Extra Vehicular Activity①
「起きて……ねぇ、起きて……」
寄せては返す波のように誰かの声が遠く、近くに聞こえる。決して大きくはないが、耳に馴染んでいるその声はどこか心地良く、本間遥斗は揺り籠に揺られるように微睡んでいた。
「起きて、遥斗……」
――いや、どうやら実際に体を揺すられているらしい。
声と同様、か細い腕で俺を起こそうとしているのは、隣の家に住んでいる紫乃だ。年は一つ下だが、家が近いこともあって昔から家族ぐるみの付き合いをしていた。
「遥斗、いい加減に起きないと遅刻する……」
〈ウソつけ……そう言っていっつも一時間前には起こしに来るじゃないか〉
紫乃はほとんど毎朝6時半にはウチにやってきては、勝手に朝食のパンを焼いたり洗濯機を回したりしている。
〈まったく貧血持ちのクセに、いったいどこにそんな体力があるんだか……〉
目覚ましが鳴るまでは絶対に起きないと心に決め、布団を頭まで引き上げた。しかし今朝の紫乃はなかなかに強情で、俺の体を揺する力が段々と強く激しくなっていく。
〈分かった、分かった! 起きるから、待って紫乃――!〉
初めは心地良かったリズムが激しい縦揺れに変わり、遥斗の体はベッドから転げ落ちてしまった。
一瞬の浮遊感を味わいながら、遥斗は目をつぶって次に来る衝撃に備える。
……しかし、いつになっても固いフローリングの感触はおろか、落ちていく感覚すら無い。
奇妙に思った遥斗は恐る恐る目を開けた。
「こ、ここは……どこだ!?」
けたたましいアラームが鳴り響く中、目を覚ました遥斗の目の前に広がっていたのは、悪夢と見紛うばかりの奇妙な光景だった。
窓ガラスに沿って緩やかにカーブを描くその部屋は実験室か何かのようだ。警告灯が点滅するたび、手術台や金属製の器具、ガラス瓶に入れられた動物や植物の標本が現れては消える。だが、真に奇妙なのは遥斗自身も含め、部屋の中のものが全て宙に浮いて漂っていることだった。薄気味の悪いアイテムが暗闇の中に浮かんでいる様は趣味の悪い現代アートのようにも見える。
〈ここは……あのUFOの中か?〉
夢の中で高校時代にトリップしていた遥斗の記憶がようやく現在に繋がる。もっとも、夢と現実が逆だった方が良かったかもしれない。自分はあの〝秘密基地〟で確かに〝空飛ぶ円盤〟を目撃し、そして第四種接近遭遇されてしまったのだ。
一九七四年、イングランド中部に住む男性が自転車で友人の家に向かう最中、眩しい光を見た直後、奇妙な時間と記憶の途切れを経験している。本来なら二十分とかからない距離のはずなのに、友人宅に着いてみれば二時間も経過していたという。
不可解な出来事は更に続く。事件後、男性の腕には長さ一センチ、幅三~四ミリほどの突起のようなものができており、彼が近づくとレジやテレビが誤作動を起こしたという。
更に二〇一三年にはアメリカ・ワシントンで『シチズンズ・ヒアリング・ディスクロージャー公聴会』が開かれた。各国の退役軍人や元政府関係者が多数参加し、一般にも公開されたこの公聴会では「自分たちが UFO 、あるいは異星人に誘拐されたと主張する十七名の患者」の体内からダイヤモンドの工具でも切断することができない謎の金属片を摘出したと報告されている。
〝空飛ぶ円盤〟は地球に飛来してきているだけではない。地球人をさらって実験をしたり機械をインプラントしたりしているのだ――。
そんな気味の悪い想像をかきたてるには十分すぎる光景が目の前には広がっている。警告灯の真っ赤な光に照らされ、鈍い輝きを放つメスや鉗子が目の前を漂っているのを見て、遥斗は生理的な恐怖を覚えた。
幸い、今のところ体に異常はない。
だが、着ている服がいつの間にか白い麻のシャツにジーンズではなく、黒いつなぎのようなものに変わっているのには驚いた。
つま先から首筋まで全身にフィットしつつもしなやかで保温性に富んだ着心地はダイビングで着用するウェットスーツにも似ている。フードのように背中側に垂れ下がったフルフェイスのヘルメットやそこからチューブが伸びているところを見ると、異星人の宇宙服のようなものを着せられたのかもしれない。
靴底や手の平に弱い磁石か吸盤でも仕込まれているのか、無重力の中でも真っ直ぐに立ったり、何気なく壁に手を着いたりしても反動で飛ばされずに済んでいる。
そのまま壁を伝って窓の方まで歩いていこうとした瞬間、不意に部屋全体が右に傾いた。
否、正確には部屋の中にある物が、大きな物も小さな物も同じ速度で一斉に左へ移動し始めたのだ。当然、遥斗の体も左側の壁に引き寄せられた。それはちょうどバスに乗っていて、曲がる方向とは逆に体が引っ張られる感覚に似ている。しかし遥斗には掴まるべきつり革も、踏ん張れる足場も無い。
「うわぁああ!!」
まるで風に吹かれる木の葉のように遥斗の体は回転し、ガラス瓶や実験器具に頭をぶつけながら、そのままガラス張りの壁に叩きつけられた。瞬間、衝撃で目の前に星が散る。
「痛っ~!」
うつ伏せのまま窓に倒れるという奇妙な平衡感覚をリセットするように頭を二、三度振る。しかし痛みが引いても、視界の中でキラキラと輝く小さな光の粒は消えなかった。
〈宇宙だ……!〉
遥斗はおもわず窓ガラスを覗き込んだ。その数センチ向こう側に本物の宇宙が広がっている。
地上で見るのとは比べ物にならない数の星、星、星、星――!
色とりどりの星が無数に集まり、まるで光でできた点描画のようだ。中には今まで写真でしか見たことが無かった星間物質の雲が鮮やかなグラデーションを描いているのまで見える。
遥斗は目の前の光景を綺麗だと思う反面、言いしれない恐怖も同時に覚えた。
これだけ光が集まっているにもかかわらず、宇宙の深淵はどこまでも広く深い。あまりのスケールの大きさに、今にもガラスを突き破って吸い込まれてしまいそうだ。
無意識に顔を近づけた瞬間、目の前でフラッシュを焚かれたように視界が真っ白に染まる。
一瞬、流れ星が近くをよぎったのかと思ったが、宇宙空間には酸素が無い。それに光は直進しているように見えた。
遥斗はガラスに頬をくっつけるようにして光が来た方向に目をこらす。
〈……あれは、宇宙船!?〉
空飛ぶ円盤の遥か後方、星の光を遮るように虹色の燐光放つ物体が見える。光のビームはそこから二度、三度と続けざまに放たれた。
「おいおいおいっ、嘘だろ!? うわぁああ!!」
慌てて窓から飛び退こうとしたが再び部屋全体が傾き、逆に顔が窓ガラスに押し付けられてしまう。かと思えば、すぐに反対側へと体が引っ張られ、浮かんでいた手術台に背中を打ち付けた。まるで乾燥機の中にでも放り投げられた気分だ。重力が無い分、慣性と遠心力に振り回され、床や天井に体をぶつけ、円盤のカーブに沿って窓を転がる。
どうやら自分を拉致ったこのUFOは攻撃を受けているらしい。
〈レーザーを撃ってくる宇宙船なんて、まるでスターウォーズの世界だな……〉
それが良い事なのか、それとも悪い事なのか、フォースの導きが無い遥斗には判断がつかなかったが、とりあえず異星人の宇宙服が見た目よりも丈夫にできていたことに感謝した。あちこち痛みはするものの、骨や内臓は無事みたいだ。
ホッとしたのも束の間、窓ガラスに反射した遥斗の背後から黒い大きな箱が音もなく迫っていた。
「今度は何だ!?」
慌ててその場を飛び退くと、遥斗の身長よりも大きな円筒形の箱が窓にぶつかって硬質な音を響かせた。宙に浮かんだままゆっくりと回転する箱の表面は光沢のある黒い金属板で覆われており、どこなく棺を連想させる。
もっとよく見ようと近づいたその時、不意に箱の表側がこちらを向いて遥斗は息を呑んだ。
それはまさしく棺だった――。
表側は黒い金属ではなく透明な結晶のようなもので覆われており、その中に女の子が横たわっている。
「紫乃――!?」
遥斗は飛びつくように棺の中を覗き込んだ。
白い肌に日本人形のように澄ました表情、笑うと垂れ下がる三日月眉にいたるまで、幼馴染の紫乃にそっくりだ。違うのは髪の色くらいで、黒ではなくアメジストを溶かし込んだような透明感のある紫色をしていた。
〈違う、それに紫乃がこんなトコに居るわけがないじゃないか……〉
あの時〝秘密基地〟に居たのは自分と自分をこんな目に合わせた人物――久遠燈夏だけで、他には誰も居なかった。直前に見ていた夢のせいで紫乃と重ねてしまったのだろう。
そう思い直し棺の中の女の子をよく見ると、身長や体つきも違っていた。目の前の女の子は遥斗が知っている紫乃よりも歳上だ。遥斗と同じ宇宙服を着ているせいで、女性らしい体のラインがハッキリと分かる。
〈もしかしたら紫乃も成長すれば、こんな感じなのかな?〉
重ねた両手の下で膨らんだ胸元を見てふとそんな考えがよぎったが、遥斗は慌てて視線を逸した。
すると、棺の側面に刻まれた刻印が目に入る。
「CIVI――?」
おもわずそう読んでしまったが、これがアルファベットだという確証はない。むしろ、形としては古代メソポタミアで使われていた楔形文字に近いような気もする。
この娘の名前だろうか? 名前までどこか紫乃に似ている。
もっとも、そう読めたというだけでこの刻印がアルファベットだという確証はない。むしろ、形としては古代メソポタミアで使われていた楔形文字に近いような気もする。
古代文明の中には異星人と交流し、高度な科学的技術を授けられたとする――いわゆる『古代宇宙飛行士説』を唱える学者も居る。
純粋だった子供の頃とは違い、そんな俗説を信じる遥斗ではなかったが、今自分が置かれている状況との符合を考えると、あながち与太話ではないのかもしれない。
そんなことを考えながら棺を観察していると、透明な結晶の部分にも刻印が刻まれていることに気付いた。
こちらは文字ではなくかなり大きい。
円の中に小さな点がいくつもあり、線で結ばれている。一見、何かの回路図や星図のようにも見えるが、遥斗はこんな奇妙な星座は知らない。互い違いに伸びる二つの垣根が円の中心を守っているかのようだ。その真下にはちょうどまぶたを閉じた女の子の左目があった。
おもわず上から覗き込んだ瞬間、長いまつ毛の先がピクリと動いたような気がした。
「まさか、生きてる……!?」
目の前の黒い箱は棺ではなく、部屋中に散乱している動植物のサンプル同様、冷凍保存しておくためのものなのかもしれない。
だが遥斗にそれを確かめている余裕はなかった。
突然、それまでにない衝撃が部屋全体を揺らし、あっという間に天地が逆さまになる。どうやらビームが直撃したらしい。遥斗は棺と一緒に反対側の窓ガラスに叩きつけられた。
「痛たたた……」
間一髪、棺の下敷きになるのを免れた遥斗が体を起こそうとしたその真下で、霜を踏みつけたような嫌な音が聞こえた。
見れば、自分がうつ伏せになっている窓ガラスが棺を中心にひび割れている。何度も衝撃を受けて脆くなっていた所へ棺の角がトドメを刺したようだ。
遥斗はなるべく衝撃を与えないようにゆっくりと四つん這いの姿勢になった。部屋が無重力状態では、その慎重さにどれほどの効果があるのか疑問ではあったが、気分の問題だ。
部屋の中がおよそ一気圧なのに対して、このガラスの下にはゼロ気圧の宇宙が広がっている。もし万が一この部屋に穴が開けば、気圧差によって宇宙空間に投げ出されてしまう。宇宙服を着ているとはいえ、命綱も無い状態ではどこまで飛ばされるか分かったものではない。
〈大丈夫……ゆっくり……慎重に……! 窓が割れる前に何かに掴まるか、この部屋を出ればいいんだ。簡単だ! 焦るな、焦るな……!〉
膝がガラスをこすり、手の平で軋んだ音をたてるたび、震えそうになる手足を押さえつけ、ゆっくりと隣の窓に体を移動させる。左半身を移し終え、残るは右手と右足だけになったその時、再び薄氷が砕けるような音が聞こえた。しかも今回は鳴り止まず、まるで蜘蛛の巣のように窓ガラス全体にヒビが広がっていく。
もはや一刻の猶予も無い。遥斗はクラウチングスタートの要領で立ち上がると、窓ガラスから一歩でも遠ざかろうと駆け出した。
直後、シャンデリアが豪快に砕け散ったような音が聞こえ、突風が遥斗の顔をしたたかに打った。猛烈な風が体を押し戻そうとする中、遥斗は腕を振り上げがむしゃらに走り続ける。その背後では一枚、また一枚と窓ガラスが割れ、ブラックホールのように穴が拡大していく。
「ヤバいヤバいヤバいっ、ヤバっ――!」
不意にそれまで聞こえていた破壊の音が鳴り止んだ。
〈え――?〉
足元にガラスは無く、無限の宇宙が広がっている。
遥斗の体は落とし穴にでも落ちたかのように吸い込まれて消えた。