第266話 世界の心臓部
「……はあ、マジで息が、詰まる」
べちゃり。
ブーツの裏が、腐った肉みたいな気色の悪い泥を蹴り上げた。
反転してた狂った重力の空から、あの無限ループのクソ回廊を力業でぶち抜いて、ようやく辿り着いた。世界のいちばん深い底。
「……っ、ルーク、ここ……空気が……」
隣を歩くエリシアが、喉元を押さえて小さく咳き込む。
俺から分け与えた命の光で、星の民として覚醒した彼女。神域の力を手に入れたはずの彼女でさえ、顔色を青ざめさせているんだ。
「無理すんな。俺の背中に隠れてろって」
「平気、です……。でも、吸い込むたびに、肺が……針で刺されるみたいに、痛くて」
吸い込んだ瞬間、気道を直接ヤスリでガリガリ削られてるみたいな、ヒリヒリした熱と冷たさが入り混じった悪寒。
「わふぅぅ……ぐるるるるぅっ……」
足元で、フェデもめずらしく低い唸り声を上げている。霊導銀の装甲が、ギシギシと悲鳴みたいなきしみ音を立てていた。
世界樹直系の最上位霊獣が本能で警鐘を鳴らし続けるレベルの場所。
「……ここが、ほんとに世界樹の根元か? 悪趣味にもほどがあるだろ」
『ええ。間違いありません、主。ですが……なんとも、胸糞の悪い有様だ』
エムが、足元の影からヌッと顔を出す。黒猫の姿をしたアイツの、紫銀の瞳が暗闇を睨みつける。いつもはすかしてるガキのくせに、声のトーンがガチで低い。
『本来なら、黄金の命が滔々と流れる、美しい場所のはずなのに。それが、こんな泥水のような有様とは……ルッくん、気をつけて。嫌なものが、これでもかってくらい混ざってるの』
セラの六枚羽が、俺の背中でブルっと震えた。小さな天使の姿をした光の大精霊。彼女にとって、ここは最悪の環境だろう。
見上げても天井がどこにあるか、まったくわからない。広大で、底なしの洞窟みたいな空間の奥。
ぶっとい血管みたいに、ウネウネと絡み合う巨大な根っこ。《ルート・オブ・オリジン》。世界の心臓部。
だけど、それは俺たちが知ってる、あの神々しい世界樹の根じゃなかった。
「……気色悪い色してんな。趣味悪すぎ」
『まったくじゃ。大地の恵みなど、微塵も感じられん。地脈が、根こそぎ腐りきっておるわ』
鉢植えを乗せた土のオルドが、重々しい声で嘆く。どす黒いヘドロみたいな魔素に、べったりと侵食された根。
ドクン、ドクン。
吐き気がするリズム。脈を打つたびに、毒々しい紫色のスパークが、バチバチッと激しく散る。それが岩肌に触れると、シューッと音を立てて、岩がドロドロに溶け落ちていく。
「おい、あれ見ろよ。スパークが飛んだとこ、溶けてやがるぞ」
『雷じゃねえな。あんなおぞましい電気、オレの誇り高い雷と一緒にすんじゃねえぞ旦那!』
雷のアルクが、金色の小さなドラゴン姿で、尻尾をパタパタさせて威嚇する。
『ええ。あれは純粋な魔素の放電現象。触れれば、ただでは済みませんね』
雪ウサギのフロスが、冷たい息を吐きながら俺の肩に降り立った。透明な氷の耳が、警戒するようにピンと立っている。
俺は、右腕の冷却グローブをギュッと握り直した。
アリスが徹夜で作ってくれた特製品から、シューシューと排熱の蒸気が上がってる。けど、外の魔素の圧力が強すぎて、あんまり意味を成してない。
肌がヒリヒリする。霊核が、粗いヤスリで削られてるみたいな、とんでもない不快感。
俺みたいな、Zランクの異常な霊核持ちか、星の民に覚醒したエリシア、世界樹直系のフェデじゃなきゃ、一歩足を踏み入れた瞬間に霊核がパンッと弾け飛んで即死してる。
間違いなく、この大陸で一番ヤバい場所。立ち入り禁止の、レッドゾーン。
「……ルーク。あそこ」
エリシアが、震える指先で空間の中央を指差した。紫のスパークとどす黒い霧が渦巻く奥に、ぼんやりと巨大なシルエットが浮かび上がる。
「なんだ、あれ。でっかい祭壇……か?」
『主よ、あれこそが……我らがかつて、すべての力を引き換えにして打ち込んだ、楔の跡。大封印の祭壇です』
エムの声がかつてなく緊張を含んでいた。
ひび割れた、バカでかい石の祭壇。その表面には、何重にも刻まれた古代の呪文やら魔法陣やらが、青白い光を放って必死に抵抗してる。
だけど、そのひび割れの奥から。圧倒的な闇の圧力が、絶え間なく、ドバドバと噴き出していた。
呼吸するたびに、肺がジュワッと焼けるような感覚。
これが、魔王アビスの力。王都を地獄に変えやがった元凶。
「ここが、すべての元凶が眠る……魔王の封印の地……」
エリシアが、息を呑んで呟いた。星光の剣を握る彼女の手が、かすかに震えているのがわかる。
「あの中に、あの迷惑な石頭の引きこもりがいるってわけか。どんだけ迷惑なニートだよ、まったく。家賃も払わずに居座りやがって」
『ルークさま。冗談を言っている場合ではありません。あの祭壇の周り、霊素の濃度が……異常すぎます』
水の人魚ラグが、俺の首筋にピトッと冷たい手を当てて言った。
『私の水が、あっという間に魔素に食われてしまいます……いえ、ちがう。霊素そのものが、限界を超えて圧縮されている?』
「あぁ。俺も感じてる。空気が、ねばっこいっていうか。重すぎて、足が前に出なくなりそうだ」
俺の身体からダダ漏れになってるZランクの霊素と、この空間に満ちてる極限の魔素の嵐がぶつかり合って、妙な共鳴を起こし始めていた。まるで、見えない巨大な磁石が反発し合うみたいに。
ビリビリと、空気が震える。
マルタさんのシチュー。カインの馬鹿笑い。ノルンのあくび。そして、あの不器用なオスカー副団長の小言。
そんな泥臭くて愛おしい日常を取り戻すために、俺はここに来たんだ。こんなドス黒いヘドロの底で、神様の真似事なんて絶対にしてやるもんか。
そのときだった。
『おいおいおい! なんかオレの身体、めっちゃ熱いんだけど!』
炎の子狐、ヴァルが、俺の肩でパニックを起こしたようにぴょんぴょん跳ねる。
『熱い? ヴァル、あなた炎の精霊でしょうに。……って、あれ? わたくしの体も、なんだか……』
フロスが、自分の透明な耳を不思議そうに触る。
「おい、お前ら、どうした? 身体が、光って……」
俺は目を丸くした。
ヴァル、ラグ、フィオ、オルド、フロス、アルク。そして、セラとエム。
八柱の精霊たちの身体から、目を開けていられないくらい眩い光が溢れ出し始めていたのだ。
『ルッくん! これ、抑えきれないかも!』
セラが、小さな両手で自分の身体を抱きしめる。光の粒子が、彼女の周りで暴走気味に飛び散る。
『主……どうやら、この極限の環境と、あなたの解き放たれた霊核の力が、我らの「仮の姿」を維持する楔を壊しにかかっているようです』
エムの黒猫の姿が、影のノイズみたいに激しくブレていた。紫銀の瞳が、驚きに見開かれている。
「仮の姿を維持できない? それって、どういう……」
『限界じゃ。おやかたの圧倒的な力と、この地の源流の気。それに引っ張られて、儂らの核が、本来の形を求めとる』
オルドの鉢植えから、凄まじい勢いで太い枝が伸び始めた。土の体が、ゴゴゴゴと地鳴りを立てて膨らんでいく。
「待て待て待て! ここでお前らが元のデカさに戻ったら、空間がパンクすんだろ!」
『無理だよルーク! もう、殻が、割れる……っ!』
ヴァルの毛並みが、一気に紅蓮の炎へと膨れ上がる。小さな子狐のシルエットが、あっという間に炎の渦に飲み込まれていく。
『旦那ァ! オレの雷も、もう止めらんねえ! うおおおおおっ!』
アルクの小さなドラゴン姿が、紫電の嵐に飲み込まれていく。雷鳴が轟き、空間がビリビリと震える。
「きゃっ……ルーク、眩しい……!」
エリシアが腕で目を覆う。強烈な光の乱反射。
「フェデ、伏せろ!」
「わふぅぅぅっ!」
フェデが、俺とエリシアを庇うように前に出て、その巨体を低く沈める。
極限の霊素と魔素が衝突し合う、最悪の密室。
そこで、俺の霊核から溢れ出す異常なエネルギーを餌にするように。普段は俺の力を抑えるために、ちんまりしたマスコットみたいな姿で誤魔化してた連中が。一人残らず、眩い光の繭に包まれていく。
『我が王よ。風が、本来の翼を取り戻します』
『ルークさま。どうか、驚かないでくださいね』
光の奔流が、空間のどす黒い魔素を強引に押し退ける。祭壇から噴き出す闇の圧力を跳ね返すほどの、圧倒的な神聖な気配。
パキッ、パリィィンッ!
ガラスが割れるような音と共に、八つの光の繭が、次々と弾け飛んだ。
「……マジかよ」
俺は、思わず息を忘れて、その光景を見上げた。
世界の心臓部で。ずっと一緒に馬鹿やってきた相棒たちが。
かつて世界を創り、理を回していた、神々しい本来の姿を、ついに取り戻そうとしていた。




