、暴走根の中心にある「口」のような亀裂が開いた。 そこから、濃縮された魔素の瘴気がブレスとなって吐き出される。
毒の霧。吸い込めば肺が焼け、触れれば皮膚が溶ける、死の吐息。
『ルーク様!』
ラグが警告する。
「大丈夫だ」
俺は歩みを止めない。 毒霧が、俺を飲み込もうと押し寄せる。
その瞬間。俺の体から、無意識に漏れ出ていた霊素が、パチリと弾けた。
俺の周りだけ、空気が「拒絶」したのだ。
精霊王の霊素密度は、この程度の瘴気よりも遥かに高い。 泥水の中に真水を注げば混ざるけど、泥水の中に水銀を落としても混ざらないように。
俺という存在の密度が高すぎて、瘴気のほうが避けて通る。
モーゼの海割りみたいに、毒霧が左右に割れた。 俺はその真ん中を、悠然と歩き抜ける。
……うん。これ、絶対あとで言い訳できないやつだな。
「特殊な魔導具を使ってました」とかで誤魔化せるかな。無理か。 まあいい、後のことは後で悩もう。今は仕事を終わらせるのが先だ。
目の前。ついに、暴走根の本体――心臓部である「核」が露出した。
黒く変色した樹皮の奥で、ドクンドクンと不快なリズムを刻んでいる赤黒い光。
あれだ。 あそこが、循環が詰まっている元凶。 魔素溜まりが炎症を起こし、世界樹の清浄な霊素を堰き止めている「血栓」
「……痛かっただろうな」
俺は呟く。世界樹の声が聞こえる。
『苦しい』『熱い』『止めて』子供が熱を出して泣いているような、そんな声。
悪いな。気づくのが遅れて。 もっと早く、俺がここに来ていれば、こんなに暴れる必要もなかったのに。
俺は、アストラの鞘を逆手に持ち直した。 ずしり、と重い手応え。 この鞘もまた、世界樹の枝から削り出されたものだ。言わば、コイツとは兄弟みたいなもん。
だからこそ、一番よく「響く」
「ガァァァァァッ!!」
核を守ろうと、周囲の触手が束になって襲いかかってくる。 全方位からの圧殺攻撃。逃げ場はない。
――いや、逃げる必要なんてない。
俺は、地面を蹴った。 今度は、歩く速度じゃない。 ほんの一瞬だけ。リミッターを外す。
ドンッ!!
足元の地面が爆ぜた。 俺の体は砲弾となって、迫りくる触手の群れを真正面からぶち抜く。
風の精霊フィオが、空気抵抗をゼロにする。 。
触手の隙間?違う。触手が「閉じるよりも速く」通り抜けたんだ。
視界が流れる。 音すら置き去りにする加速の中で、俺は核の目の前に到達した。
赤黒く脈打つ、醜悪なコブ。
俺は、振りかぶる。 鞘を。 ただの棒切れに見える、世界最強の打撃武器を。
物理的な破壊じゃない。 叩き潰すんじゃない。
俺が叩き込むのは――『命令』だ。
俺の魂にある《精霊王核》を、アストラを通して増幅し、世界樹のネットワークに直接流し込む。 管理者権限による、強制介入。
暴れる子供を叱るように。 乱れた呼吸を整えるように。 あるいは、狂った歯車を無理やり元の位置に押し込むように。
「――鎮まれ」
短く、告げる。 同時に、鞘を叩きつけた。
カァァァァァァァァンッ……!!!
澄んだ音がした。 殴打音じゃない。 巨大な鐘を突いたような、あるいは水晶を弾いたような、美しくも恐ろしい共鳴音。
衝撃波が、円状に広がる。でも、それは何も壊さなかった。
波紋のように広がったのは、青い光。 清浄な、本来の世界樹が持つ霊素の波長。それが、赤黒い魔素を塗り替えていく。
核が、ビクリと震えた。
『命令』が通る。神経を焼き切るような強制力。
――止まれ。 ――還れ。 ――循環せよ。
俺の意志が、暴走していた霊素の流れを、無理やり正常なルートへとねじ曲げる。
詰まっていた栓が抜け、濁流となって滞っていたエネルギーが、一気に本来の道へと流れ出す感覚。
ドクン。
核の色が、赤から青へ。 濁った紫から、透き通るような緑へ。
「ギ……ァ…………」
化け物が、最後の息を吐いた。 それは断末魔じゃなく、安堵の吐息にも聞こえた。
硬直
襲いかかろうとしていた無数の触手が、空中でピタリと止まる。
まるで時が止まったかのように。 そして次の瞬間、それらはボロボロと崩れ落ちた。腐って落ちたんじゃない。 ただの「枯れ木」に戻ったのだ。
魔素という毒気が抜け、ただの植物に戻った巨大な根が、静かに地面へと横たわる。
ズズ……ン。
重い地響きを立てて、暴走根が沈黙した。 舞い上がっていた砂煙が、青い光の粒子と共にゆっくりと晴れていく。
終わった。
「……ふぅ」
俺は鞘を下ろし、一つ息を吐いた。 手のひらが、少し痺れている。 やっぱり、これだけの質量に命令を通すのは疲れるな。スローライフ向けの運動量じゃない。
ふと、周囲を見渡す。 静かだ。 あまりにも静かすぎる。
振り返ると、遥か後方で。 勇者エリシアと、生き残った騎士たちが、彫像みたいに固まってこちらを見ていた。口をぽかんと開けて。目を見開いて。まるで、神話の怪物でも見るような目で。
……あ
やべ。ちょっと、張り切りすぎたか?
今の、どう見えた? 「すごい必殺技で倒しました!」って感じに見えたかな?それとも「なんか謎の力で解決しちゃいました」って感じか?
どっちにしろ、ただのDランク冒険者の仕業には見えないよな。
「わふん(ドヤァ)」
足元で、フェデが胸を張っている。「見たか、俺の主人はすごいだろ」と言わんばかりの顔だ。
いや、お前もだぞフェデ。さっきの結界、完全に規格外だったからな。
どうする。 今すぐ逃げるか? でも、ここで背を向けて逃げたら、余計に怪しまれるか?
いや、下手に喋ってボロが出るよりは、無言で立ち去る「謎の協力者」ポジションを貫いたほうがいいかもしれない。
そうだ、そういうことにしよう。 俺は庭師。通りすがりの、ただの凄腕庭師。 名前も名乗らず去っていくのが、ハードボイルドってやつだ。
俺は決めた。 エリシアたちのほうを一瞥もしない。 フードをさらに深く引き下げる。 そして、フェデに目配せを送る。
『ずらかるぞ』
『わふ(了解)』
俺たちは、まるで何事もなかったかのように。 散歩の続きでもするかのような足取りで、森の奥へと歩き出した。
背中に突き刺さる、痛いほどの視線を無視して。
お願いだから、誰も呼び止めないでくれよ。 俺はただ、美味しいご飯を食べて、昼寝がしたいだけなんだから。




