Extra Vehicular Activity②
まったく音の無い世界で、遥斗は自分の心臓の音だけを聞いていた。
猛烈な突風に体をさらわれたのは最初だけで、船外に投げ出された後は風も音も何も感じない。ただ、底の無い暗闇をどこまでも落ちていく。
〈落ち着ついて、少しずつゆっくり息を吐き出すんだ……!〉
人間が急に呼吸ができなくなった場合、本能的に息を止めようとするが、減圧環境ではかえって危険だ。気圧が下がればその分、肺の中の空気も膨張して最悪、破裂する恐れがある。
普段、バイトで受講生に教えているルーティンを反復することで、遥斗はなんとかパニックの瀬戸際で踏みとどまっていた。
とはいえ、先ほどまでの無重力状態とはわけが違う。重力どころか空気も気圧も存在しない真空が遥斗の体から急速に水分と酸素、そして命を奪いつつあった。
両目から脳髄へとノミを入れられるような痛みに襲われながら、遥斗は必死に背中のヘルメットに手を伸ばす。
〈苦しい――〉
体中の水分と一緒に肺がしぼんでいくようだ。
脳からも酸素が徐々に失われ、血管の膨張と相まって頭がガンガンする。しかし涙はとうに蒸発してしまい、破裂した毛細血管からは薄い色の血が滲んでいた。
〈マズい……このままだと減圧症になる……!〉
恐怖が見えない手となって心臓を掴みかけたその時、指先がヘルメットの縁に引っ掛かった。そのまま頭を中に突っ込むようにヘルメットを装着する。新鮮な空気が吹き出す音が聞こえると同時に気圧が戻ってきた。
「ふぅっ……はぁ……ふぅっ……はぁ!」
貪りたくなる気持ちを抑え、肺に酸素が十分行き渡るよう深く呼吸を繰り返す。宇宙服の中も徐々に与圧されていき、中耳の圧平衡ができるようになる頃には頭痛もだいぶ治まってきた。
とはいえ、依然として無限の奈落へ落下している状態に変わりはない。ヘルメットの中から周囲を見回すと〝空飛ぶ円盤〟の中にあった保存容器や実験器具が重い物も軽い物も、大きな物も小さな物も、皆一様に落ちていくのが見えた。
小学校の頃に習った等速直線運動というやつだ。重力も空気抵抗もない宇宙空間では外力が働かない限り、決して止まることはない。
その中に例の女の子が眠るカプセルもあり、透明な結晶の部分が宇宙の闇の中で白く輝いているのが見えた。先に宇宙に投げ出された分、カプセルは遥斗の遥か前方をゆっくりと回転しながら落ちていく。その先にはトラックほどもある巨大な岩石が帯状に広がっていた。
小惑星帯だ。自らが輝くことは無い小さな星々が集まり、岩礁のように待ち構えている。
このままでは少女が眠るカプセルがぶつかってしまう。しかし遥斗が彼女に追いつくためには外力が必要だった。
「クソっ……!」
遥斗は悪態をつきながらもヘルメットから伸びるチューブを掴んだ。
作用と反作用――これも小学校の理科で習ったことだ。宇宙空間において前に進むためには、代わりに何かを差し出さなくてはいけない。
この送気管を引き抜けば、圧縮された酸素が推進剤の代わりになる。だがそれはせっかく拾った命をむざむざ捨てる行為だ。
そこまでして、あの娘を助ける義理が自分にはあるのか? そもそも本当に生きているのかすらも分からないではないか……。
水滴でくもったヘルメットの中で様々な感情や考えがぐるぐると渦巻き、遥斗の手を鈍らせる。チューブから指先を離しかけた遥斗の脳裏に最後に浮かんだのは、死んだように眠る女の子の寝顔だった。
「――紫乃!」
本人ではないと頭では分かっていても幼馴染の顔と重なり、胸を締め付ける。
揺れる向日葵――。
燻る蚊取り線香――。
さざめくひぐらし――。
様々な思い出がフラッシュバックし、遥斗の右手はチューブを引き抜いていた。
ヘルメット内に赤い警告灯が灯ると同時に体が加速する。空気の漏れる音は聞こえないものの、ガラスの内側にデジタル表示されたグラフは酸素が確実に減っていってることを表していた。
今度はできるだけ肺に空気を留めたまま、カプセルを目で追う。と、その時、鋼鉄製の保管容器が眼前に迫り、遥斗は慌ててチューブの向きを変えた。
「くそっ!!」
空気抵抗がないせいで少しブレただけでも反動は大きく、遥斗の体は木の葉のように宙を舞った。上下左右が激しく入れ替わる中、表示されたデジタルグラフは既に半分を切っている。これ以上、酸素を無駄にする訳にはいかない。
遥斗は送気管の先端を押さえて酸素の漏出を止めた。
そのまま遠心力と慣性に身を任せ、無音の闇の中を転がり落ちていく。その時、目の端に巨大な金属の塊を捉えた。
UFOの中にあった手術台だ。いくつものライトを円盤状に並べた照明が鈍く輝いている。あんなものにぶつかったら、いくら丈夫な宇宙服でもタダでは済まないかもしれない。
しかし遥斗はあえて避けずにぶつかる瞬間、両足でおもいっきり手術台を踏みつけた。
「ぐっ、うぅっ――!」
足首から脛にかけて鈍い痛みが走るが無視して、再び酸素を噴射する。
慣性と遠心力が推力に変換され、遥斗の体は砲弾のように飛び出した。宙を漂う他のデブリを追い抜き、カプセルに向かって一直線に突き進む。
〈あともう少し……〉
既に女の子の顔が見えるほどの距離にまで縮まっていた。進路上に障害物になりそうなデブリも見当たらない。
だが遥斗の体の方が先に限界を迎えてしまった。
〈苦しい……もう、限界だ……!〉
手術台を踏み台代わりにした時にどこかの骨を折ったのか、ズキズキとした痛みと共に脂汗が吹き出し、呼吸が浅くなる。その分、ヘルメット内に残った酸素が消費され、息が続かない。
徐々にぼやけていく視界の中で遥斗はカプセルに向かって痺れ始めた右手を伸ばす。
〈紫乃……〉
目の前が真っ暗になった次の瞬間、指先がコツンと固いものに触れた。
「え……?」
おもわず目を開けると、すぐ目の前に女の子の眠るカプセルが浮かんでいた。
まだ数百メートルは離れていると思っていたが、軽く失神しているうちに追いついたらしい。
遥斗は慌ててカプセルにしがみつき、送気管をヘルメットに繋ぎ直した。
酸素が再び内部に供給され始め、徐々にクリアになっていく視界の端を小惑星が流れていく。
遥斗がカプセルにぶつかった衝撃で、二人はきりもみしながら小惑星帯へと突っ込んだ。
先ほどのデブリとは比べものにならないほど巨大な岩石がそこかしこに漂い、音も無く脇を通り過ぎるたびに生きた心地がしない。
「ヤバい、なんとかして止めないと!」
とはいえ、逆噴射するだけの酸素はもう遥斗には残されていない。ヘルメット内に表示されたグラフは既に赤く表示された領域に差し掛かっていた。
望みがあるとすれば、目の前のカプセルしかない。見たところ、内部には十分空気が供給されているようだし、宇宙服と違って姿勢制御用のスラスターのような物が装備されている可能性だってある。
遥斗はそのわずかな望みにかけてカプセルを覆う透明な結晶をおもいっきり叩いた。
「起きろ! おい、アンタ! 生きてるなら、起きてくれ!!」
しかし機械の棺に横たる眠り姫は一向に目を覚ます気配が無い。遥斗は例の刻印を押したり、結晶部分をこじ開けようとしてみたがいずれも徒労に終わった。
「お願いだ! このままじゃ俺もアンタも死んじまうんだよ!」
伝わらないと分かっていても呼びかけずにはいられない。
遥斗の声は徐々に大きくなっていき、眼前に五メートルを優に超える巨大な岩塊が迫ってきた瞬間、悲痛な叫びに変わっていた。
「このっ――! いい加減に起きろよ、紫乃ぉーー!!」
恐怖のあまり、自分でも何を口走っているのか分からない。
だが遥斗は初めて彼女と目が合った。
どこまでも蒼く澄んだ瞳――。
その左目が光ったかと思うと次の瞬間、目の前の小惑星が音もなく爆発四散した。
「くそっ! 今度はいったいなんだ!?」
熱波と石塊が体にぶつかる中、遥斗は信じられないものを見た。
〈蝶だ……〉
カプセルの背面から展開された二対四枚のソーラーセイルは、さながら虹色に光る蝶の羽を思わせる。〝高次光圧推進《HPLクラフト》〟によって回転モーメントが打ち消され、カプセルの端にしがみついていた遥斗ごとその場に静止した。
しかしホッとしたのも束の間、運動を止めたことで今度は他のデブリが矢のように降り注ぐ。
「危ない!」
おもわず頭をかばう遥斗とは対照的に彼女は寝ぼけ眼で迫りくるデブリを眺めていた。
その数三十と八――。
カプセルの結晶部分に同じ数だけロックオン表示が映し出されたかと思うと、次々にデブリが爆発する。彼女の瞬きは断頭台の閃きに等しく、蒼い左目から放たれたビームがまたたく間にデブリを撃ち落としていく。
遥斗はまるで音の無い花火を見ているようだった。
爆発音も爆風も無い……。蒼い瞳が一瞬、光ったかと思うと小さな火球が星空を彩った。塵とガスの雲が周囲に広がっていき、光と破壊のイルミネーションに鮮やかなヴェールを添える。
と、その膜を突き破って〝空飛ぶ円盤〟が現れた。
動力が壊れてしまったのか、初めて見た時の迫力は既に無く、止まる寸前の独楽のようにフラフラと揺動を繰り返している。
それでも今までのデブリとは比べ物にならない大きさとスピードだ。彼女が破壊の眼光を何度向けても、表面がわずかに削られるだけでビクともしない。
〈もうダメだ……!〉
今日だけで何度そう思ったか分からないが、遥斗は神様に祈らずにはいられなかった。
一方、彼女の方も諦めてしまったのか、光る羽が消えてしまう。同時にカプセルを覆っていた結晶構造が左目の部分を中心にレンズ状に変化した。
〈ヤバい……!〉
嫌な予感がして遥斗が目をつぶった次の瞬間、蒼い光が槍となって宇宙の闇を切り裂いた。
目を瞑っていてもなお眩しいビームが〝空飛ぶ円盤〟を串刺しにしたかと思うと、そのままピザでも切り分けるかのように縦横に切断していく。
遥斗は赤く溶けた切断面を見せながら円盤の破片がすぐ横を通り過ぎていくのを信じられない思いで見ていた。
見上げれば、女の子の左目からはまだビームが放射されている。いちいち撃ち落とすのが面倒だとでも言わんばかりにぐるりと周囲を見回し、小惑星帯ごと薙ぎ払った。
火球の花が咲き乱れ、赤々と熱を帯びた塵が漂う地獄のような光景を前に、遥斗は初めて周囲に空気が無いことを感謝した。これが大気圏内だったなら、爆発音と熱風でとっくに死んでいただろう。
やがて女の子のまぶたも徐々に重くなっていき、かすかな残光を最後に再び閉じられたのだった。
その寝顔は穏やかで、とても目からビームを出して破壊の限りを尽くしていた人物とは思えない。あるいは、安眠を邪魔されて癇癪を起こしただけだろうか?
「そういえば、紫乃も寝起きは機嫌が悪かったな……」
そんな事を思い出しながらカプセルの中を覗いてると、透明な結晶構造に亀裂走った。ビームの衝撃に耐えられなかったのか、マズいと思った時には蜘蛛の巣のようにヒビが広がり次の瞬間、音もなく砕け散る。
「紫乃!」
破片と共に宇宙に投げ出された女の子の手を掴んだ。
「大丈夫か!?」
既に女の子は目を覚ましており、蒼い瞳を遥斗に向けていた。
彼女の目は左目だけがサファイアをはめ込んだように蒼く透き通っていて、見ているだけで吸い込まれてしまいそうだ。
「――いやっ、そんなことよりもヘルメット!」
無酸素・ゼロ気圧状態だというのに、女の子は気にした様子もなく遥斗の顔をじっと見つめている。白く整った顔立ちと相まって彫像のようだが、握った手は確かに柔らかく生きている人間のものだ。
遥斗は慌てて宇宙服のヘルメットを彼女の小さな頭にかぶせた。
一瞬、呼吸をしていないんじゃないかとも疑ったが、すぐにヘルメットの内側が曇りだしたのでホッと胸を撫で下ろす。
「アンタ、名前は? どこも怪我してないか? どうしてあのUFOに?」
生命の危機を脱した反動と自分以外の人間にようやく会えた安堵感から矢継ぎ早に質問を浴びせるが、すぐにそれが無駄だと悟る。
宇宙には空気がないため、ヘルメットの内側でいくら叫んだところで伝わるはずがない。それどころか、言葉が通じるかどうかも遥斗には分からなかった。
髪の色以外、見た目は地球人と変わらないが、目からビームを出せる人間なんて地球には居ないはずだ。
「はぁ……まったくなんで俺がこんな目に……」
緊張が解けると同時に疲労感がどっと押し寄せてきて、遥斗はその場に仰向けに倒れこんだ。
〈今頃、父さんと母さんはどうしてるかな……?〉
小さな島で大学生が忽然と消えたんだから、事件になっている可能性もある。あるいは、いつものように研究所にこもりっきりで、息子が消えたことに気付いていないかもしれない。
地元の高校は甲子園にコマを進められたんだろうか?
無重力の海に漂ったまま、取り留めもない考えが浮かんでは消えていく。
ふと視線を感じて目を開けると、例の女の子が顔を覗き込んでいた。
右目は灰色がかっており、左目だけが蒼く輝いている。
直前まで両親の事を考えていたせいか、宇宙の闇の中に浮かぶその色は故郷《地球》を思わせた。
ガラにもなくセンチメンタルな事を考えていると彼女の顔が更に近付いてきて、コツンとヘルメット同士がぶつかる。
「私はCIVI――アナタは誰?」
ヘルメットの振動を通して彼女の声が聞こえ、遥斗はドキリとした。
言葉が通じたのもそうだが、抑揚に乏しく、少し舌っ足らずな声は紫乃に似ている気がする。
遥斗が同じように返事をしようとしたその時、ヘルメットの硝子部分に巨大な深海魚が映り込んだ。虹色の燐光を放つ四枚のヒレをなびかせ、水晶と鋼鉄でできたその魚は優雅に宇宙の闇を泳ぎながら遥斗達の方へと真っ直ぐに近付いてくる。
その〝極光〟の名を冠する宇宙船が更なる未知との遭遇と冒険へと誘うのだが、この時の遥斗には知るよしも無かった。
【地球まで残り十二万七百光年】
>第二話に続く
宇宙で出逢った遥斗とシヴィ。
二人は巡視船〝ノーザンライツ〟に収容され、スパイ容疑で尋問を受けることになる。
地球の科学水準を遥かに凌ぐ高度な技術を持った星間国家とそこに所属するカノン達〝港湾局〟とは?
次回『第二話・未知との遭遇』




