68、ヘンリーの主張
「どういうことです?」
「君の欲することがよく分からないのだよ。そう思えば君だって隠し持っている裏があるのだろう?」
僕は不穏な言葉に眉をひそめた。彼は少し考えてしゃべり出す。
「この時は、同じ研究者として筋道立てて話した方がいいのかな。私は森に住む者たちには十分な補償をするといった。君の婚約者は樵の娘と言ったね。私は別に彼女たちの仕事を奪おうとは思っていない。けれども君はそれが不満だという。君の性格からしてお金が足りる、足りないという問題ではないのだろう。そして動物愛護やシャーマニズムなぞ君みたいな慎重な者がむやみに信じるとは思わない。だとしたらそのきっかけは? 私への怒りは何なのだ?」
「何を…」
この男は何を知っているのか…。一瞬たりとも離されることのない瞳が蛇のように僕の動きを封じ込める。
「結論から言えば君は森に人を入らせたくない。それではなぜ人を森に入らせたくないのか。何でも君一人だけがこの呪われた森を通り石炭を掘り出すための解決策を見いだしたそうではないか。その時、君に会ったとされる樵とその娘である君の婚約者。けれども、誰もその樵とやらに会ったことがない。ならば、美人な娘だけが一人で森に住んでいるのだろうか。いや、それはないだろう。森には狼などの危険な動物もいる。もしも、人間の若い女ならばの話だが」
目の前に据わる男に対してじわじわと冷たい恐怖が這い登ってきた。口の中がカラカラに乾いて、喉が焼け付くようだ。彼は既に確信している。彼の言葉を聞きたくないが、ここを動くことが出来なかった。
「…この辺りではどうもエルフの伝説が多く残っている。彼らは森に住んでいて、自らの住処を守るために人間をよせつけないのだという。もちろん子供だましや嘘らしいのも多々あるが、こうして今まで残ってきた話なのだから少しぐらいは真実が含まれているかもしれないと私は思った」
そこでようやく僕は聞き返すことが出来た。
「…あなたのような方が嘘の塊とも言われる伝説を信じるのですか?」
「最初は私だって信じられない思いだったよ。けれど私は実際にこの目で見てしまった」
ヘンリーのチェックメイトだ。
「以前、君が婚約者に会いに行ったのだろう。その時偶然私も見てしまった。彼女の耳が人間では考えられないほど異常に鋭かったのをね」
しばらく、沈黙がその場を支配する。心臓だけがうるさくなる。今や、ヘンリーの灰青色の瞳に温かさは微塵もない。
「彼らが狼によって人を襲わせた黒幕なのだろう。知能がなければ、獣たちを使い首尾よく人間に襲いかかることは出来ない。これらを見れば、彼らをかくまってきた君こそが裏切り者だ。ただ、婚約者を愛するがために異種族に魂を売ったと十字架に晒されてもおかしくない」
「エルフは自分たちの森を守るために…」
「だから人間を殺してもいいというわけかい? そういって彼らに殺された人たちが納得するとでも?
これは神の道に悖る行いだ。クリストファー、君は人間なのかい、それともエルフなのかい?」
僕は言い返せなかった。ヘンリーは正しい。けれども僕は言い募る。
「…僕はどちらの敵でもありません。自分の意志に従って行動したまでです」
「それが一番、いけないのだ」
「僕は公平の目に基づいて、人にも森にも接しています。そして、森は元々彼らの物であるから人間は手を触れないと考えたまでです」
「公平な目? どうだろうね」
ヘンリーは笑った。
「クリストファー、人間が人間でいる限り公平でいるなんてありえないのだよ。公平というが、何をもって公平の基準にしているんだい? 基準すら人それぞれ違うのだから。それでも私たちはそんな中で経営者として人を納得させるような理論を作らなくてはいけない。だからクリストファー、取引をしよう。それが一番、私たちにとっては公平な場だろう? 自分の能力だけによって勝負を決められるのだから」
彼は長い指で椅子をさした。
「座ったらどうだい。君が本当に自分の言っていることの方が正しいと思うならその舌で私を納得させてみてくれ」
勝てるわけない。相手は何年も経験を積んだプロだ。
「ヘンリー殿。あなたは自分も相手も得するような最善の道をつくることで有名だ。けれども、今あなたは完全にエルフや森の意思を無視している」
「彼らは人ではない。しかも、我らの方から見ると、彼らは森に入る人間を惑わせ、時には殺した。森を切り、彼らを絶滅させるとなれば我らも儲かり、ここに住む者ももはや見えない恐怖に怯えることはなくなる」
「そんな、それは人間のエゴだ!」
叫んだ僕にヘンリーはため息を付いた。
「クリストファー、君は感情的になっている」
風が二人の髪をゆらす。
「例えそれにエゴだと名付けたら、我らに出来ることは何もない。最低限の暮らしを営んでいくにも、我らは他の生き物から命をもらっている。それを人間の我が儘だといったらどうなるのだ? 生きているだけで罪になるのかい? 同じようにこの世界で暮らしていくのにはある程度、周りに迷惑をかけないといけない。私はこのエゴは仕方のない物だと思う」
「…もっと、もっといい方法があるはずだ」
「そうかもしれないな。けれどももう決定したことだ。君がこれ以上、私に正当な提案がなかったならばね」
呆然とする僕に対してヘンリーはあっさりと立ち上がった。これ以上、どう言えばいいのだろう。僕はどうすればいい?
「もし君が求めるならば、ちゃんとした補償を払おう。けれども、山は諦めてくれ」
「…嫌です」
「クリストファー」
男は心底あきれかえったように言った。
「君はまるで子供だな。それじゃあ、もっと簡単な言葉で言おう。最高責任者はもう君じゃない。私だ。君はもう部外者だ。この件にはもう口出ししないで欲しい。それでも邪魔をするならば強硬手段でここから追い出す。結婚式が行えるかどうかは君次第だ」
ギリギリと握った手から血が出ているに違いない。悔しい。しかし、目の前の男は静かに宣言した。
「クリストファー、これは命令だ」
そして、顎で僕のまとめられた荷物をさした。
「君の荷物も早々に片づけてくれ」
ヘンリーも黙々と自分の書類を整理しようとしたとき、ドアが控えめにノックされた。
「どうぞ」
ゆっくりと扉が開かれて姿を見せたのは母であった。




