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第38話  ルークの決断

 泥を蹴る。ベチャ、と鈍い音がした。

 誰も聞いちゃいない。当然だ——今この場所は絶叫と轟音のオーケストラなんだから。


 空気が震える。肌を叩く。濃い魔素の匂い。鼻の奥がツン、と痺れる腐敗臭。俺はフードを深く被り直して影の中を走った。いや、走るっていうより滑ってる。足元に風の精霊フィオが空気の膜を作ってくれてて、おかげで泥沼の上をまるでスケートリンクみたいに。便利だけどさ、これ傍から見たら完全にホラーだろ。足を動かさず移動する黒い影。怪談かよ。


「……ッ」

 視界の先に、泥まみれの白い鎧。

 勇者エリシア


 さっきまであんなに輝いてた「希望の象徴」が、今は折れた人形みたいに膝をついてる。金色の髪は泥水に濡れて、頬に赤い筋——血だ。聖剣が手の届かないところに転がってる。拾おうと伸ばした手が空を掴んで、震えてるのが見えた。


 ああもう。

 見てられねぇよ。

 なんでだ。なんであんたがそんな顔しなきゃなんないんだ。


 勇者? 世界の希望? 知ったことか。まだ十代だろ。俺の前世で言えば高校生くらいの女の子じゃねぇか。そんな華奢な肩に世界の命運なんていうクソ重い荷物を乗っけたのは誰だよ。教会か、国か——それとも、この世界樹システムそのものか。


『……ルーク』


 頭の中に低い声。炎のヴァルだ。

 心臓の鼓動に合わせて、内側の霊核コアが熱くなるのがわかる。こいつもイラついてる。


『燃やすか? ここら一帯、灰になるまで』


 ヴァルの提案はいつだってシンプルで暴力的。俺の霊素レイソを全開にして火力を流し込めば確かに終わる。あの気持ち悪い根っこも毒ガスも全部まとめて消し炭。一瞬で。地形が変わるレベルの焦土作戦だ。


(……馬鹿言え。却下)


 走りながら心の中で即答する。


(そんなことしたらエリシアも後ろの騎士たちも巻き添えだ。それに目立ちたくないって言ってるだろ。山火事起こして「僕がやりました」なんて自首する気はねぇ)


『ケッ、相変わらずみみっちいなぁ……じゃあどうすんだよ。あのお嬢ちゃん、もう"詰み"だぜ?』


 わかってる。言われなくても見えてる。

 目の前——大蛇みたいな根塊が鎌首をもたげてる。先端がパカッと開いて、中からギザギザの歯がびっしり生えた捕食口が。紫色の粘液を垂らしながら。あいつは本能でわかってるんだ、目の前の白い少女がこの場で一番上等な「エサ」だって。


 食われる。

 あと数秒で。


 エリシアが顔を上げた。諦めてない。まだ、諦めてない目だ。死ぬ寸前だってのに「守らなきゃ」って意志だけで体を支えてる。恐怖で瞳孔が開いて全身ガタガタ震えてるのに、それでも逃げようとしない。


 ……馬鹿野郎。

 逃げりゃいいだろ。「無理です」って、「助けて」って言えばいいだろ。

 なんでそこで歯を食いしばるんだよ。

 胸の奥が、ズキン、と痛んだ。

 これは精霊王としての義務感? いや違うな。ただの、俺のワガママだ。


 俺はスローライフがしたい。平穏無事に誰にも干渉されずに生きていたい。でもさ——その「平穏」の中にこんな胸糞悪い光景が残るのは御免なんだよ。目覚めの悪い夢を見たあとみたいに一生引きずりそうじゃんか、あんな顔を見捨てて逃げたら。


「……はぁ」


 深く、重たい息を吐き出した。肺の中の空気を全部入れ替えるみたいに。

 覚悟を決めろ。隠れクロークは脱がない。正体は明かさない。Dランクの、ただの運がいい冒険者——あるいは通りすがりの謎の協力者。なんでもいい。とにかく「精霊王」なんていう面倒な肩書きだけは死守する。


(……フィオ。音を消せ。気配もだ。カレンさんたちには俺が"ただの影"に見えるように)

『承知いたしました、我が王。風の迷彩を』


 ふわり、と空気が変わる。俺の輪郭が曖昧になる感覚。


(ラグ。あの毒ガス、一瞬でいい。俺の通り道だけ浄化してくれ)


『お任せを……水脈の清浄なる流れを、貴方の足元へ』


 泥水が、俺のブーツの下でだけ澄んだ水に変わる。


(ヴァル。……出力調整頼むぞ。派手な爆発はいらない。「熱」だけ貸せ。あの根っこをビビらせるくらいの、芯に響く熱を)


『へいへい……黒子くろこに徹しろってか。贅沢な使い道だぜ、まったく』


 文句を言いながらも精霊たちは完璧に仕事をこなしてくれる。頼もしいよ、本当に。お前らがいてくれてよかった。……まあ、お前らがいるせいでトラブルも多いんだけどな。

 俺は腰の剣帯に手をかける。ボロボロの布を巻いた、ただの木の棒に見えるもの——《星霊剣アストラ》。

 さやのままで十分だ。これは世界樹の枝。つまりあの暴走してる根っこにとっては「親」の一部みたいなもんだ。

 親父の拳骨げんこつしつけ直してやるよ。


「……フェデ」


 足元を見る。俺の影の中に溶け込むようにして走っていた相棒が、金色の瞳を光らせて見上げてきた。いつもの「遊んで!」っていう甘えた目じゃない。最上位霊獣としての、静かで冷徹な目だ。こいつはわかってる、俺が何をしようとしてるか。


「一番いいとこ、頼むぞ」

「わふ(まかせて)」


 短く、力強い返事。

 よし。


 距離、あと十メートル。エリシアまでのカウントダウン、残り二秒。捕食口が大きく開かれ、エリシアの頭上へ影を落とす。彼女が目を閉じるのが見えた。死を受け入れる顔。


 ——させねぇよ。


 俺の中にあるバルブを回す。ギギギ、と錆びついた音がするような感覚。無理やり押さえ込んでいた「王の霊素」をほんの一筋だけ解放する。ダムの放流ゲートを数センチだけ開けるイメージ。それだけで血管の中をマグマが走るような熱さが駆け巡る。


 俺は地面を強く踏み込んだ。

 泥が爆ぜる。フィオの風が背中を押す。加速——景色が後ろへ流れていく。

 スローモーションの世界の中で、俺はエリシアと怪物の間へ滑り込む。

 悪いな、勇者様。

 美味しいところ、全部持っていくぞ。

 さあ——終わらせようか。

 一瞬で。


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