移動
「ぼやぼやしてると、予定の時間に遅れるわ。」
「今行く。」
靴紐を結んで、大きなトランクを持って出た。空港へと向かうとたくさん人がいた。この中で一生ですれ違う人がほとんどだろう。合う人と合わない人どっちもいるはずだ。カウンターの待ち時間そんなことを考えていた。
「あれ?小説家のケヴィン・デ・スメットじゃない?まさか私達と同じでプラハに行くの?」
「今日たまたま、荷物の中に彼のデビュー作「霧の中の葛藤」持ってるのよ!」
「えー!何て良い日なの?チェクイン終わったら一緒に本にサインしてもらおうよ!」
どうやら同じフライトを使う客に、俺の作品の熱狂的なファンがいた。熱狂的なファンは俺の顔も知ってる。数々サイン会や講演など出てるからネットに顔が載るのも無理はない。
「あなたのファンがサイン待ってるよ。ちゃんと仕事しないね。」
ハンネは笑いながら俺をからかった。
「書けば良いんだろ?」
「そんな面倒くさい感じだしてたら、ショック受けるわ。」
まだまだ俺をからかい続ける。
「とにかくまずはチェクインすませないと。」
「その後、あなたが好きな仕事が待ってるわ。ヴァカンスなのにね。」
チェクインはスムーズに進んだ。その後、色んなお店を回った。
「香水のサンプル渡されたけど要らないわ。私、行きつけの所あるし。」
観光でイギリスに来た人達が香水を買い漁っていた。
「本当に良いと思うものはここにはないわ。」
彼女は自分に合うものをよく理解していた。
「ねえ、あそこにいるよ。見つけたわ。」
「本当だ。ケヴィン・デ・スメットだわ。今がチャンスよ。」
二人の女性が俺たちの方に近づく。
「いつもあなたの小説出る度に買ってます。昔からファンなんです。ここにサインお願いします。」
俺は言われた通り、サインをした。
「ありがとうございます!次の作品、楽しみにしてます。」
彼女達は終始笑顔で喜んでいた。
「次の作品か…」
「相変わらず人気者ね。売れっ子は大変ね。」
ハンネとは高校の時の同級生で、図書館で俺達は知り合う。本を交換していくうちにお互い惹かれ合い付き合った。今でも俺達は昔の本を持ってる。文学少年と文学少女のカップルなんてよくある話だ。
「あなたのデビュー作持ってるなんて。熱狂的なファンね。私もあなたのデビュー作好きだわ。」
「彼女達に嫉妬してるのか?」
「そう見えるかしら?」
こっちを向いて、ハンネはにっこりと笑った。同時に俺も笑った。
「デビュー作が出た時、初めてサインしたのはハンネだけどね。」
最初のデビュー作「霧の中の葛藤」は主人公、ポールは目の前の見えない霧の中に迷い込み身動きが取れなくなる。ちょうど他に7人の男女が霧の中で迷い込んでいた。お互いの声が聞こえるものの、顔も身体も見えない中8人で深い霧から脱出する話だ。脱出方法を考えながら気分転換に数々のクイズを出し合い答えていく。
「こんな何もない所で気分転換するなんて、変わった設定ね。」
「人は無というのを嫌う生き物だからな。俺もその状況になったら無からの脱却を願うばかりだろう。」
久しぶりに、ハンネと「霧の中の葛藤」について議論しあった。
「君の作品の「鳥の反抗」も良い作品だけどな。」
「まだ、覚えててくれてたのね。昔のように小説は書けないわ。」
「君にはまだまだ能力がある。」
「今は書くときじゃないわ。筆が動かないわ。」
その頃、女性たちは音楽の話をしていた。
「何?こんなの聞いてるの?」
「90年代の音楽カッコいいじゃん。今の音楽は商業的で聞く気になれない。斬新なアイデアを持つアーティストが確実に減ったわ。」
「そんなアーティストばかりじゃない。ブレてないアーティストだってたくさんいるわ。知らないだけで。」
「そうだと良いわ。」
「クロエ、あんた生まれ時代間違えてるわ。」
「生まれる年に正解も不正解もないわ。時代は生み出すものだから。」
女性たちはそんなことを言い合いながらイヤホンをしながら90年代の音楽を聞いていた。
「あら、ヒップホップとか聞くの?私の子供の時に活躍したアーティストね。昔の音楽知ってるね。あと言い忘れたけど、私ケヴィンの妻ハンネよ。」
彼女達のイヤホンをとって、ハンネは勝手に音楽を聞いた。
「いきなりビックリしますよ。」
2人の女性は笑っていた。
「私の年代じゃないけど80年代とかも聞くわ。」
ハンネは彼女達にペットショップボーイズのCDと一緒に彼女作品の「美しき学校」を渡した。
「私が昔に書いた作品よ。あなた達にあげるわ。」
「ありがとうございます。」
俺はハンネの手を掴んで、小声で言った。
「そんな簡単にあげていいのか?」
「あなたのサインの代わりのようなものよ。家にもう一つあるし、捨てずに済んだわ。」
飛行機に乗ると3人掛けで隣に高齢の女性が座った。
「あんた達もプラハでヴァカンス?私もよ。プラハなんて5年ぶりに行くわ。1年前に夫がいなくなってから私は一人。借金ばかり残して死ぬなんて、良い逃げ方ね。昔からそんな人だった。死んだら向こうの世界で見つけ出して全部借金返して貰うんだから。でも今は違う。楽器だってはじめたし、色んな所を旅行してる。夫の人生じゃなくて私の人生を生きるわ。」
その女性はひたすら身の上話をした。歳の割にはすごいパワーのある女性だった。多分旦那さんがいた時よりパワーがあるのだろう。俺は聞いてもないので、話すつもり無かったが、ハンネが答えてしまった。
「ケヴィンがそんな死にかたしたら、そんなんじゃすまないわ。生き返ってもらって、たくさんの遺産用意してもらうんだから。」
「おいおい、借金残して死ぬなんて決まってないだろ。欲がむき出しだな。」
「例え話よ。」
思わず、3人で笑ってしまった。
しばらくすると、その高齢女性もハンネも眠りにつき、一人で映画を見た。インド映画だった。インド映画は踊っている場面が多いものだ。映画を見終わったら、あっという間にプラハについた。ヴァーツラフ・ハヴェル国際空港も同じくらい人で賑わっていた。タクシーを使ってプラハ市内の別荘に向かおうとした。タクシーから外を見るとどこか中世の時の輝きがまだ残っている感じだった。
「着きましたよ。ここで良いんですよね?」
タクシーの運転手にチップを渡して、別荘の鍵を開けて、荷物をまとめて置いた。半年間いるもんだから結構な荷物だった。別荘にはしっかりキッチンが備えられていた。
「素敵な別荘ね。」
「半年間のヴァカンスにピッタリだろ!」
「キッチンも広いし、空気も心地良いわ。」
ハンネはとても満足してる様子なのが顔に出ていた。その様子を横で微笑みながら見ていた。これから予想の出来ない奇妙なことがはじまる。