第107話 黄金の連携(前編)
空気が腐ってる。
息を吸うたび、喉の奥に生乾きの雑巾を突っ込まれてるみたいな感覚がある。気持ち悪い。
眼前にそびえ立つのは――《守護樹》だったナニカ。
デカい。首が痛くなるほど見上げなきゃいけない巨木が、黒い粘液を垂れ流しながらのたうってる。幹の真ん中、パックリ割れた空洞が苦悶に歪んだ口みたいで。そこから吐き出される瘴気が、美しかったエルフの森をどす黒く塗りつぶしていく。
『……おやかた、泣いておる』
肩の上で、土の精霊オルドが呟いた。普段はどっしり構えてる老人口調の彼が、小石みたいに震えてる。
『根が、土を憎んでおる。守るべき大地に拒絶されて――痛いぞ、これは』
「……ああ」
見える。精霊視で。あの木の根、地面の下で血管みたいに張り巡らされてるんだけど、全部がどす黒い魔素に侵されてる。悲鳴を上げながら周囲の霊素を食い荒らしてる。
暴走じゃない。災害だ、あれは。
「総員、散開ッ! 固まるな!」
オスカーの声が響く。喉が裂けそうなほど張り上げてるのに、指示は冷徹なほど的確だ。第二王子にして、セカイジュ騎士団副団長――伊達じゃない、その肩書き。
けど、相手が悪すぎる。
ズオォォォンッ!!
巨大な枝が鞭みたいにしなって地面を叩いた。石畳がビスケットみたいに砕け散る。衝撃波で吹き飛ばされたエルフの戦士たちが、木の葉みたいに舞った。
「ぐあぁぁっ!」
「ひるむな! 魔法部隊、障壁を維持しろ!」
カインが剣を振るうけど、あいつの刃じゃ樹皮に傷一つつけるのがやっと。ノルンの結界も、あの質量攻撃の前じゃ薄紙同然だ。
『旦那ァ、硬すぎだぜあいつ! オレの雷で焦がしても、すぐ再生しやがる!』
雷のアルクが俺の髪の毛の中でバチバチ火花を散らす。
『再生っていうか……泥で傷を埋めてるだけね。不潔』
水のラグが冷ややかに言い捨てた。
再生力が異常なんだ。切っても切っても、黒い泥が盛り上がって元通り。
ジリ貧だ、これじゃ。
その時。絶望的な灰色の戦場を、一条の光が切り裂いた。
「――はあああぁぁっ!」
エリシアだ。勇者エリシア・リュミエル。彼女の全身から溢れる光の霊素は、この汚れた空気の中で唯一、目が焼けるほど眩しい。聖剣が残像を残すほどの速度で振るわれる。
ズバッ! ギィン!
凄まじい剣技。俺たちの攻撃を弾き返してた太い根を、枯れ枝みたいに容易く切断していく。
「おおっ、エリシア様!」
「勇者様が道を切り開いてくださる!」
エルフたちが歓声を上げる。絶望の淵で見つけた蜘蛛の糸みたいに、彼女の背中にすがりついてる。
でも――見えてる、俺には。彼女の光が、蝋燭の最後みたいに揺らいでるのが。
「無理してる」
『うむ。あの娘、自分の命を燃料にして燃やしておるな』
オルドが重々しく言う。
本来、精霊の力は借りるもんだ。空気中の霊素を集めて、増幅して放つ。けど今のこの森は魔素が濃すぎて、まともな霊素が少ない。だからエリシアは自分の魂にある備蓄タンクを削って、無理やり光を作ってる。
削れるわけがない、あんな量。
「くっ……!」
エリシアの足が止まった。一瞬の隙。魔物と化した守護樹が、それを見逃すはずがない。
ゴォッ!
切断されたはずの根が黒い泥を噴き出しながら急激に膨張して、槍みたいに鋭く変形した。狙いはエリシアの心臓。
回避? 間に合わない。防御? あの聖剣じゃ受けきれない質量だ。
「エリシアッ!」
叫んでた、俺は。足が勝手に動く。フェデ、行けるか?
「わふっ!」
足元に飛び込んできたフェデの背中に手をかける。思考するより先に体が反応してる。
隠蔽? Dランク? 知るかよそんなもん。あいつが死ぬのを見てるくらいなら、バレて逃亡生活するほうがマシだ。
フィオ、加速を!
『御意! 我が王よ、風に乗られませ!』
体が羽毛みたいに軽くなる。
けど、俺より速く。俺より、迷いなく――その場所に飛び込んだ男がいた。
ガギィィィィィィィンッ!!
耳をつんざくような金属音。火花が散る。巨大な根の槍を受け止めたのは、一枚の分厚いタワーシールド。
そしてその向こうで歯を食いしばる、金髪の男。
「……オ、オスカー……!?」
エリシアが目を見開いてる。オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。
あいつが、エリシアの前に割り込んでいた。
「ぐ、ぅぅぅぅぅ……ッ!」
オスカーの足が石畳にめり込んでいく。膝が笑ってる。腕の血管が切れそうだ。相手は城壁を砕くような質量攻撃だぞ?人間が受け止めていい重さじゃない。盾からミシミシと嫌な音がしてる。ドワーフの国で新調したばかりの業物のはずなのに、それでもひしゃげ始めてる。
『おいおい、あの王子! 死ぬ気かよ!』
炎のヴァルが叫ぶ。
『霊核、もう空っぽだぞ! 精神力だけで立ってやがる!』
そうなんだ。昨日からずっと、こいつは気を張ってた。エルフに冷遇されて、俺とエリシアのことで嫉妬して、プライドをズタズタにされて。
それでも、今――盾になった。
勇者を守るための、ただの頑丈な壁に。
「下がるな……ッ!」
オスカーが吼えた。血の味がしそうな声だった。彼の背中から炎の精霊グランの力が揺らめき立つ。でもそれは敵を焼くための炎じゃない。自分を焦がして、その場に釘付けにするための――悲壮な炎だ。
「私が……支えるッ!」
盾が軋む。骨がきしむ音がする。それでも一歩も退かない。エルフたちの前で。部下の前で。そして誰より意識していたエリシアの前で。泥にまみれて、顔を歪めて、必死に耐えている。スマートな王子様の仮面なんて、とっくに剥がれ落ちてる。
でも――今のあいつは、今まで見た中で一番、騎士だった。
オスカーが顔を上げた。その目が俺を捉える。冷たい目じゃない。嫉妬に濁った目でもない。そこにあるのは極限状態の戦士が、唯一信頼できる戦力に向ける「要求」の光。
「ルークッ!!」
名前を呼ばれた。上官からの命令だ。
「お前は――隙を作れッ!」
あいつは知ってるんだ。俺がDランクなんかじゃなくて、規格外の何かを持ってるってことを。言葉にしなくても、肌で感じてたんだ。だから今、あいつは自分の命を賭けた。俺が応えると信じて。
「勇者殿ッ! トドメをッ!」
オスカーの絶叫が、戦場の空気を変えた。
心臓が跳ねる。熱いものがこみ上げてくる。
ああ、もう――わかったよ。ここまでお膳立てされて、やらないわけにはいかないだろ。
「フェデ!」
「わふっ!」
「ヴァル、フィオ! ちょっとだけ本気出すぞ! バレない程度に、でも最大出力で!」
『おうよ! 燃えてきたぜルーク!』
『承知いたしました、我が王』
俺は走った。オスカーが作った、最初で最後のチャンス。この一瞬に、全部を叩き込むために。




