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第195話  帰るべき場所

 国境を越えた。


 それだけのことなのに、足が石みたいに重い。泥が乾いて固まったブーツの底が、石畳のひとつひとつに噛みついてくる感覚。まるで地面の方が、俺を引き止めたがってるみたいだった。


 目指してきたのはグレイウッド。王都ソルネリアからほど近い、世界樹の根っこの上に広がる俺のホームタウンだ。スローライフ。美味い飯。昼寝。ちっぽけで当たり前の、それだけの日常があった場所。


 なのに。


「……なんだこれ。要塞かよ」


 誰かが言った。カインか、俺か。わからない。


 街道には荷馬車が列をなして、武装した兵士たちが足早に交差してる。田舎町のほのぼのした空気なんて、どこにも残ってなかった。ガルドリアが落ちたせいで、グレイウッドはもう「平和な街」じゃない。東側を守るための後方支援基地に、すっかり変わり果てちまってた。


 すれ違う兵士たちが、ちらりと俺たちを見る。泥だらけでボロボロの集団を見ても誰も怪しまない。ただ、「あっちから生きて帰ってきた手合いか」みたいな、同情と恐怖を半分ずつ混ぜたような視線を投げてよこすだけだ。


 銀髪に変わったエリシアを背負ったフェデが、足をもつれさせながら歩いてる。俺も。カインも。ノルンも。バルドランの親父さんも。体力とかそういう話じゃなくて――心の方が、もう、擦り切れてた。


 裏通りに入ると、少しだけ息ができた気がした。


 表の殺気立った空気とは違って、こっちにはまだ、煮込み料理の匂いと薪の煙が漂ってる。昔の匂いだ。ずっと昔の。


 見えた。


 古びた木の看板が、風に揺れてキイキイ鳴ってた。


 宿屋《月下葡萄亭》。


 この世界に来て最初に、「ここなら生きていけるかもしれない」って思った場所。世界を救う拠点でも、伝説の武器が眠る場所でもない。ただの古びた宿屋だ。それでも今の俺たちには、ここが世界の中心だった。


 ドアノブに手をかける。


 冷たい金属の感触が、異様にくっきりと指先に伝わってきて、なぜか手が震えた。


 カラン、コロン。


 ベルの音が、妙に大きく響いた。店内は暖色の灯りで満ちてて、厨房からはトントンと包丁の音、コトコトと鍋が鳴る音。夕飯の仕込みの時間帯だ。


「へいへい、いらっしゃい。悪いねぇ、今ちょっと仕込みで――」


 奥から出てきたのは、ふくよかな体型にエプロンをつけたおばちゃん。女将のマルタさんだ。手にはお玉を握ったまま、こっちを向いて。


 動きが止まった。


 俺たちの姿を見るなり目を見開いて、持っていたお玉を落とした。カチャンと乾いた音が床を転がる。


「……あんたたち」


 マルタさんの声が揺れてる。無理もない。俺たちの格好は酷いもんだった。鎧はひしゃげてるし、服は血と泥でカピカピで。何より顔だ。今の俺たちはきっと、幽霊みたいな顔をしてた。


「……よく、生きて戻ったねぇ」


 その一言だけだった。


 怒るでも、事情を問うでもなく。ただ生きてることを、それだけを肯定する言葉。


 その瞬間、胸の中で張り詰めてた何かが、プツン、と音を立てて切れた。


「……ただいま、マルタさん」


 声が掠れてた。情けないくらいに。


 マルタさんは何も言わずに厨房へ消えると、すぐに大鍋を抱えて戻ってきた。もうもうと湯気が立つ、野菜と肉がたっぷり入ったシチュー。それと焼きたての黒パン。


「食べな。話は腹が膨れてからだ」


 強引にテーブルに座らされた。フェデは人間の姿に戻る余裕もないまま、足元のラグの上にドサリと倒れ込む。マルタさんが、そのフェデの鼻先にも大きな皿を置いた。


 俺は震える手でスプーンを握った。温かい。木のスプーンのくせに、火傷するくらい熱く感じた。


 一口、スープを啜る。


 野菜の甘みと、肉の脂の旨みが喉を通った。西の戦場で齧った砂利みたいな携帯食料とは違う。これは生活の味だ。「生きろ」って怒鳴られてるみたいな、暴力的なくらいの優しさの味だ。


 ガチャン。


 隣で食器がぶつかる音がして、振り返った。


 カインがテーブルに突っ伏してた。肩が激しく揺れて、喉の奥から、獣みたいな嗚咽が漏れてる。


「……う、あぁ……ッ!」


 涙がスープの皿に落ちて、小さな波紋を作ってた。スプーンを握りしめたまま、顔を上げようとしない。


「……守れなかった……!」


 絞り出すような声。


「副団長を……オスカーさんを……俺たちだけ、のうのうと……!」


 カインの拳がテーブルを叩く。見てるだけで痛い。


 違う、と思った。


 オスカーは俺たちを逃がすために死んだんじゃない。あいつは――俺たちを殺そうとした。国を焼いて、王を殺して、魔王軍の副将として俺たちの前に立ちはだかった。俺たちが逃げてきたのは、あいつの死からじゃない。あいつの闇からだ。総団長のアウストレアさんが命を燃やしてこじ開けてくれた退路を使って、俺たちは、堕ちてしまった仲間を置き去りにして逃げてきた。


 その事実が、温かいスープを飲むたびに、喉の奥に棘として刺さってくる。


「……くそッ! なんでだよ! なんであんな……ッ!」


 カインの慟哭が店内に響いた。彼にはまだ、オスカーが完全に向こう側へ行ったという事実が飲み込めていないんだろう。優しかった副団長。完璧だった副団長。その人がなぜ王都を焼いたのか。なぜ俺たちに刃を向けたのか。


 ノルンはいつもの眠たそうな顔はどこへやら、唇を固く噛んで俯いてた。バルドランの親父さんは何も言わずにジョッキを煽ってるけど、目尻が赤くなってた。銀髪のエリシアはスープの湯気をただ静かに見つめてて、その瞳の奥には俺には計り知れないものが渦巻いてた。


 俺は……どうだ。


 泣きたいか。叫びたいか。


 ああ、叫びたい。ふざけんなって。なんであいつがあんな目に遭わなきゃならないんだって。精霊王の力? そんなもんを手に入れても、結局、たった一人の仲間が道を踏み外すのを止められなかったじゃないか。


『……ルーク』


 懐からヴァルが小さく呼んだ。熱い。こいつの炎が、俺の胸を直接焦がすみたいに熱い。悔しいだろ、お前も。俺の力が足りなくて、あいつを連れ戻せなかったことが。


 足元で、フェデが小さく「くぅん」と鳴いた。


 泥だらけのまま、安心しきった顔で眠ってた。こいつもボロボロだ。俺を守るためにあの黒い炎の中に飛び込んで、傷だらけになって。それでも、ここは安全だってわかってるから泥のように眠れる。


 俺はフェデの頭を撫でた。ゴワゴワした毛並み。土の匂い。温かい体温。


 生きてる。俺たちは、生きてるんだ。


 顔を上げると、食卓の向かいに空いた席があった。何もかもうまくいっていたなら、あそこにはオスカーが座っていたかもしれない。「品のない食べ方だな」とか何とか文句を言いながら、それでも美味そうにシチューを食って、完璧な笑顔を見せていたかもしれない。


 ……いや、違う。


「たられば」なんて、負け犬の妄想だ。現実は、あいつはあっち側にいて、俺たちはこっち側にいる。魔王軍の副将と、それを討つべき騎士団。それだけだ。


 だから。


「……食え、カイン」


 スプーンで皿を叩いた。カインが、ぐしゃぐしゃの顔を上げる。


「え……?」


「泣いてもいい。喚いてもいい。でも食え。スプーンを止めるな」


 自分にも言い聞かせながら、シチューを口に運んだ。味がする。美味い。生きるための、それだけの味がする。


「食って、寝て、傷を治せ。……こんなところで終わってたまるかよ」


 空席の椅子を睨んだ。そこに、あの嫌味な副団長の、黒い鎧をまとった幻影を見た。


「迎えに行くぞ」


 腹の底から絞り出した声だった。


「あの大馬鹿野郎をぶん殴って、首根っこ掴んで、こっち側に引きずり戻す。……それが、生き残っちまった俺たちの、これからの仕事だ」


 カインが袖で乱暴に涙を拭った。ノルンが、小さく頷く。エリシアがスプーンを手に取った。その手は微かに震えてたけど、もう迷いはなかった。


 俺たちは無言で食事を続けた。


 咀嚼の音。涙をすする音。それだけが店内に響いてた。敗北の味かもしれない。でも、再び立つための燃料の味でもあった。


 窓の外、夜が更けていく。東の空にはまだ星が見えない。だけど朝は来る。必ず。イーストリムは黎明の地だ。太陽が昇る場所から、もう一度、足掻いてやる。


 最後の一滴までスープを飲み干して、深く息を吐いた。泥だらけのブーツを脱ぐ。


 今日はもう、寝よう。


 明日目が覚めたら――そこからが、本当の反撃の始まりだ。


 宿屋の灯りが、俺たちの疲れ切った背中を、静かに照らしていた。



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