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第106話  堕落した守護樹

 朝ってのはさ、もっとこう無条件に爽やかであるべきだと思うんだよ。小鳥がさえずって、木漏れ日がカーテンを揺らして、昨日の泥みたいな疲れなんて嘘みたいに消えていく――そういうのが、朝だけに許された特権じゃなかったか?


 なのに、なんだこの胃の腑に鉛を詰め込まれたような重苦しさは。


 エルフのエルシェリアの朝は、ねっとりと湿った沈黙に首根っこを掴まれていた。物理的な湿気じゃない。視線の湿度だ。肌にじっとりと張り付く、拭っても取れない不快感。

 俺たち人間に向けられる目が、昨日よりもさらに冷え込んでいる。単に冷たいだけならまだマシだった。底なし沼みたいに暗くて、光の届かない冷たさ。


 特にオスカー殿下への当たりときたら――傍で見ているこっちの胃が痛くなる。


「……おはよう、ルーク。よく眠れたか?」


 食堂で顔を合わせたオスカーが、非の打ち所がない笑顔でティーカップを傾けている。軍服の着こなしひとつ乱れていない。背筋も定規で引いたようにピンと伸びている。寝癖ひとつない金髪、優雅な指先。まさに絵本から抜け出してきたような、理想的な貴公子そのもの。


 でも、怖いんだよ。

 何がって、その笑顔に温度が一ミリもない。

 目元も口元も完璧に笑っている形をしているのに、ガラス玉みたいに光を反射するだけで、その奥底が全く見えない。能面を、地肌の上に無理やり張り付けたみたいだ。


『……臭ぇな』


 肩の上で、炎の精霊ヴァルがパンの欠片をかじりながら低く呟く。鼻を鳴らす仕草が、ひどく不機嫌そうだった。


『昨日までは「焦げた矜持」の匂いだったが……今朝はもっとこう、腹の底で腐り落ちた泥みてぇな匂いがしやがる。中身がスカスカだぞ、あいつ』

「やめろって、そういう言い方」


 唇だけで小声でたしなめる。けど、精霊の鼻は嘘をつかない。

 昨日の夜、月光泉でエリシアと俺が一緒にいるところを見られたかもしれない。やっぱり、決定的に何かを傷つけちまったんだろうか。


 オスカーは完璧な「副団長」を演じ続けている。演じることでしか、自分を保てないかのように。

 あとから起きてきたカインやノルンに爽やかに挨拶し、今日の予定をテキパキと指示する。淀みなく、迷いなく。

 その姿が、痛々しいほど孤独に見えた。

 仮面の下でダラダラと血を流していることに、周囲の誰も気づかないふりをしているみたいで――胸が詰まる。


 異変が起きたのは、俺が冷めたトーストを口に運ぼうとした、まさにその瞬間だった。


 ズズズズズ……ッ!


 地面が、唸った。


 揺れたなんてもんじゃない。森全体が断末魔の悲鳴を上げたみたいに、空気がビリビリと震えたんだ。テーブルの食器がカチャカチャと踊り出し、カップの中身が跳ねてクロスを汚す。


「なっ、地震!?」


 カインが椅子を蹴倒して立ち上がる。


『違いますよぉ……これ、地面の下から突き上げてくる音です』


 ノルンが長い耳をピーンと立てて、窓の外を凝視した。獣人の鋭敏な感覚が、異常な何かの接近を捉えている。肌が粟立つような、嫌な予感。


 次の瞬間、都中に警鐘が鳴り響いた。


 カンカンカンカン! 

 脳髄を直接ハンマーで叩くような鋭い金属音。


「敵襲か!?」


 オスカーが叫んで、誰よりも早く飛び出す。思考するより先に体が動く、その反射神経だけは戦士のそれだ。俺たちも慌てて装備を掴んで後に続いた。フェデが「わふっ!」と短く吠えて、俺の足元を黒い風のようにすり抜けていく。


 外に出た瞬間、目に飛び込んできたのは――絶望的なまでの「大きさ」だった。

 都の北側。絶対不可侵の聖域とされている森の区画から、どす黒い煙が噴き上がっている。で、その煙の中から、山みたいにデカい何かが、のっそりと起き上がろうとしていた。


 木だ。

 でも、ただの木じゃない。

 幹の太さが城壁くらいある超巨大な古木。枝の一本一本が伝説級の大蛇みたいにうねっていて、本来なら瑞々しい緑色に輝いているはずの葉が、酸化した血のような赤黒い色に変色している。幹の中央には、苦悶の表情を象ったような巨大なウロがぽっかりと口を開け、そこからドロリとした粘液が滝のように垂れ落ちていた。

 生理的な嫌悪感を催す、死と腐敗の塊。あまりにも冒涜的な光景。


「あれは……まさか、守護樹様!?」


 近くにいたエルフの兵士が、顔面蒼白で叫んだ。声が震えている。

 守護樹。この森を数千年前から守り続けてきたっていう、生きる伝説みたいなトレント。エルフたちの信仰の対象であり、彼らの魂の拠り所。

 それが今、全身から猛毒の瘴気を撒き散らしながら、自分たちが守るはずの都に向かって進撃を開始していた。

 守り神が祟り神になるってやつかよ。冗談じゃない。


『うわ、最悪。あれ完全に中身腐ってるわ』


 水のラグが、俺の耳元で淡々と、冷徹に分析する。


『魔素の浸透率、測定不能。根っこから吸い上げちゃってますね、毒を。もう手遅れです』

『おやかた! あれは……土の霊脈が詰まって、毒が回った成れの果てじゃな。悲しいことよ』


 土のオルドが沈痛な声を出す。


 精霊たちにとっても、森の王の堕落は見るに堪えないものらしい。守り神が、自分たちを殺す悪魔に変わる。そんなの、悪夢以外の何物でもないだろ。


「総員、迎撃体勢! 民を中央広場へ避難させろ!」


 オスカーの声が響く。混乱の坩堝と化した現場で、即座に指示を出せる判断力は流石だ。

 でも、エルフたちは動かない。


「人間の指図など受けん!」

「我らで守護樹様を止める! よそ者はすっこんでいろ!」


 パニックになったエルフの戦士たちが、オスカーの制止を無視して突っ込んでいく。統率も連携もあったもんじゃない。ただの自殺行為だ。

 オスカーの表情が、一瞬だけピクリと強張るのが見えた。指揮官としての正しさが、種族の壁という理不尽に弾かれる虚無感。

 そこへ、一陣の白い風が走る。


「下がってください! 無闇に近づけば汚染されます!」


 エリシアだ。

 彼女はすでに武装し、まばゆい光の霊素を身に纏って最前線へ走っていた。汚泥のような瘴気の中で、彼女だけが輝く星のように美しい。


「おおっ、エリシア様!」

「勇者様だ! 勇者様がお守りくださる!」


 エルフたちが歓声を上げる。さっきまでの絶望が嘘みたいに、彼らの顔に希望が灯る。

 その光景を見て、オスカーが唇を噛んだ。血が滲むほど強く。

 まただ。また、彼女だけが輝く。

 俺たちが泥を被って作った土台の上で、彼女だけが全ての視線と称賛を攫っていく。

 その事実は、彼の矜持をどれだけ削り取っただろう。


「……カイン、ノルン! 我々も出るぞ! 勇者を孤立させるな!」


 それでもオスカーは叫んだ。

 私情を押し殺して、嫉妬をどろりと飲み込んで、騎士としての役割を全うしようとする。その悲痛なまでの義務感が、俺には危うく見えた。いつかパキンと割れてしまいそうで。


「は、はいっ!」


 カインが剣を抜き、ノルンが杖を構える。俺も、フェデと一緒に走り出した。

 現場に近づくと、そのデカさに改めて圧倒される。

 足元――というか根っこが、這いずり回る生き物みたいに地面を抉りながら進んでくる。一歩踏み出すごとに石畳が砕け散り、家屋が安っぽい紙細工みたいにひしゃげていく音が鼓膜を揺らす。


『旦那ァ、あいつの足元! 根っこが地面から直接魔素吸い上げてやがるぜ! ありゃ無限再生するタイプだ、厄介だぞ!』


 雷のアルクがバチバチと火花を散らす。


「マジかよ……あんなデカいの、どうやって斬るんだよ!?」


 カインが悲鳴じみた声を上げる。剣を持つ手が小刻みに震えているのが見えた。

 無理もない。相手は山だ。動く災害だ。


「カイン、ビビるな! お前なら斬れる!」

「う、うっす!」


 俺たちは死地へ飛び込んだ。

 エリシアが先行して光の刃を飛ばしているが、守護樹の枝は無数にある。鞭みたいにしなる枝が、四方八方から彼女を襲っている。一本一本が太い丸太のような質量兵器。当たればミンチになる。


「くっ……!」


 エリシアの動きが鈍った。連戦の疲れか、それとも瘴気が濃すぎるのか。

 枝が彼女の背後から迫る。


「展開ッ! 炎の防壁!」


 オスカーが前に出る。大盾を構え、炎の精霊グランの力を借りて熱の障壁を展開する。


 ドガガガガッ!


 凄まじい衝撃音。無数の枝が結界に突き刺さり、ガリガリと削っていく。火花が散り、熱波が顔を焼く。

 オスカーの足が地面にめり込む。土煙が舞う。


「ぐぅ……ッ!」


 顔色が悪い。昨日から霊素を消耗しっぱなしのはずだ。限界なんてとっくに超えている。

 それでも彼は一歩も退かない。

 その背中は、頼もしいはずなのに――どこか、今にも折れてしまいそうな硝子細工のような危うさを孕んでいた。


 ズオォォン……!


 守護樹が耳障りな咆哮を上げた。

 それに応えるように、周囲の地面から次々と黒い根が噴出し、戦場全体を覆い尽くしていく。


 オスカーの防壁がミシミシと軋む。エルフたちはパニックになり、エリシアも複数の触手に囲まれて身動きが取れなくなっていく。


 圧倒的な物量。無限の再生力。

 このままじゃジリ貧だ。すり潰される。


 オスカーは歯を食いしばりながら、チラリとこちらを見た。

 虚ろな目じゃない。焦燥と、意地と、微かな「期待」が入り混じったような、必死な目だった。

 まだだ。まだ諦めてない。

 あいつが折れてないなら、俺たちが退くわけにはいかないだろ。


 俺はフェデの首筋を掴み、剣の柄を指が白くなるほど強く握りしめた。

 最悪に長い一日が、始まろうとしていた。


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